リーマンの1日10題
05.今晩飲まない?……二人だけで。
「…さん。豊田さん?」
声を掛けられて豊田はハッとして顔を上げた。
夢中になっていて気づかなかったが、振り返ると傍に岡野が立っていた。
「あ…?岡野さん…。何か?」
訊くと、相変わらずの無愛想な表情で岡野は僅かに首を傾げた。
「もう、誰も残っていませんよ。……それ」
僅かに顎をしゃくり、岡野は豊田が持っていた書類を示した。
「明日じゃ駄目なんですか?」
「あ…、いや…。別に今日じゃなくても…」
今気づいたようにそう言うと、豊田は書類を机の上に置いた。
「…そう。別に明日でもいいんです…」
「だったら、もう帰りましょう。俺も帰りますから」
「あ…、はい。そうですね…」
書類を片付け、PCの電源を落とすと、豊田は立ち上がった。
入り口で待っていた岡野の所へ行くと、外へ出た彼に続いて豊田も部屋の外へ出た。
岡野は構わずに歩き始めていて、豊田はその背中に向かって思い切って声を掛けた。
「あのッ…」
振り向いた岡野の顔はいつも通りだった。
不審がるでもなく、そして、興味のある風でもなく。ただ、淡々とこちらを見ていた。
「あの…、良かったら、呑みませんか?一緒に…」
言ってしまってから、豊田は急に恥ずかしくなった。
今まで殆ど無視していたのに、ちょっと助けられただけで急に尻尾を振っているように思われないだろうか。
いい年をして、しっかり者の後輩に頼っているように思われないだろうか。
何だか急に気弱になり、考えなくてもいい事を次々と頭の中に並べてしまった。
同僚なのだ。
誘って何が悪い。
そう思う傍から、岡野の返事が怖くて喉が鳴った。
「酒は余り強くないですが…」
言いながら、岡野の口元に僅かに笑みが浮かんだ。
そして、僅かに頷くのが見えた。
「ご一緒します」
ホッとして、豊田も思わず笑った。
「そうなんです?強そうだけどな…」
追いついて並びながらそう言うと、岡野は僅かに苦笑した。
「酔っ払いはしないんですがね。酒量を過すと眠くなってしまって駄目なんですよ。何処でも構わずに寝てしまって、若い頃に随分失敗したんで、気をつけてるんです」
「なるほど…。でも、若い頃って、今だって十分に若いじゃないですか」
豊田が笑うと岡野はまた苦笑した。
「まあ…、学生時代って意味ですよ」
「学生の頃は誰でも無茶をした。恥を掻いた思い出の、ひとつやふたつはあるでしょう」
「そうですね…」
返事をして暫く黙った後、岡野はまた口を開いた。
「少しは…、楽になりましたか?」
訊かれて、一瞬彼を見ると、豊田はまた前を向いて頷いた。
「ええ…。楽になりました」
答えた後で、豊田は躊躇ったが先を続けた。
「…寂しいんですよ。年甲斐も無く…、寂しくて押し潰されそうになる。何の為にここに居るのか分からなくなる…。養う家族も無いんだから、何も会社を辞めたって良かった。…今更、そんなことばかり考えている自分が、無性に嫌になるんです」
何を言っているのか、理解してもらおうとは思わなかった。
ただ、岡野なら黙って聞いてくれるような気がして、豊田は心の中に溜まっていた思いを吐き出した。
そして、思った通り、岡野は黙って聞いてくれた。
店に入るのも何だか嫌だと思った。すると、その心中を察してくれたのか、岡野が自分の家に誘ってくれた。
「でも…」
豊田が躊躇うと、岡野は言った。
「遠慮は無しですよ。遠慮するほどのところじゃないし、大して旨い酒もありません。まあ、外よりは寛げるってだけのことです」
相変わらず淡々とした口調でそう言われ、豊田は誘いを受けることにした。
岡野がどんな生活をしているのか少し気になったこともあったし、確かに今は、外国人だらけの場所で呑むのも嫌だったのだ。
岡野の借りているのは豊田と違って一軒家だった。
集合住宅は少ないし、家賃が安いのでそれは珍しくは無かったが、古い家なのに随分手入れされているようだった。
「綺麗にしてるんですね」
豊田の言葉に岡野は肩を竦めた。
「休日に、やることも無いんでね。掃除くらいしか…」
そう言って苦笑すると、岡野は豊田にソファを勧めた。
「腹減ってますよね?何か作りますから」
「料理も出来るんですか?器用なんですね」
感心すると岡野はまた肩を竦めた。
「必要だから覚えただけです。たまに無性に、味噌汁とか飲みたくなるんでね」
「味噌汁、作れるんです?」
訊くと、岡野は頷いた。
「ええ。日本から味噌と出汁を送ってもらってるんで…。作りましょうか?」
「いいですね」
豊田が喜んで答えると、岡野は頷いてキッチンへ入って行った。
豊田は立ち上がって、部屋の中を歩きながら装飾品や本棚などを眺めていたが、飽きるとキッチンへ入って、今度は料理を作り始めた岡野の後姿を眺めた。
いい身体をしているな、と豊田は思った。
(好みの体つきだ…)
細身に見えて、付く所にはちゃんと筋肉がついている。肩幅ががっしりしているところも男らしい。
草臥れたジーンズとTシャツ姿だったが、片方に腰を落としたラインがセクシーだった。
その腰つきを眺めながら、豊田は苦笑した。
(いかんな……)
すぐにそういう目で男を見るのは止めなければ。折角、同僚と仲良くなる機会なのに、潰してしまいかねない。
今は、恋人よりも、欲しいのは気兼ねしなくて済む友人だった。
「手伝いましょうか?」
声を掛けると岡野が振り向いた。
「じゃあ、野菜を洗ってください」
言われて頷くと、豊田は岡野の隣に立った。
「さっき…、寂しいって言いましたね?」
手元に視線を落として食材を刻みながら、岡野はポツリと言った。
豊田は、一瞬顔を上げようとして思い直し、やはり手元を見たままで答えた。
「ええ…」
「いいですね…。そういう風に、自分の気持ちを素直に言える人……」
今度は顔を上げ、豊田は岡野を見た。
「言えないですよ。普段はね…。本心なんて、言えません。誰にも…」
手を止め、岡野も豊田を見た。
「いつでも隠して生きてる。……でも、苦しくない訳じゃないんです。平気な訳じゃない。岡野さんなら、聞いてくれるような気がして、つい言ってしまった。…何ででしょうね」
笑って見せると、岡野は僅かに困惑を表した。だが、すぐにまた、視線を戻して包丁を使い始めた。
「何だか、口説かれてるみたいですね…。勘違いしますよ」
「あ、いや…。そういうつもりじゃないですよ。大体…、岡野さんじゃ口説く相手が違います」
慌てて否定したが、岡野の表情は相変わらず淡々としていて変化は無かった。
「豆腐は売ってるが、油揚げは無いですね。厚揚げとか、食いたくなりませんか?」
話題を変えた岡野に、豊田は少し不安を感じた。
もしかすると、余計なことを喋った為に自分の性癖に疑いを持ったのだろうかと思ったのだ。
「ああ…、そうですね。厚揚げか…」
言いながら、洗った野菜の水を切り、豊田はそれを岡野に渡した。
すると、珍しく笑みを見せて岡野は言った。
「米には慣れましたか?俺は、最初、全然駄目でした」
笑顔を見るのは何度目だろうか。
そう豊田は思った。
そして、彼に笑い掛けられると鼓動が早まるのに気づいていた。
「……俺は…、今でも駄目ですよ」
見つめながら言うと、岡野もじっと豊田の眼を見つめた。
「慣れるって…、大事だと思いませんか?慣れてしまえば、楽になることもあります」
その言葉を、米のことではなく、豊田は別の意味に受け取った。
「どうすれば…、慣れるんでしょう……?」
すると、岡野は僅かに首を傾げた。
「さあ……?どうすればいいんでしょうね…」
反対に訊き返した岡野に、豊田は答えられなかった。