祝い酒
非番の日の午後、高倉は縁側に出てだらしなく寝そべったまま、何を見るでもなく役宅の荒れ切った庭を眺めていた。
隣の屋根の上に、三毛猫が一匹こちらを見ている。
だが、目が合うと、ツッと逸らして音も無く歩き出した。
「猫にまで嫌われたか…」
うっそりと呟き、高倉は苦笑した。
昨日、役所からの帰り掛けに花房新太郎から打ち明けられた事が、ずっと高倉の心を占めていた。
「妻を…、娶る事になりました」
そう言った花房に、高倉は、
「そうか」
としか言えなかった。
本来なら、祝いの言葉のひとつぐらい言ってやるべきだったが、どうしても口から出てこなかった。
その意気地の無さが、我ながら嫌になる。
花房は自分より三つ年下で、今年で二十二になった。
相手は、上役の与力の娘で評判の美形だ。
絵草子から抜け出たようだと噂される花房と並べば、さぞかし美しい夫婦雛が出来上がる事だろう。
フッと息を吐き、高倉は目を閉じた。
風が出てきたのか、庭の雑草がさわさわと揺れる音が耳に届く。
花房が亡き父の後を継ぎ、見習いとして奉行所へやって来たのは十六の歳だった。
その、余りの美少年振りに、言われなくてもいい噂話の的にされ、不届きな輩のからかいの種になる事も度々だった。
それらを黙って受け流し、唇を引き結んで耐えている様は痛々しいほどで、高倉は何度庇ってやったか知れなかった。
定回りの仕事をするには美し過ぎる容姿は、邪魔にはなっても得になる事など無かった。
花房はそれを、剣の腕を上げる事で補おうと努力していた。
いつの間にか懐いてしまった高倉に、道場へ通う他にも稽古を頼み、花房はめきめきと腕を上げていった。
だからこそ、今では同僚も手先達も花房をからかったり、影で噂したりする事もなくなったのだ。
その花房の美しさと健気さに、高倉はいつしか心を奪われていた。
「腹が減った…」
ゴロリと仰向けに寝返りを打ち、高倉は呟いた。
今日は、飯炊きに雇っている婆さんも来ない。何か食べたければ、自分で何とかするしかなかった。
「面倒くせえ…」
そう言って、また目を瞑る。
昨日、自分に妻帯する事を打ち明けた時の花房の顔が浮かんだ。
薄っすらと…、 その目には涙が下りていたように見えた。
だが、それは多分、錯覚だろう。
この六年の間、自分の胸の内を、高倉は仕舞い続けたままだった。
言ってどうなるものでも無い。
喉元まで出掛かった想いを、そうして幾度、飲み込んだ事だろうか。
確かに入所当初から親身に面倒を見てやった。だが、最初は、そこに邪な思いがあった訳では無い。
自分も一番下っ端で、年も一番近かったし、やはりその苦労も分かっているつもりだった。
だからこそ触れ合う機会も多くなったのだが、いつの頃からだろうか、その余りにも美しい横顔を眺める度、胸の内が苦しくなるのを覚えるようになった。
もう、大分前の事になるが、一度だけ、高倉は花房の頬に触れたことがある。
道場での激しい稽古の帰り、独り身の自分を気遣い、花房が母親の手料理を振舞ってくれた事があった。
その、心尽くしを堪能した後、花房と彼の私室に入り、何やかやと談笑していた時だった。
文机に肘を突き、高倉の話に笑っていた花房だったが、稽古の疲れが出たのだろう、いつの間にか目を閉じていた。
コクリ、と舟を漕ぎ揺れる花房の身体をそっと抱きかかえると、高倉はその微笑ましさに笑みを浮かべながら、彼の体をゆっくりと横たえてやった。
そして、ふと、その白い頬に指を伸ばした。
触れると、柔らかな産毛が、指にふわり、と微かな弾力を感じさせた。
そして、その後に、しっとりとした吸い付くような花房の肌が高倉の指を迎えた。
そっと、ほんの僅かに凹むほどの力で高倉は花房の頬を押した。
それは、たった一瞬の事だったが、遣る瀬無さが込み上げ、高倉は目を逸らした。
このまま傍に座っていたら、多分、もっと何かしてしまうだろうと思った。
高倉は立ち上がると、花房の部屋を出た。
別室に居た母親に、花房が眠ってしまった事を告げると礼を言って花房家を後にした。
「何故帰ってしまわれたんです。起こして下されば良かったのに…」
翌日、顔を合わせると花房は恨めしげにそう言った。
「もっと、高倉さんと話がしたかったのに…」
残念そうにそう言われ、高倉は苦笑した。
「毎日顔を合わせてるんだ、話しなんていつでもしてるだろう」
「それは、……そうですが…」
まだ何か恨み言を言いたげな花房に、高倉は眉を寄せた。
「何か、俺に相談でもあったのか?」
「いいえ。そういう訳では……」
口篭りながら顔を上げると、花房は美しい眉を顰めるようにして高倉を見た。
「ただ、この頃は余りゆっくり話をする機会も無かったので…」
それは分かっている。
何故なら、高倉の方で花房と二人きりになるのを避けていたからだ。
「また今度、ゆっくりお邪魔するよ。母上の料理はとても旨かった。また、馳走してくださいとお願いしてくれ」
高倉がそう言うと、花房は顔を輝かせて頷いた。
「はい、言っておきます」
その顔が余りに眩しくて、高倉は目を逸らした。
多分、一人っ子であるがゆえか、花房は兄の様に自分を慕ってくれるのだろう。
そんな思いが分かるからこそ、高倉は自分の彼に対する感情が後ろめたくて堪らなかった。
「蕎麦でも、食いに行くか…」
億劫そうに起き上がると、高倉は縁側の下駄を引っ掛けて庭に降りた。
少し歩くと馴染みの店がある。
高倉は縄の暖簾を潜ると中を見回した。
時分を過ぎて、客は一人だけだった。
だが、その顔は高倉の良く知っている男だった。小上がりでのんびりと一人酒を飲んでいたらしい。
高倉は僅かに笑みを浮かべると、板の間に上がりその前に座った。
「なんですえ?こんな時分に…」
高倉の顔を見て、相手は些か眉を寄せた。
この男は、自分の顔を見る時、決して笑ってくれた事が無い。その笑顔はさぞかし美しいだろうに、高倉には見せてくれることも無かった。
いつも腹を立てているようなその態度にも、高倉はもう慣れてしまった。
「今日は非番なんだ。婆さんも、孫が熱を出したとかで休みだ」
「ふ…ん」
つまらなそうに頷いた男に、高倉は苦笑した。
「おまえこそなんだ?善。昼間っから酒とはいい身分だな」
だが高倉も、奥から出て来た店の主人に、蕎麦と、やはり酒を頼んだ。
「俺ぁ、もう一仕事終えましたからね。今日はもう店仕舞いですよ」
「そうか…。なら、この後、うちへ来いよ。ゆっくり飲まねえか?」
その言葉に、善次郎は何故かフッと目を逸らした。
「独りで居られねえ訳でも、あるんですかね……?」
「善……」
善次郎はゆっくりと猪口を持ち上げると、高倉を見ようともせずにクッとそれを煽った。
「行きますよ。豆腐でも買って行きましょうか?」
善次郎は廻り髪結いを生業にしている男だったが、その素性には謎が多かった。
出所前の同心や与力の役宅を廻って、その髪を結い整える。数年前まで廻って来ていた初老の男が歳を理由に家業を畳む時に、自分の後釜として善次郎を連れて来たのだ。
腕はいいし、余計な口も利かない。身元は自分が保証すると受け合い、住まいもきちんとしていたので、そのまますんなりと後釜に納まったのだが、皆が驚いたのは、善次郎の面立ちだった。
まるで、役者にでもしたいような、それも女形として舞台に立たせても良さそうな美形だったのだ。
凡そ、髪結いなどにしておくには惜しいような美貌だったが、それに似合わず善次郎は酷く無愛想な男だった。
口数が少ないと聞いてはいたが、此方から話しかけなければ殆ど口を利かない。
だが、確かに腕もいいし、仕事振りもきちんとしていたので不満を漏らす者もいなかった。
髪結いをする前には何をしていたのか、何処の生まれで、親兄弟はいるのか、それらを善次郎の口から聞き出せた者はいない。
訊いても、いつも何と無く受け流されてしまい、とうとう皆、彼の口を割らせる事を諦めてしまった。
だが、その代わりなのだろうか。勝手な憶測で、彼の過去を噂する者が絶えなかった。
少年の頃は色子だったに違いないとか、いや、寺小姓をしていたらしいとか、その美貌の所為か、そんな噂が乱れ飛んでいた。
だが、本人はそれを知っていながら、相変わらず飄々として役宅を廻っていたのだ。
そんな善次郎と、高倉はいつしか酒を酌み交わすようになっていた。
お互い独り者の気安さからだろうか、誘うと善次郎はすんなりと頷き、高倉の家にやってきた。
相変わらず無口だったが、それでも水を向けると少しは話をする。
そして、一刻ほど酒を飲むと帰って行った。
そんな時間を何故か高倉は気に入り、暇があると善次郎を家へ呼ぶようになった。
胸の中にいつもある花房の面影とはまったく異なっていたが、それでも善次郎の美貌は何故か花房を思い出させた。
酒を過ごすと、目の縁がぽうっと桜色に染まるのも同じだった。
それを眺めている内、高倉の内に衝動が湧き上がった。
気がつくと、善次郎を押し倒し、夢中で口を吸っていた。
だが、善次郎は何故か拒まなかった。
まるで、高倉の誘いを受けた時からこうなる事を知っていたかのように落ち着き払っていた。