祝い酒


-3-

「いない?一体、何処へ…?」
あの後、縁側の下駄を突っかけると、高倉は桶屋の善次郎の下へ足を運んだ。
だが、善次郎は出て行ったと、親爺から聞かされた。
「さあてねえ…。訊いても何にも答えねえんですよ。兎に角、荷物を全部纏めてね、ここに戻る気は、もうねえらしい。どうするつもりなんでしょうかねえ…」
さすがに心配そうに親爺はそう言った。
「善……」
高倉は、呆然としてそこに佇むしか出来なかった。
花房の家に角樽を届けた後、善次郎は姿を消してしまったらしい。
今朝、自分の言葉は、また善次郎を傷付けていたのだろうか。
何故、花房に祝いの酒など持って行ったのだろう。そして何故、それを自分からだと偽ったりしたのだろう。
背を向けたままだったその裏側で、一体あの時、善次郎はどんな顔をしていたのだろうか。
それが、高倉は無性に知りたくなった。
「親爺、心当たりはねえのか?」
訊かれて親爺は、また首を捻った。
「あいつぁ、親も兄弟もねえ天涯孤独でねえ…。ここに住んでからも、訪ねて来た人もねえ。ただ、髪結いの腕を仕込んでくれた親方ってぇ人の所へは、時たま挨拶に行っていたようだったが…」
それならば、善次郎の前に役宅を廻っていた男のことだろう。
何処に住んでいたのか、高倉は必死で記憶を手繰り寄せた。



一晩世話になったが、これ以上ここに居る訳にも行かない。
好きなだけ居るといいと親方は言ってくれたが、そう言う自分も隠居して娘夫婦に世話になっている身だ。
善次郎は、今朝にもここを出て、何処かの安宿でも探そうと思っていた。

一目見た時から、高倉には心を動かされていた。

天真爛漫なようでいて、どこか寂しげな目つきをする。
その心の奥に秘めた何かが、高倉に影を落としていた。
やがて、その秘め事が何なのか善次郎は気がついた。

花房新太郎。

男の自分から見ても、うっとりと見惚れるような美貌だった。
高潔な、それでいて、まるで匂い立つ白い百合のような……。
彼を見つめる高倉の眼差しの中に、その答えを見た時、善次郎は自分の心が激しく揺れ動くのを感じた。
だが、そんな全てを善次郎は自分の中に隠し通していた。
求めて、何かが手に入った事など無い。
まだ年端もいかぬ頃から、人の手に汚され続けてきた自分だった。疾うに、夢を見る事など諦めてしまった。
酔った所為か、それともその切ない胸の内に耐え切れなくなったのか、あの夜、高倉は自分を求めてきた。
驚いたが、嬉しく無かったと言えば嘘になる。
どんな理由だって良かった。
あの腕の中にいられる事を、善次郎は嬉しいと思った。
幾ら男を知っているとは言え、もう随分昔の事だった。だから、受け入れる時の苦しさは初めての時とそれほど変わりはしなかった。
だが、それでも辛いとは思わなかった。
生まれて初めて、善次郎は喜びと共にその内に男を迎え入れた。

「そろそろ、行くか…」
当ても無かったが仕方が無い、ただ、高倉の傍から少しでも離れたかった。
善次郎は風呂敷包みを持つと、親方に挨拶する為に部屋を出た。



表障子に大きな瓢箪の絵が描いてある。
それが、探していた髪結いの店だった。
通りを挟んだ向かいで、高倉が足を踏み出そうとした時、半分開け放たれた場所に二人の人が現れた。
それは、前に役宅を廻っていたあの年寄りの髪結いと、そして善次郎だった。
善次郎は親方に何度も頭を下げると、表に出て来た。 高倉は迷いも無く足を踏み出し、その前に立った。
「高倉様……」
善次郎の顔色がサッと変わった。
その手首を掴み、高倉は無言で歩き出した。
「離して下さいっ。なんですよ…ッ」
「いいから来い」
振り解こうとする善次郎の手を力任せに握り締め、高倉はぐいぐいと引っ張って行った。
近くに神社を見つけ、その境内に入り込むと、高倉はやっと善次郎の手を離した。
「何処へ行く気だ?」
詰問する高倉から目を逸らし、善次郎は唇を歪めた。
「何処へ行こうと勝手だ。旦那には、関りありませんよ」
フッと溜め息をつき、高倉はまた口を開いた。
「何故、花房に祝いなんか持って行った?それも…、俺の名前で…」
「旦那は……、花房様にお祝いなんぞ言いたくないんでしょう……?」
「善……」
「本当は、妻なんか娶るなと言いたいんだろ?俺のものになれって、そう言いたいんだ。そうだろうっ?」
段々口調が激しくなり、最後は叫ぶようにそう言った。
その震える肩を、高倉は悲しげに見つめた。
「だから…、だから俺の代わりに祝いに行ってくれたのか……?」
そう訊かれて、善次郎は両手で顔を覆った。
泣いているのかと思った。
だが、撫でる様にして顔から手を離した時、善次郎の目に涙の痕は無かった。
「花房様が、来たんですか……?」
「ああ。角樽を持って、何故おまえが来たのかと俺に訊いたよ」
「それで……?」
「泣いていた…」
それを聞いて、善次郎が顔を上げた。
「……抱いたんですか…?」
その問いに、高倉は笑った。
「まさか…」
その答えを聞いた瞬間、善次郎の顔にさっと朱が差した。
「なんで?なんで、抱かねえんだっ?」
「善…」
驚く高倉に詰め寄り、今度こそ目に涙を浮かべて善次郎は言った。
「なんで抱かねえんだよっ?そうやって、いつまで大事に取っておくつもりだ?汚さねえから、綺麗なまま取っておいたりするから、いつまで経っても棄てられやしねえんだっ…・」
高倉の襟を掴んだ善次郎の手が震えた。
そのまま、悔しげに項垂れると、善次郎は高倉の胸に額を押し付けた。
「なんで……、いつまでも……」
「善次郎…」
腕を伸ばし、高倉はその身体を抱き寄せた。
「なあ、傍にいてくれよ。おめえまで、いなくなるなよ」
「…勝手なこと…、言うねえっ」
「ああ。だが、おめえに行かれちまったら、どうしていいか分からねえんだ」
「ずるいよ…。そんなの、ずるい…」
「ああ、そうだな…。だが、離したくねえんだよ」
首を振り、善次郎は顔を上げた。
顔中が涙で濡れ、目からは尚も溢れていた。
「俺ぁ…、もう嫌だよ。辛くて…。惚れちまったら、もう無理だ。無理ですよ…ッ」
初めて胸の内を晒した善次郎の、その言葉が切なかった。
「寂しかったら、女でも買いなよ。花房様じゃねえなら、誰を抱いたっておんなしじゃねえか…ッ」
だが、高倉は駄々っ子のように首を振ると善次郎の身体を抱きしめた。
「いや、駄目だよ。おめえがいい…。おめえがいいんだ……」
善次郎の口から嗚咽が聞こえ、背中に回された手が高倉の羽織を掴んだ。
「なんでだよぉ…。もう俺を、 がしてくれよ……っ」
そう叫ぶと、善次郎は声を上げて泣いた。



「おめえの笑った顔が見てえんだよ。まだ、いっぺんも見た事がねえ…」
隣に並んだ枕に乗せた善次郎の小鬢から、乱れた髪を指で掬い、高倉は言った。
「可笑しくもねえのに、笑えやしねえ」
不貞腐れたような口調だったが、その顔は情事の後の余韻を残して艶っぽかった。
「おめえが笑ったら、さぞ綺麗だろう」
言いながら頬を突くと、善次郎はぷいっと顔を背けた。
「笑い方なんぞ、忘れちまったよ」
寝返りを打って背を向けた善次郎を、高倉は背後から抱きしめた。
「いつか…、俺がきっと思い出させてやるよ…」
「……出来るもんか」
「泣かせた分……、きっと……」
善次郎の答えは無かったが、胸に回された高倉の手にその両手がそっと当てられた。
「きっと…、な」
もう一度呟き、高倉は温かいその項に顔を埋めた。