水が流れるように
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翌日、禮児は会社で顔を合わせても何時ものように振舞ってはくれなかった。
元々、余り愛想のいい男ではなかったが、それでも明らかに国春を避けている。
昼食も殆ど毎日一緒にとっていたのに、気付いた時には誰かと外に出てしまっていた。
(シカトかよ…?俺だけが悪いんか?)
少々腹が立ったが、考えてみればいつも通りにされても却って戸惑ったかも知れない。それを思うと、禮児は禮児で国春に気を使ってくれているのかも知れなかった。
(俺ぁ、どうすればいい?)
昨日と同じ言葉が頭の中に何度も浮かんだ。
禮児と居た時間は、国春にとって1番居心地が良かったのは確かだった。
それを失うのかと思うと、無性に寂しい。
(親友じゃ、駄目なんか…?)
勿論、駄目だからこその昨夜の告白だったのだろう。
ハーッと、また大きく、国春は溜息をついた。
昨夜は“無理だ”と国春は言った。
だが今、冷静になって考えてみると、“有り得ない”とか“気持ち悪い”とか言う感覚は自分の中の何処にもない事に気付いた。
(でもなぁ、だからって、恋人になれるかって言ったら話は別だろ?)
28年間生きてきて、男にときめいたことなど一度もないのだ。幾ら禮児がカッコいいからと言っても恋愛対象になる訳がない。
このまま距離を置き、そして、友達としての付き合いも綺麗さっぱり無くなってしまうのだろうか。
2人で飲みに行くことも、野球やラグビーの試合を見に行くことも、釣りに行くことも、2度と無いのだろうか。
そう思うと、2人で居た時間は国春にとって余りにも楽しく、そして充実していたように思えた。
「あのう、藤枝さん…」
突然声を掛けられ、国春はハッとして顔を上げた。
傍に立っていたのは、国春が可愛いと思って前から目を付けていた、中島ゆかりという女子社員だった。
「あ……、なに?」
「今晩、良かったらお食事でもしませんか?」
気付くと、みな食事をしに外へ出てしまったらしく、部屋には他に人がいなかった。それでもゆかりは何故か小声になって言った。
「えっ?俺と…?」
思いがけない誘いに、国春は吃驚して彼女を見上げた。
「ええ、もし、お暇だったらですけど…」
恥ずかしそうに頬を染めてそう言った仕草が実に可愛らしい。国春は忽ち相好を崩した。
「ひ、暇です、はい。まったく暇です」
国春が答えると、ゆかりは嬉しそうに笑った。
「良かったぁ。じゃあ、仕事が終わったら駅前のカフェで待ってますから」
「あ、はい。分かりました。必ず行きます」
力強く国春が答えると、ゆかりはぺこりと頭を下げて部屋を出て行った。
「女の子だよなぁ、やっぱり…」
やはり、それが正しいのだ。
国春はゆかりの消えたドアを見つめながら、しみじみと呟いた。
突然、転がり込んで来た、思い掛けないゆかりとのデートだったが、国春は彼女を前からリサーチしてあった店に連れて行った。
気軽にフレンチを楽しめる店で、いかにも女の子が好きそうな雰囲気だった。
多分、禮児とだったら絶対に来ないだろう。
禮児とだったら、もっと気さくで安くて量の多い店を選ぶ。それでいて隠れ家のようなそんな店を探しては、お互いに連れて行くのが楽しみだった。
相手の“やられた”という顔を見るのも、他愛の無い話で数時間を過ごすのも、特別に胸が躍る事ではなかったが、幸せな時間だったように思えてならなかった。
(なんで、ここで禮児が出る…?)
フッとそう思って、国春は心の中で苦笑した。
あの後も、とうとう禮児は国春の方を1度も見ることなく、勿論、仕事のこと以外では口も利かなかった。
この先もずっとこの状態が続くのかと思ったら、なんだか妙に切なかった。
「このお店、凄く素敵…」
思った通り、ゆかりは喜んでくれたらしい。
国春は満足げに笑うと、彼女のグラスにワインを注ぎ足した。
「でも、何で急に誘ってくれたの?」
国春が訊くと、ゆかりは少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「実は私、藤枝さんみたいな逞しいタイプの男の人が好きなんです。でも…、藤枝さんは硬派っぽくて、なんとなく誘い辛かったっていうか…。合コンとかも、余り参加してる様子も無いし、きっと、断られるんじゃないかなって思ってたんですよね」
「へえ……?」
まさか前からそんな風に思われていたとは、国春も悪い気はしなかった。
「そしたら今日、近藤さんがこっそり耳打ちしてくれて…」
「え?禮児が?なんて?」
吃驚して、国春は口元まで持っていったグラスを離した。
「藤枝さんが、私のこと可愛いって言ってたって。だから私、部屋に誰もいなくなった時、チャンスだと思って声を掛けたんです」
「そう…だったの…」
まさか、禮児が彼女にそんな事を言ったなんて思いもしなかった。
いや、何故、わざわざ敵に塩を送るような真似をしたのだろう。
「断られるの覚悟してたけど、OKして下さって良かった…。近藤さんに感謝しなくちゃ」
そう言って嬉しそうに笑ったゆかりを見て、国春も口元に笑みを貼り付けた。
だが、もう心から笑うことは出来なかった。
禮児の行動が分からない。
禮児の心が分からない。
それが、何故か酷いストレスになって国春を襲った。
今まで、禮児の全てを分かっているようなつもりになっていた。
だが、自分は何一つ、禮児の事を分かっていなかったのだと昨夜の事で思い知った。
それもショックだったが、昨夜の告白よりも、今日の禮児の行動の方がより大きな衝撃を国春に与えていた。
(俺を好きだったんじゃなかったか?それとも、ただからかってみただけなのか?)
からかった詫びのつもりで、ゆかりとの橋渡しをしてくれたのだろうか。それとも他に、何か意味があるのだろうか。
ゆかりからの誘いを受けた時、確かに嬉しくて浮かれていた筈だった。だが、今はもう、早く家に帰りたいと国春は思っていた。
早く家に帰って、禮児に電話するのだ。
おまえ、一体何を考えてる……?
ゆかりを家まで送り、国春はアパートに帰って来た。
ゆかりは、次のデートの約束をしてくれるだろうと期待していたのかも知れなかったが、国春は何も言わなかった。
アパートの階段の下で、偶然に隣の片割れと一緒になった。
小奇麗な顔をしたメガネの方で、国春は此方の男が受ける方だろうと勝手に決め込んでいた。
「あ、どうぞ、お先に…」
身体を避けて先を譲ると、髭にシュウと呼ばれているメガネの男は軽く会釈して階段を上り始めた。
コンビニ帰りなのか、手にはレジ袋を下げていた。
下からまじまじと眺めたが、身体だって小さくないし、華奢でもない。少々線が細い感じはするが、女性的でもなかった。
だが、この男が多分、“あの声”を上げているのだ。
そう思うと、なんだか奇妙な感じがした。
目の前の草臥れたジーンズの下には脛毛の生えた脚がある筈だった。いや、夏に短パンでいるのを見たが、確かにちゃんと生えていた。
「うーん…」
思わず口に出して唸ってしまい、前の足がぴたりと止まった。
「なんすか?」
怪訝そうに振り返られて、国春は慌てて首を振った。
「い、いや…、なんでも」
国春が答えると、メガネは袋に手を突っ込んで、缶コーヒーを1本掴み出した。
「はい」
「え…?」
「どうぞ」
「あ、ありがとう…」
礼を言って受け取ったが、相手はにこりともしなかった。
愛想が悪いという点では禮児に通じる所があるな、と思って国春は内心で苦笑した。
「素直になった方がいいですよ」
「え…?」
突然の言葉に国春は驚いて相手を見上げた。
すると、照れ臭いのか僅かに頬が染まっている。それを見て、なんだか国春は微笑ましいような気持ちになった。
「余計な事を考えたら駄目なんです。何が1番大事か、それだけを考える。……そうすると、見えて来るんですよ」
それは、禮児の事を言っているのだろう。
国春は笑みを浮かべると少し首を傾げた。
「それ、体験談ですか?」
すると、相手の頬が益々赤くなった。
メガネは答えずにクルリと背を向けると、残りの階段を足早に上って行った。
不器用そうだが案外純粋な男らしい。
ろくに話をしたこともなかったが、隣の2人は自分と禮児の事を心配してくれていたようだ。
なんだか温かい気持ちになって、国春は貰ったコーヒーの缶をギュッと握るとゆっくりと階段を上り始めた。
結局、昨夜は禮児に電話しなかった。電話ではなく、直接話をしたいと思ったからだ。
昨夜、あれから色々と考えてみた。
メガネに言われたことを思い出し、自分の1番大事なものは何なのか、じっと考えてみたのだ。
どう考えても、辿り着く答えはひとつだった。
今の自分にとって、禮児以上に大事なものは無かったのだ。
(だったら、それでいいのか……?)
大事だったら、大事にすればいい。
それが恋なのかどうかは分からないが、これっきりで失ってもいいとは、どうしても思えない。失ったら、きっとずっと後悔し続けるだろう。
「禮児…」
休憩時間に喫煙所にいるのを見つけ、国春は禮児に声を掛けた。
「デート、上手くいったか?」
国春の目を見ずに、禮児はそう言った。
「ああ、お蔭さんで。だが、次の約束はしなかった」
国春の答えに禮児は唇を歪めるようにして笑った。
「なんで?話してみたら気に入らなかったか?」
「いいや。思った通りの子だったよ」
「……なら、付き合えよ。そんで結婚して、幸せになれ」
不機嫌にそう言い、ギュッと灰皿の中で煙草を押し潰すと、禮児はその場を去ろうとした。
その腕を、国春は素早く掴んだ。
「今夜、ウチへ来いよ。話がある」
そう言うと、禮児はやっと国春の顔を見た。
「今日は残業だ」
「待ってるよ。何時になってもいいから来い」
「……分かった」