イヌ・4
-5-
じわじわと、鳩尾の辺りから何かが込み上げた。瞬きをする度に、小高の長い睫が揺れるのを夏樹は呆然と見つめた。
「昨日も、部活の帰りにマックに寄って色々と喋ってたんだけどさ。ホント、いい奴だなぁって思っちゃったよ。1年なのに、まるで上級生みたいに同学年の奴等もリキを頼ってる所あるしさ。ホント、スゲエよ、あいつ」
身長だけは似ているが、小高は本当に自分とはまるで違う、と夏樹は思った。
自分には出来ない事を、小高は簡単にやってしまう。
素直に隆哉を褒める小高を見て、夏樹は益々自己嫌悪に陥った。
自分は、誰よりも隆哉に憧れて、誰よりも好きな癖に、その気持ちを素直に表せずにいる。
そんな自分より小高の方が、見た目だけでなく性格だって可愛いと、誰もが思うに違いなかった。
そう、隆哉だってきっと、そう思っただろう。
(昨日…、マックに行っただけなんだ…)
もっと、大事な用事だったら良かったと思った。帰りに何か食べていくだけなら、何故自分を誘ってくれなかったのだろう。
自分抜きで、2人きりで居たかったからという他に、一体どんな理由があるだろうか。
また泣きたくなって、夏樹は地面に視線を落とした。
「リキってさ、彼女いるのかな…?」
訊かれて、やっと夏樹は目を上げた。
「…なんで?」
「いや…。放課後さ、リキ目当てに女の子が沢山見学に来てたけど、リキは何だか迷惑そうに見えたから。普通は嬉しいよなぁ、あんなにモテたら」
「そうかな…。あんまり騒がれても嫌なんじゃないかな…」
夏樹の答えに、小高は頷いた。
「そっか。そうかもな…。俺、てっきり、彼女がいるから他の子に騒がれても迷惑なのかと思ったんだけど。…なあ、夏樹なら知ってるだろ?リキの彼女ってウチの学校の子?」
何故、そんなに知りたがるのだろう。知って、どうするつもりなのだろう。
まさか、小高も隆哉の事が好きになってしまったのだろうか。
鳩尾の不快感が、さっきよりもずっと強まった。
夏樹は小高の方を見ずに、早口で答えた。
「リキはまだ、特定の彼女は作るつもり無いって前に言ってたから、彼女は居ないよ」
「へえ?そうなんだ。…ふぅん、そっか…、居ないのか」
何故、そんなホッとしたような声で言うのだろう。隆哉に特定の相手が居ない事が、まるで“嬉しい”と言っているように聞こえるではないか。
それとも、本当にそうなのだろうか。
その後は、学校に着くまで他愛の無い話をして歩いて行ったが、夏樹は意識して答えないと、すぐに気も漫ろになってしまいそうだった。
待っていると言ったのに、それを断って2人だけで出掛けたこと。
隆哉が自分に嘘をついたこと。
そして、小高が隆哉の交際相手を意識していたこと。
それらが示す答えを、夏樹は必死で自分の意識から逸らそうとしていた。
「俺、ちょっと部室に寄って行くから、先に行って?」
校門を潜ると、小高がそう言って部室の建物の方へ走り出した。
今日は朝練が休みだったとすると部室の鍵は開いていない筈だった。それなのに、部室へ寄るというのはおかしい。明らかに、小高の目的は隆哉なのだと夏樹は思った。
「嫌だ…ッ」
頼むから、これ以上、隆哉に近付かないで欲しい。
だが、そんな言葉を本人に言う訳にはいかないのだ。
夏樹の脚は自然に小高の後を追って部室の方へ向かった。
小高と隆哉をこれ以上2人っきりにしたくなかった。
(嫌だ…ッ、嫌だ、嫌だッ…)
昨夜、電話すると言った癖に電話をくれなかった隆哉。
今朝も、朝練があると嘘をついた隆哉。
信じたいと思っていた夏樹だった。信じなければと、必死で思っていたのだ。
だがもう、信じたいと願う気持ちよりも、不安の方が勝ってしまった。
足早に後を追うと、小高は部室ではなく真っ直ぐに道場の方へ駆けて行った。
夏樹には部室に寄ると言っておきながら、やはり、隆哉が居る筈の道場へ行ったのだ。
夏樹は立ち止まって、道場の方を見た。
扉は何処も閉まっているようで、隆哉が中に居るとは思えなかった。もしかすると、もう、稽古を終えて教室へ向かったのかも知れない。
夏樹は、踵を返すと、今度は校舎へ向かって走り出した。
確かめると、隆哉の靴が下駄箱に入っていた。それを見てホッとすると、夏樹は上靴に履き替えて教室へ向かった。
急いだ所為で、少々息が切れていた。
その、荒い息のままで教室に入ると、隆哉が自分の席に座っているのが見えた。
「おはよう、リキ」
「あ、夏樹…、おはよう」
隆哉の表情は曇っていた。
夏樹はその顔を見て、また嫌な予感に襲われたが、努めて明るい表情を作った。
「今朝、基に会ったよ。朝練じゃなかったんだな?」
「あ…、ごめん…。ちょっと、個人的に稽古したくて、今日はひとりでやったんだ」
「そう…。なら、そう言ってくれたらいいのに」
嫌味に聞こえないように夏樹は気をつけてそう言った。
「ごめん…」
「いいけど。なあ、ホントにもう、大変だったら俺のウチに寄るの止めていいんだぞ」
そう言っても、隆哉は大丈夫だと言ってくれるだろうと期待していた。きっと、この前みたいに言ってくれるだろうと思いたかった。
だが、夏樹の耳に帰ってきた答えは、期待したものではなかった。
「…うん。悪いけど、そうさせてもらう。朝、走る時間を増やしたいって思ってたんだ。そうすると、ちょっとキツイし。だから、…ごめん」
「そ…、そうか。謝ることなんか無いよ。元々…俺の我が儘だったんだし…」
拙いと思っても、夏樹は動揺を隠せなかった。幾ら夏樹がいいと言っても、隆哉は笑って大丈夫だと言ってくれていたのだ。
一昨日だって、そう言ってくれたではないか。
あれは、たった2日前のことだったのに。こんなにいっぺんに、何もかもが狂ってくるなんて。
夏休みの間、あれほど互いの気持ちを確かめ合ったのではないか。それは、ほんの数日前のことだったのではないか。
それなのに、まるで永遠かとも思えたあの時の気持ちは、こんなにも脆いものだったのだろうか。
夏樹が何か言おうとして口を開いた時、小高が勢い良く教室に入って来て、元気に挨拶をしながら2人に近付いて来た。
「おはよっ、リキ。まだ、道場かと思って寄ってきたんだぜ」
「あ、ごめん。今日は1人だったし、早めに終わったから…」
「そっか。昨日はごめんな?付き合わせちゃって」
「いや…」
夏樹の目を気にしてか、隆哉はそれだけ言って曖昧に笑った。
隆哉と夏樹に軽く頷くと、小高はまた友達に声を掛けながら自分の席へ向かった。
「リキ…、今日は待っててもいい?」
夏樹が訊くと、隆哉は一瞬、酷く困った顔になった。
答えに詰まる隆哉を見て、夏樹はもう、泣くのを我慢出来なくなりそうだった。
「…迷惑なら、いいよ」
そう、呟くように言うと、答えを待たずに夏樹は自分の席へ着いた。
昼休みになって、夏樹がマナーモードにしてあった携帯をチェックすると、隆哉からのメールが入っていた。
「さっきはごめん。実は今日、主将に頼まれて買い物に付き合う事になってるんだ。買うのが、吉岡さんへの誕生日プレゼントなもんで、ちょっと言い辛くって…。2日続けて付き合えなくて、ホントにごめん。怒るなよ?夏樹。ごめんな?」
その文面を読んで、夏樹は少しホッとした。ちゃんとした理由があって、隆哉は答えを躊躇ったのだ。
安心して顔を上げると、隆哉がすぐ傍に立っていた。
「夏樹…」
心配そうなその顔を見て、夏樹は笑みを見せると頷いた。
「うん。分かった」
夏樹の返事を聞いて、隆哉もホッとした表情を見せた。
「今日は、弁当?」
訊かれて、夏樹は頷いた。
「うん」
夏樹と隆哉は大抵母親が弁当を作って持たせてくれるので、昼は教室で食べる事が多かった。隆哉が自分の弁当を持って夏樹の席へ来ると、いつも一緒に食べる友達と、それから小高も近付いて来た。
「俺も一緒していい?」
「ああ、勿論」
皆が頷くと、小高は嬉しそうに近くの空いていた椅子を持ってやって来た。
「飲みもん、買いに行くー?」
誰かが聞くと、みんなが一斉に頷いた。
「俺、纏めて買って来るよ。何がいい?」
「お、悪いなぁ、リキ。俺、ウーロンね」
「俺もー」
皆から注文を聞いて、隆哉は気軽に立ち上がった。
すると、小高も一緒に立ち上がって言った。
「俺も付き合う。一緒に行こう、リキ」
「あ、うん。じゃあ、行こうか」
連れ立って出て行く2人を見て、女子達が何やらこそこそと話しては忍び笑いを漏らしているのが見えた。
もう、何か新しい噂の種を見つけたらしい。
「ホント、可愛いよね、小高君」
「うん。なんか、隆哉君と居ると妙に絵にならないー?」
「なるなる。誰かさんとは大違い…」
“誰かさん”とは自分のことだろうと、夏樹はすぐに気付いた。
カッコいい隆哉にみすぼらしい夏樹がくっ付いている事を、女子の中には良く思っていない連中もいる。その所為で、過去に苛められたこともあった夏樹だった。
勿論、隆哉のファン以外の女子には嫌われている訳ではないが、2人の凸凹ぶりを面白がる人間は多かった。
「リキって、ちっさいのに好かれんのかね?」
弁当を広げながら、友達がからかうように言った。
いつもなら、気の強い夏樹はそれに対して言い返した筈だった。だが、今日は口を開く気にもなれなかった。
「おい、冗談だぜ?夏樹…」
言い返されるとばかり思っていたのだろう。友達は、何も言わない夏樹に驚いて、慌ててそう言った。
「いいよ。ホントのことじゃん…」
「夏樹…?」
他の友人達も、驚いて夏樹を見た。
夏樹が、“小さい”と言われるのが何より嫌いだという事を、みんな知っている。それだけに、禁句を聞きながら何も言い返さない夏樹に驚いてしまったのだ。
「俺…、なんか頭痛くて…。ちょっと保健室に行ってくるよ」
「え?大丈夫か?一緒に行こうか?」
そう言ってくれた友達に首を振り、夏樹は立ち上がると教室を出た。
頭が痛かったのは嘘ではなかった。
ここ2日、良く眠れなかった所為で本当に頭痛がしていたのだ。
だが、教室を出て来た理由はそれだけではなかった。
何時もは、腹が立つだけの女子達の噂話が、今日は馬鹿に身に沁みて夏樹を落ち込ませてしまったのだ。
小高の出現からこっち、夏樹の心はもう、今にも崩れそうなほど脆くなってしまっていた。
保健室では校医の先生が弁当を食べながら雑誌を読んでいた。
頭痛がすると話すと、体温を計るように言われて、夏樹は体温計を受け取ってベッドに横になった。
電子体温計のピピッという音がして、夏樹は挟んでいた脇の下から体温計を出した。
「7度2分か…。まあ、微熱だわね。少し休んで、調子が戻らないようなら帰りなさい」
「はい…」
夏樹は返事をすると、また横になって目を瞑った。
なんだか、酷く疲れてしまった。
連れ立って出て行った2人の事が気に掛かる。だが、もう忘れてしまいたいと思うのも本当だった。
夏樹はやがて、ウトウトと浅い眠りに落ちた。