リーマンの1日10題
06.ちょっとした、浮気
「寂しさも、慣れてしまえればいいですね…。けど、こればっかりは慣れるってことが無いような気がします」
岡野の言葉に豊田は静かに頷いた。
本当にそうだと思う。
1人でいることに慣れてしまえれば、もっともっと楽になれる。だが、傍らに居て欲しい相手を思わない日は無かった。
「岡野さんも、寂しいんですか?……今の言葉だと、そう感じてしまう」
訊くと、岡野は目を逸らして、また包丁を使い始めた。
「ひとりで居るのが好きな訳じゃない。……気が付くと、いつもひとりだってだけです」
言いながら岡野は苦笑した。
「まあ、豊田さんだってきっとそう思ってるでしょうけど、俺はどうしようもなく不器用だから、上手く人と付き合えないし、仕方ないですよ」
「岡野さんは…」
迷ったが、豊田は正直に言うことにした。何故だか、彼には嘘を言いたくないと思ったのだ。
「最初は、確かに取っ付き辛いですね。でも、みんなに信頼されてるのが分かる。頼もしいし、それに………温かい人だと思いますよ」
岡野の包丁の動きが、一瞬止まった。
だが、顔を上げようとはしなかった。
「そんなのは、寂しさが言わせるんですよ。…それだけ、今までの豊田さんが誰かとの関わりに飢えていたということです」
「…そうかも知れない。けど、嘘じゃありませんよ。この前助けてもらってからずっと、私は貴方に温かさを感じる。…それは、とても心地よい感覚です」
今度は顔を上げ、岡野は豊田を見た。
「……豆腐、奴でいいですか?それとも、湯豆腐にしましょうか?」
暑いこの国で、湯豆腐など食いたいと思ったことは無かった。
だが、岡野と2人、同じ鍋の中の物を食べたいような気がした。
「湯豆腐…、いいですね」
自分の言葉はきっと、さっきから岡野を困らせているのだろうと思った。
自分よりも10も年上のオヤジに、言われて嬉しい言葉はひとつもなかったろう。
だが、顔を顰めることも無く、黙って聞いてくれている岡野を、豊田はやはり温かい男だと思った。
「アツッ…」
口の中の豆腐をほろほろと転がしながら笑うと、岡野も笑った。
そんな些細なことが、今夜はやけに嬉しいな、と豊田は思った。
湯豆腐とジャガイモの味噌汁、それに肉の入った野菜炒めが献立だった。大雑把だったが、味は妙に舌に馴染んだ。
いや、日本の家庭料理に飢えていたことに気づかなかったのかも知れない。そんなことを考える余裕さえ、自分は無くしていたのかも知れない、と豊田は思った。
ビールを注ぎ合い、大して話すことも無く、料理を摘んでは呑んだ。
だが、ずっと前からこうして何度も呑んでいる相手のように、沈黙が嫌ではなかった。
(惚れたのかな………)
追いやっていた疑問を、豊田はやっと自分の中にはっきりと見ようとした。
だが、ほんの僅かの間に、そうも簡単に新しい恋に向かい合えるものだろうか。
幾らか気持ちが楽になったのは確かだったが、自分の中の尚樹への思いが消えたとは思えなかった。
(だったら何だ?浮気?)
そう思って、豊田は心の中で苦笑した。
浮気も何も無い。もう、尚樹は居ないのだから。
尚樹は居ない。
もうそろそろ、その事実をちゃんと受け止めなくては、と豊田は思った。
「岡野さんは、ご両親は?」
岡野をもっと知りたくて、豊田は訊いた。
口の中にあった料理を飲み込み、岡野は答えた。
「父は5年ほど前に癌で亡くなりました。母は元気です。郷里で子供たちに書道を教えてますよ」
「へえ、書道の先生か…。じゃあ、岡野さんも字が上手いんでしょうね?」
豊田の言葉に岡野は少々顔を顰めた。
「いいえ、俺は全く駄目です。反発して習わなかったので、ミミズがのたくった様な字ですよ。今になって、ちゃんと習っておくんだったと後悔してます」
「あはは…。けど、そんなものかも知れないですね」
そう言って、豊田はグラスを持つとビールを口に運んだ。
「豊田さんは……?」
「え?親ですか?」
訊き返すと、岡野は少しだけ躊躇ってから口を開いた。
「いいえ…。別れて来た大事な人は、恋人だったんでしょう?」
じっと見つめられて、豊田は少しだけ怯んだ。
だが、コクッと喉を鳴らすと、ゆっくりと口を開いた。
「ええ……。一緒に来てくれると思ってました。少しも疑うことなく…。だが、あっさりと棄てられた。……私と、……彼の想いは同じではなかったんですよね」
“彼”と言う時に、躊躇わなかったと言えば嘘になる。だがもう、偽っても仕方ないような気がして、豊田は言ってしまった。
じっと顔を見ていたが、岡野は眉ひとつ動かさなかった。
(やっぱり……)
思った通り、岡野はもう分かっていたのだろう。何となく予想していただけに、豊田は彼の態度を見ても、驚かなかった。
「……棄てられた、なんて使っちゃいけませんよ。結婚していない相手に簡単に付いて行けない。怖い…、そう考える人もいるでしょう。不安 が先に立ってしまうこともある。…幾ら好きでも、それだけでは恐怖を拭えないこともある。知っている者のひとりも居ない土地へ付いて行くというこ とは、きっと大変なことだ。付いて来てくれなかったからといって、その人の想いが貴方よりも軽かったとは限らない」
黙って聞いていた豊田に、岡野は少し苦笑して見せた。
「いや、生意気でしたね…、済みません。こんなこと言っても、俺だって実際は良く分からない。人の心の中は、様々ですからね」
その言葉に、豊田は首を振った。
「いや…。そうなのかも知れない。付いて来てくれなかったことで、私は彼に愛されていなかったんだと思い込んでいたのかも知れません。で も…、疑って辛くなるなら、信じて楽になった方がいい。…ありがとうございます。本当に、岡野さんと話せて良かった」
心からそう言うと、岡野は照れたような顔をした。
その表情を見て、豊田は初めて彼が年下なのだと感じた。
(可愛いな……)
そう思って、また心の中で苦笑する。
新しい恋は、もう、そこまで来ているのかも知れないと豊田は思った。