イヌ・4


-6-

誰かの掌が額の上に乗ったように感じ、夏樹は薄っすらと目を開けた。
「あ、ごめん…。起こした?大丈夫か?夏樹」
そう言ったのは隆哉だった。
多分、昼を食べ終えてすぐに来てくれたのだろう。
「まだ、昼休み?」
訊くと、隆哉は頷いた。
「うん、あと20分あるよ。夏樹、何も食べなくて大丈夫なのか?なんなら、弁当を此処へ持って来てやろうか?」
「ううん…。いい」
夏樹が首を振ると、隆哉の手がまた額の上に乗った。
「少し、熱があるね。風邪かなぁ…」
「うん…、そうかも…」
こうしていると、隆哉は以前と全く変わっていないように思えた。
もしかすると、本当に全部自分の思い違いなのだろうかと夏樹は思った。
「先生、居るの…?」
訊くと、隆哉は首を振った。
「いや、さっき職員室へ行くからって出て行ったよ」
その答えを聞いて、夏樹は隆哉のシャツを掴んだ。
「じゃ、チューして…?」
「えっ、ここで?」
驚いて、隆哉は一瞬、身を引いた。
「嫌なのか…?」
「嫌な訳ないだろ?」
夏樹の目に涙が溜まったのが見えたのか、隆哉は少々強張った顔でそう言った。
そして、隆哉の身体が屈んで近付き、夏樹の唇にチュッと軽い音を立てて触れた。
すぐに引こうとした隆哉のシャツを、夏樹は急いで掴んだ。
「夏樹…、ここじゃ拙いよ」
その手を掴み、隆哉は困ったような口調で言った。
「どうして…?」
今まで、みんなの目を盗んでは屋上やトイレの個室の中でまで、こっそりとキスした事があったではないか。それなのに、2人っきりのこの場所で、どうしてキスしてくれないのだ。
夏樹は掴んでいた隆哉のシャツを離した。
そして、目を逸らすと、寝返りを打って隆哉に背を向けた。
「もういい…。もう、行けよ」
「夏樹、怒るなよ…」
慌ててそう言い、隆哉は夏樹の肩を掴んだ。
「先生、すぐに帰って来るって言ったんだ。だから…」
隆哉が言い終わらない内に扉の開く音がして校医が戻って来た。
「具合、どう?石橋君」
「あ、はい…。まだちょっと…」
「そう。じゃ、もう1回、熱を計ってみなさい」
体温計を渡されて受け取ると、夏樹はそれを脇の下へ挟んだ。
「夏樹…、俺、教室戻るな?」
「…うん」
夏樹が頷くと、隆哉は背中を向けた。
それが酷く悲しくて、夏樹はまた泣き出しそうになった。


熱は下がっていなかった。
結局、そのまま帰る事になり、夏樹は教室へ荷物を取りに戻った。
帰ると言うと、隆哉が心配して昇降口まで送って来てくれた。
夏樹は、少しでも2人きりで話したいと思っていたが、生憎、小高まで付いて来てしまい、何も言えなかった。
「夏樹、1人で大丈夫か?」
心配そうに言う隆哉に、夏樹は頷いた。
「大丈夫だよ。大した熱じゃ無いし…。ありがと…」
「暑いから、途中でなんか買って飲んだ方がいいよ。気をつけてな?」
「うん、基もありがと…。じゃ…」
夏樹はそう言って軽く手を上げると、2人を残して昇降口を出た。
数歩進んだ所で躊躇いがちに振り返ると、もう2人は戻ろうとする所だった。そして、基の手が隆哉の腕に掛かっているのを、夏樹ははっきりと見てしまった。
サッと目を逸らし、夏樹はまた校門の方を向いて歩き始めた。
グランドには、まだ遊んでいる生徒達がチラホラと見える。その中を、視線を地面に落としたまま、夏樹は黙々と歩いて行った。
「あれ?石橋君、どうしたの?」
道場の傍を通り掛った時、声を掛けられて夏樹は顔を上げた。
すると、道場の扉の鍵を閉めている所だったのか、札の付いた鍵を持って吉岡潤也が立っていた。
「あ…」
夏樹が立ち止まると、吉岡は背負った鞄を見て眉を寄せた。
だが、そんな表情をしても尚、吉岡は綺麗だった。
「帰るの?もしかして、具合悪いとか…?」
「あ、はい…。ちょっとだけど、熱があって。それと、頭痛がするもんですから…」
「そっか。風邪かなぁ?…あれ、リキは一緒じゃないんだ?」
「え…?」
夏樹が怪訝そうな顔をすると、吉岡はクスッと笑った。
「だって、リキだったら、君の事を心配して校門まで送ってきそうじゃない?あの甲斐甲斐しさはホント凄いよな。みんなに良く、“忠犬”ってからかわれてるよ」
その言葉に、夏樹は顔を歪めた。
「もう…、違います…」
「え…?」
泣きそうな顔でそう言った夏樹を見て、吉岡は眉を寄せた。
「いえ…。じゃ、失礼します」
急いで頭を下げると、夏樹は逃げるようにして歩き出した。
「あっ、お大事にッ…」
背中に声を掛けられたが、夏樹は振り向かずに、そのまま頭を下げて歩き続けた。


家に帰って着替えると、夏樹はそのままベッドに入った。
まだ少し熱っぽかったが、眠れる程ではなかった。
熱の所為と感情の昂ぶりで、頭がぼうっとする。おまけに、喉元にしこりのような物があって苦しくて堪らなかった。
泣いてしまえば、多分、そのしこりは表に出てくるのだろう。
だが、夏樹は泣かなかった。
まだ、何も決まった訳ではない。まだ、何一つ知った訳でもない。
だから、きっと泣くのは早過ぎるのだ。
だが、目を瞑ると、隆哉と小高が楽しげに腕を組んで笑っているのが見えた。
それが、例え自分の妄想でしかなくても、夏樹にとっては決して見たくないものだった。
もう、明日から、朝練があっても無くても、隆哉は自分を迎えに来てはくれないのだ。
放課後も、きっともう、待っている事を許してくれないような気がする。
何時になったら、2人きりになれるのだろう。何時になったら、ちゃんと答えが出るのだろう。
このまま、不安を抱えたまま、一体自分は何時までこんな時を過ごせばいいのだろうか。
鬱々とした気分のまま、夏樹は眠ることも出来ずにベッドの中にいた。


隆哉からのメールがあったのは、丁度、授業が終わった頃の時刻だった。
「熱下がった?気分はどう?」
たったそれだけの言葉だったが、夏樹を心配してくれる隆哉の優しさが分かった。
まだ、自分は嫌われた訳ではないのだと、それだけで夏樹は少しだけだが安心した。
「もう、熱はないみたいだ。心配してくれてありがとう」
返信を打つと、また隆哉からの返事が戻って来た。
「じゃあ、明日は学校に来れるね?でも、無理しないで今日は良く休んだ方がいいよ。また、夜にでも電話するよ」
「うん、待ってる」
そう送信して、携帯を閉じると夏樹は呟いた。
「ホントに、ホントに待ってるから…」
手の中の携帯をギュッと握り締め、夏樹はその手を胸に抱えた。
「待ってるから…、リキ…」
母親が帰って来るまで夏樹はベッドの中に居たが、言われてもう一度熱を計ると、もう平熱に下がっていた。


隆哉の電話があったのは、9時過ぎだった。
「もしもし?」
たったワンコールで、夏樹は電話に出た。
それほどまでに、隆哉からの電話を夏樹は待ち焦がれていたのだ。
「夏樹、具合どう?熱は?」
そう訊いてきた隆哉の声は何時もと何も変わらなかった。それが嬉しくて、夏樹の唇には自然に笑みが浮かんだ。
「うん、もう平熱に下がった。大丈夫だよ」
「そっか。良かった…。晩ご飯は?ちゃんと食べれた?昼も食わなかったし、心配してたんだ」
「うん、大丈夫。普通に食えたよ。もう、平気だから。明日はちゃんと学校行くよ」
「うん、良かったよ」
「あの…、リキ…?」
「うん?」
「あ…、あの…。…あ、あっ、そうだ、今日、買い物行ったの?市川さんと…」
訊きたかった事を、夏樹はとうとう口に出せなかった。
このまま、隆哉の答えを聞いてしまったら、そして、その答えが最悪のものだったら、多分、どうしていいか分からなくなってしまう。それだけの覚悟が、まだ夏樹には出来ていなかったのだ。
だが、隆哉の方は、何の疑いもなく夏樹の問いに答えた。
「あ、うん。行ってきたよ。主将も色々迷ってたみたいだけど、結局、吉岡先輩が欲しがってたCDにしたんだ。男だからアクセサリーも興味無いし、服とかも照れ臭くて贈れないって言うからさ…」
「そうなんだ…。でもきっと、吉岡さんも喜ぶよ」
「うん。きっと、主将からなら何を貰っても嬉しいと思う」
「うん…。リキ…?」
「うん?なに?」
「あの…、明日はさ…、待っててもいい?それとも、明日もなんか用事がある…?」
躊躇いがちに夏樹が訊くと、一瞬間を置いて隆哉が答えた。
「いや…、何にもないよ。けど、今日、熱出したばっかりで大丈夫か?明日は早く帰った方がいいんじゃないかな…」
それが、ただの心配から言った事なのか、それとも他に夏樹に待っていられたくない理由があるのか分からなかった。
電話の声だけでは、とちらとも言えなかった。
「平気だよ。もう、何ともないから。…だから、いい?明日は、リキと一緒に帰りたい」
「夏樹…」
必死さが声に現れてしまっただろうかと夏樹は思った。
だが、もう、形振り構っている余裕など夏樹には無かったのだ。
「…嫌なのか?」
震える声で夏樹は言った。
すると、酷く慌てた隆哉の声が答えた。
「嫌な訳ないだろっ?そうじゃないよ。俺はただ、今日だけじゃなくて、昨日から夏樹の体調が悪そうだと思ってたから…」
「心配してくれたの…?」
夏樹が訊くと、何だか少し辛そうな隆哉の声が答えた。
「当たり前だろ…?」
「…うん」
「なあ夏樹、正直に言って?ホントは、俺が無理させた所為で体調悪くなったんじゃないのか?」
思い掛けない言葉に、夏樹は驚いて携帯を耳に当て直した。
「ち、違うよッ…」
「ホント?」
「うん、ホントだって…。じゃ、じゃあ、リキはあの時のこと、気にしてたのか…?」
「うん…、だって、次の日も顔色悪かったし…」
「リキ…」
だから昨日も、早く帰らせようとして待っている事を断ったのだろうか。
そう思うと、夏樹は自分の心の中のしこりが急速に縮んでいくのが分かった。
「違うよ。体調が悪くなったのはリキの所為じゃない。それに、ホントにもう大丈夫だから…」
「そっか。それなら良かったよ」
隆哉は自分を避けていたのではなかった。全ては自分を気遣ってのことだったと知り、夏樹は嬉しくなった。
やっぱり、自分の取り越し苦労だったのだ。隆哉は心変わりしたのではない。今までと、何も変わってなどいなかったのだ。
「じゃあ、明日は一緒に帰ろう?帰りになんか奢るよ」
「いいよ。明日は俺が奢る。心配掛けたお詫び」
夏樹が嬉しそうに言うと、隆哉は笑った。
「うん。なら、明日…」
「うん、おやすみ」
電話を切ると、夏樹はバフッと布団の上に身を投げ出した。
そしてそのまま、ギュッと枕を抱き締めた。
「良かった…ッ」
呟いて、枕に顔を押し付ける。
まるで、湧き上がった喜びが、じんわりと全身を包んでいくようだった。
「良かった…。リキ…」
少し、涙混じりの声で夏樹は再び呟いた。