リーマンの1日10題


08.手を広げて待ってるから

額ほどではないが岡野の頬も熱かった。
伸びかけた髭がチクチクと豊田の掌を刺激した。
馴染みのある筈のその感触が妙に新鮮だった。そして、もっと他の場所にも触れてみたいと思わせた。
手を動かし、彼の首筋に触れようとした時、玄関のベルが鳴った。
豊田はハッとして岡野から手を離すと、ドアの方を振り返った。
「今頃、誰だろう…?」
大体、ここに訪ねて来る人間は配送業者か何かの勧誘ぐらいのものだった。だが、そのどちらも夜になって来る事は無い。
もう一度、自分を見上げる岡野に目をやると豊田は不審そうな顔をしたままで立ち上がった。
玄関まで行き、誰なのか訊ねると、外からの返事は驚いたことに日本語だった。
「雄大…」
名前を呼ばれたことに驚き、豊田は急いでドアを開けた。
そこに立っていた人を見て、豊田は一瞬、夢を見ているのだろうかと思った。
「…尚樹…?」
居る筈の無い尚樹の姿に、豊田は疑うような調子で名前を呼んだ。
すると、緊張した面持ちで立っていた尚樹が急に目を潤ませた。
「雄大ッ……」
抱きつかれ、豊田は反射的に彼の身体を抱き返した。
「尚樹…?どうして……?」
自分は棄てられたのだと思っていた。だからこそ、毎日があんなにも辛かったのだ。
それなのに何故、尚樹はここに居るのだろうか。
突然の訪問の意味が理解出来ず、豊田は戸惑い続けていた。
「ごめん…、俺…ッ。やっぱり、どうしても会いたくて…ッ」
「え…?」
その言葉に驚いたが、まさか何時までも表で抱き合っている訳にもいかない。豊田は尚樹を促して玄関の中へ入れた。
「入って…。どうしたんだ?まさか、私に会いにわざわざ?」
居間の方へ促しながら豊田が訊くと、尚樹はまだ涙の堪った目で彼を見た。
「そうだよ。他にどんな用があると思う?会いたくて来たんだ。…あの時は、ごめん…。素直になれなくて…」
言いながら尚樹は手を伸ばすと、豊田の頬に手を当てた。
「でも、雄大以外誰も知らない土地へ付いて来るのが怖かった。ただのアルバイトでも、仕事もある、友達も居る、馴染みの店もある…。俺にだって他にも大事なものがあるんだって、あの時はそう思ったんだ…」
岡野が前に言ったことを思い出し、豊田は頷いた。
やはり、尚樹は怖かったのだ。それを、自分は分かってやれなかったのだ。
「ああ、分かるよ。今では分かる。…あの時は、私が悪かったんだ。尚樹の気持ちを考えもせずに…。本当に、済まなかったと思う」
「雄大…」
尚樹は両手を伸ばすと、もう1度豊田の身体を抱きしめた。
「俺こそごめん…ッ。日に日に、雄大の居ない寂しさが増して、耐えられなくなった。雄大よりも大事なものなんて在る筈無かったのに…」
そう言うと、尚樹は首を起こして豊田の目を見つめた。
「もう、許してくれない?もう、遅過ぎる?俺、もう1度、雄大とやり直したい。傍にいたいんだ」
「尚樹……」
驚いて、豊田は目を見開いた。
まさか、尚樹がそんなつもりでここに来たなんて思いもしなかったのだ。
そして、岡野が寝室に居ることを思い出し、豊田は慌てた。
「尚樹…、あの…今夜はここへ?」
訊くと、尚樹は眉を顰めた。
「嫌なのか…?それなら、今からホテルを探すけど…」
酷く悲しそうにそう言われ、豊田は慌てて首を振った。
「い、いや。勿論、嫌じゃないよ。…ただ…」
どう説明しようか豊田が迷っていると、尚樹は何かを見つけて彼から両手を離した。
「誰か来るの…?」
言いながら彼が指差したのは食卓テーブルだった。その上に載っている焼肉の支度に、やっと気付いたらしかった。
「あ…、ああ、いや…。実は同僚が…」
「そうなんだ。…じゃあ、俺が居たら拙いよね?」
「い、いや…。そういう訳じゃないんだが……」
歯切れの悪い豊田の返事だったが、尚樹は嫌な顔を見せたりはしなかった。男の恋人の存在を、そう簡単に他人に明かしたり出来ないのは十分に分かっているのだ。
「いいんだ。俺、何処か近くにホテルを探すよ。話は明日にでもゆっくりしよう?…明日なら、大丈夫だろ?」
最後は探るように尚樹は言った。
その不安そうな表情を見て、豊田は胸が痛くなった。
「勿論。明日、ゆっくり話そう」
豊田が笑って頷くと、尚樹もホッとしたように笑みを見せた。
尚樹を送って行って、玄関に彼の大きなスーツケースが置いてあるのに、豊田は初めて気付いた。
尚樹は、もう帰らないつもりで日本を出てきたのだ。それに気付いて、豊田は複雑な気持ちになった。
「何時頃なら、会社から戻れる?その時間に、明日また来るから」
「6時なら戻れるよ。…ホテルまで送ろうか?」
豊田が訊くと、尚樹は首を振った。
「大丈夫。ここに来る途中にホテルがあったの見てきたし、行ってみるよ。…じゃあ、また明日」
「ああ…。気をつけて…」
豊田の言葉に、尚樹は笑みを浮かべて頷いた。
「尚樹ッ」
歩き出した尚樹の背中に、豊田は呼び掛けた。
振り向いた尚樹に、豊田は言った。
「来てくれて…、ありがとう」
もう1度笑みを見せて頷くと、尚樹はスーツケースを転がしながら歩いて行った。
その後姿を暫く見送り豊田が中へ入ると、寝室から出て来ていた岡野がふらつきながらこちらへ歩いてくる所だった。
「お、岡野さんっ、駄目ですよ、寝てなくちゃ…」
急いで傍へ駆け寄った豊田に岡野は首を振った。
「いや、大丈夫です。俺は帰りますから、豊田さんは彼を追って下さい」
「え…?い、いや、いいんです。尚樹とは明日ゆっくり話しますから」
豊田が言うと、岡野は彼の肩を掴んだ。
「いいえ。すぐに追ってください。貴方はずっと彼のことを想っていた。本当は、追って来て欲しいと思っていた。…そうでしょう?」
「わ、私は……」
以前の豊田なら、迷わずに“そうだ”と言えただろう。
だが、今は目の前に居る岡野に心惹かれている。揺れ動く気持ちが、豊田に頷くのを迷わせていた。
「彼もきっと待ってます。豊田さんが追って来てくれるのを…。だから、行って下さい。きっと心細い筈です」
さっき、自分に傍にいて欲しいと言ったことなど、岡野は忘れてしまったようだと豊田は思った。そして、それが酷く寂しい。
岡野の腕が自分に向かって開かれているように感じたのは、やはり勘違いだったのだろうか。
病気の所為で心細くなった心が、誰でもいいから甘えたくなっただけだったのだろうか。
それは、自分ではなくても良かったのか。そう思うと、豊田は自分でも驚くほど落胆するのを感じた。
「大丈夫ですよ。時間はあります。明日、ゆっくり話せる。だから、お願いですからベッドへ戻ってください。……それとも…、同性愛者の私なんかのベッドじゃ気持ち悪くて嫌ですか?」
寂しげに笑って豊田がそう言うと、岡野の眉間にキュッと深い皺が寄った。
「そんなこと、考えてません。……それに…、前から分かってましたから」
やはり、岡野は気付いていたのだと豊田は思った。
そして、それでも変わりなく、自分と付き合ってくれたのだ。
「だったら、横になって下さい。今夜は、どうか私に看病させてください」
「豊田さん……」
躊躇って、岡野は複雑な表情を浮かべた。
「済みません…。こんな時に熱なんか…。本当に、間が悪かった…」
気の毒そうに言った岡野に、豊田は笑みを浮かべた。
「そんなこと無いですよ。さ、ベッドへ戻って。私は何か食べられそうなものでも用意しますから…」
「…ありがとうございます」
今度は素直に頷き、岡野は寝室へ戻った。
用意しておいたテーブルの上の食材を片付け、肉を冷蔵庫へ戻すと、豊田は切ってあった野菜を使ってスープを作ることにした。
尚樹の出現は、本当に思い掛けないことだった。
岡野は自分が彼を待っていた筈だと言ったが、それは多分、ここへ来て数週間の間だけだっただろう。
その後は、ただ尚樹の居ない現実から目を逸らそうとしていただけだった。
そして、岡野との交流が始まってからは、その現実と向き合い、少しずつ尚樹のことを忘れていったような気がする。
尚樹の居なくなった穴に、自分はいつの間にか岡野を嵌め込んでいたのだ。
そう思って豊田は溜め息をついた。
どうしていいのか、本当に分からなかった。
このまま、尚樹を迎え入れることは、もう自分には出来ないだろう。だが、だからと言って岡野に気持ちを伝える勇気も無かった。