リーマンの1日10題
07.ご飯にする?お風呂にする?それとも…
岡野との交流で、豊田の気持ちは徐々に軽くなっていった。
それが、雰囲気にも現れてきたのだろう。今まで敬遠気味で寄り付かなかった現地スタッフも気軽に声を掛けてくれるようになった。
岡野とは、週に2、3度の割合で一緒に過ごすようになった。
お互いの家に行って、料理を作って呑む事が多かったが、たまには気分転換に外の店で食事をすることもあった。
岡野のお陰で豊田も少しは料理を覚え、岡野に分けて貰った味噌と出汁で朝の味噌汁くらいは作るようになっていた。
尚樹と暮らしていた間は、尚樹が料理上手なのをいいことに殆ど何もしなかった。いや、その前に僅かの間一緒に暮らしていた相手の時も、料理など作ったことがなかった。
思えば、自分にはいつも思いやりが足りなかったのかも知れない。
今更ながらに、豊田は自分のことを振り返っていた。
それも、やはり岡野のお陰だろう。
彼と付き合うようになってから、豊田は自分が少しずつ変わってきたような気がしていた。
「今日はウチへ来ませんか?昨日、市場へ行ったんで肉を買って来たんですよ。焼いて食いましょう」
仕事が終わって豊田が声を掛けると、いつもはすぐに頷いてくれる岡野が返事をするのを少々躊躇った。
「あ…、何か用がありましたか?済みません、私のことは気にしなくていいですよ」
慌てて豊田が言うと、岡野は首を振った。
「いえ…。用って程でもないんです。有り難くお邪魔しますよ」
僅かに笑みを見せて、岡野はそう言った。
「そうですか?本当に、何かあるなら其方を優先してください。私、最近ちょっと岡野さんに付き纏い過ぎてますよね」
苦笑しながら豊田が言うと、珍しく岡野の頬に僅かに朱が差した。
「そんなこと思ってませんから」
強張った岡野の顔を見て、豊田は余計なことを言ったのかも知れないと思った。
「そうですか?…それなら良かったけど」
自分は人への気遣いが足りないと反省したばかりだったが、岡野がいつもと何処か違うことを今度も見逃しているのだろうか、と豊田は思った。
余り口数の多い方ではなかったし、2人でいても会話らしい会話が無いこともある。だが、今日の岡野は、いつもよりも更に無愛想な感じに見えないことも無かった。
もしかすると、何か心に屈託があるのかも知れない。
だが、それを此方から訊ねるほど、自分たちが深い関係だとは豊田は思っていなかった。
部屋に着いて、豊田はすぐに台所へ立った。
いつものように、岡野も手伝う為に一緒に台所へ入って来た。だが、その岡野を振り返って豊田は言った。
「野菜と肉を切るだけだし、たまには1人でやりますよ。岡野さんは休んでて下さい。ビールは冷蔵庫に冷えてますから」
「いや、手伝いますよ」
そう言った岡野を振り返ると、随分汗を掻いているのが見えた。豊田は笑いながら首を振ると言った。
「いいですよ。それより支度が出来るまでの間、良かったらシャワーでも浴びてくるといい。随分、汗を掻いてますよ」
豊田に言われて、初めて気付いたように、岡野は自分の額から汗を拭った。
「そんな…、悪いです」
「遠慮しないで下さい。どうせ、そんなに綺麗に掃除してある訳じゃないし。それで良かったらどうぞ。タオルは棚にありますから」
「…ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて…」
まだ躊躇いがあるようだったが、岡野はそう言ってバスルームの方へ歩いて行った。
豊田はテーブルを片付けてホットプレートを用意すると、肉と野菜を切って載せた皿や、取り皿などを運んだ。
焼肉のタレは現地で調達したものだったので、口に合うか心配だった。
だが、醤油を混ぜれば、大抵のものは食えるようになる。念の為に醤油を用意して、それをタレの瓶の隣に置いた。
それから、新しい下着をクローゼットから出し、自分には少し大き目のTシャツを見つけて、それをバスルームへ運んだ。
「岡野さんっ、私ので良ければ着替えを置いておきますのでっ」
シャワーの音に消されないように少し声を張って豊田が言うと、パタッとガラス戸が開いて濡れそぼった裸の岡野が姿を見せた。
「そんな…。そこまでしてもらっちゃ申し訳ないです」
いい身体をしている、と前から思っていたが、豊田は一瞬岡野に見惚れてしまって、すぐには言葉が出なかった。
程よく付いた筋肉の張りが綺麗だった。何時もは無造作な髪が濡れて後ろへ撫で付けられている。その所為で、何時もは全部が見えない形のいい眉がはっきりと強調されて見えた。
濡れている所為で、浅黒い肌の滑らかさが余計に際立って見える。“若いのだな”と、豊田は改めてそう感じた。
さすがに下半身に視線を落とすほど不躾ではなかったが、豊田は照れ隠しに持っていた着替えを必要以上に振った。
「いや、遠慮しないで下さい。下着は一応新しいのですけど、シャツは着古しですから」
「…すみません。じゃあ、有り難く…」
「ええ。どうぞ、どうぞ。ここに置いておきます」
岡野が頷くと、豊田は籠の中に着替えを入れてバスルームを出た。
「重症だな…」
呟いて、ドアに背中をつけると豊田は目を閉じて息を吐いた。
不審な態度を取って岡野に嫌われたら困る。
岡野が居てくれるお陰で、尚樹のことを思い出す回数が徐々に減ってきたのだ。
トッ、トッ、と鼓動を早めた心臓の上に手を置き、豊田はもう一度深く深呼吸をした。
台所に戻り、冷蔵庫からビールを2本出して居間に入ると、丁度岡野も濡れた髪を拭きながら入って来た。
「ありがとうございます。さっぱりしました」
「そう、良かった。じゃあ、呑みましょう」
ビールを1本手渡すと岡野は頷いたが、椅子に座る前に何故か少しふらついた。
「岡野さん?」
驚いて豊田が近寄ると、岡野は苦笑しながら言った。
「まだ、呑んでないのに、酔うなんて早過ぎですね」
だが、どうも様子がおかしいと思い、豊田は岡野の背中に触った。
「熱い…。熱があるんじゃないです?」
岡野の肌の余りの熱さに、豊田は驚いて訊いた。だが、岡野はすぐに首を振った。
「いや、そんなことないですよ。湯上りだからだと思います」
だが、豊田は岡野の答えを信用しなかった。すぐに手を伸ばすと、彼の首筋に手のひらを押し当てた。
「凄い熱ですよ。自覚があったんでしょう?済みません、誘った私に気を遣ってくれたんですね…?」
そう言いながら豊田は岡野の顔を見た。
誘った時に躊躇ったのは、きっと具合が悪かったからに違いなかった。
「いや…。そういう訳じゃありません。俺が、来たかったんですよ。済みません…」
何故、こんな高熱を押してまで、岡野が自分との時間を持とうとしてくれたのかを考えると、豊田は自惚れてしまいそうになった。
だが思い直して、豊田は岡野を寝室へ行くように促した。
「身体が弱っていると心細くなるもんですよね。…さ、ほら、少し横になった方がいいですよ。氷枕は無いが氷はある。解熱剤も日本から持ってきたのがある筈です」
「いや、いいですよ。迷惑は掛けられませんから、もう、帰ります」
「駄目ですよ。私のベッドじゃ嫌でしょうけど、我慢して横になってください。こんな時に遠慮は無用です」
そう言って豊田は少々強引に岡野を寝室へ連れて行った。
「済みません…。やはり、帰るべきでした」
恐縮しながら、岡野は整えられていた豊田のベッドの端に腰を下ろした。
「いや、来てくれて良かった。大したことは出来ませんが、ひとりで部屋に居るよりはましでしょう」
言いながらタオル掛けを剥がし、豊田は岡野に横になるように促した。
そして、台所へ戻ると、厚手のビニール袋を探し出し、その中へ氷を入れてタオルで包んだ。
解熱剤を探し、水のペットボトルと一緒にそれを寝室へ運ぶと、豊田は横になっていた岡野に近付いた。
穿いていたジーンズをベッドのヘッドボードに掛けて、岡野はタオル掛けの中に入っていた。
こうやって見ると、随分ぐったりしている。異常に汗を掻いていたのも熱の所為だったのだろう。それに気付かなかった自分を豊田は恥じていた。
「さ、薬を飲んで…」
上半身を起こした岡野に、豊田は薬と水を差し出した。
礼を言ってそれを飲むと、岡野は言われるままにまた横になった。
その頭の下にタオルで包んだ氷の袋を差し入れてやり、豊田は上から岡野を見つめた。
「何か食べられますか?まさか、肉は無理でしょうけど…。私にお粥が作れるかどうか…」
不安げに豊田が言うと、岡野は首を振った。
「いえ、気を遣わないでください。少し休ませてもらったら帰りますから」
「いや…。あの、良かったら今夜はここに泊まって下さい。私はソファで寝ますし、岡野さんをひとりにするのも心配ですから…」
豊田の言葉に、気の所為か岡野の頬が少し染まったように見えた。
「ありがとうございます……」
「いや…。こんな異国で、病気になるなんて誰だって不安ですし…。まあ、私じゃ居ても何も出来ませんけどね」
苦笑しながらそう言った豊田を岡野はじっと見上げた。
「いえ…、そんなことないです。心強いですよ」
どういう意味があって、こんなに自分の顔を見つめるのだろうか。そう思って、豊田の胸は鼓動を早めた。
また、勘違いしてしまいそうになる。
恐る恐る手を伸ばし、豊田は岡野の額に手を当てた。
嫌がるだろうかと思ったが、岡野はただ目を閉じただけだった。
「熱いですね……。体温計があれば良かった…」
「いえ…」
そう言った後で少し躊躇い、だが、岡野は結局口を開いた。
「豊田さんの手…、冷たくて気持ちいいです」
「…そうですか?……」
言った後で、我慢出来ずに豊田は唾を飲みこんだ。
ドキドキする。
もっと他の場所に触れても、もしかすると振り払われたりしないのだろうか。
「まだ、開いてる店があるかな…?果物でも買ってきましょうか?或いは、冷たいジュースでも…」
掠れた声でそう言うと、豊田は手を動かし、乱れた岡野の髪を撫で付けるようにした。
すると、フッと目を開いて岡野がまた豊田を見つめた。
「…いえ。…ここに居てください」
そう言った岡野の声も幾らか掠れていた。
頷き、豊田はまた岡野の髪を撫でると、今度はその頬に掌をヒタリと当てた。