イヌ・4
-8-
(う…そ……)
息が止まりそうだった。
そして、次の瞬間、ドッドッと恐ろしいほどに心音が早くなった。
耳のすぐ後ろで、自分の血液の立てる馬鹿に大きい音が聞こえた。
(や……)
気が付いた時には、夏樹はそこから逃げ出していた。
闇雲に走り、いつの間にか校門を出て、外の道を走っていた。
呼吸が苦しくなり、立ち止まると、何処かの家の生垣に捕まってゼイゼイと息を吐いた。
何時から泣いていたのだろう。夏樹の頬は涙で濡れていた。
だが、その事にさえ気付いてはいなかった。
「嘘だ…。嘘だよ…、嘘だッ…」
泣きじゃくる合間に夏樹は呟き、何度も何度も乱暴に頭を振った。
だが、どんなに否定したくても、あれは事実だった。
自分は確かに、隆哉が小高とキスしているのを見たのだ。
もう、どうやっても誤魔化せない。自分の悪い予感は、そして想像は、全て現実になってしまったのだ。
もう、どんなに自分に言い聞かせようとしても無駄だった。隆哉の心は、行ってしまったのだ。
だが、それを認めたくなかった。
認めたくなくて、夏樹はもがき続けた。
「夏樹?今、何処に居るの?」
隆哉からそう電話があったのは、夏樹が家に着いてからだった。
「……家だよ」
どうして待っていなかったのか、隆哉は訊かなかった。その代わり、別の事を訊いた。
「お母さん、帰って来た?」
「…ううん。今日は残業みたいだから、まだ…」
「そう…。ちょっと話したい事があるんだ。…今から行っていい?」
「…うん。いいよ…」
夏樹は返事をすると電話を切った。
それまで、部屋のベッドに腰を下ろしたまま、鞄も下ろさずにただぼんやりとしていた。
やがて、玄関のチャイムを押しても夏樹が降りて行かなかったからだろう。隆哉は声を掛けながら階段を上り、夏樹の部屋へ入って来た。
その時もまだ、夏樹はさっきと同じ恰好でベッドの上に座っていた。
手には、携帯電話が握られたままだった。
「夏樹…」
隆哉が前に座って、夏樹の手を取った。
夏樹はただ、隆哉の顔をぼんやりと見た。
そして、その表情だけで、夏樹にはもう、隆哉が何を話しに来たのか分かってしまった。
苦しそうな顔だった。
言いたくない事を、言いに来た顔だった。
だが、言わなければと決意した顔だった。
「夏樹…、実は…」
乾いた唇を何度も舐め、隆哉はやっと言葉を発した。
その途端、夏樹の目からホロッと涙が零れた。
「ヒクッ……」
夏樹の喉が鳴った。
「うっ…うぅっ…うッ……」
堪えようとしても無駄だった。
夏樹の涙は止まる事を知らずに流れ続けた。
「夏樹ッ…」
隆哉の両腕が夏樹の身体を抱き寄せた。
「ごめん…ッ。夏樹、ごめん…ッ」
夏樹は何も言えなかった。
ただ泣くだけで、もう何も言えなかった。
夏樹は激しく泣き続け、やがて疲れてぐったりと横たわってしまった。
そんな夏樹を宥めるだけで、結局隆哉は何も言わずに帰って行った。
暫くして、部屋に鍵を掛けると、夏樹はまたベッドに横になった。
母が帰って来てドアをノックしたが、頭が痛いから寝ると言って、ドアを開けなかった。
隆哉は間違いなく、自分に別れを言いに来たのだ。夏樹は、隆哉の顔を見た時点でそれを悟っていた。
だからこそ、辛くて、辛くて、泣くしかなかったのだ。
最初は、確かに隆哉の方から好きだと言ってくれた。
だが、今はきっと自分の方が何倍も隆哉を好きになってしまっていると、夏樹にも分かっていた。そして、だからこそ、失うのが怖くて堪らなかったのだ。
本当は、この時が、いつか来るに違いないと心の何処かで感じていた。
何も持っていない自分が、そんなに長い間、隆哉に愛される訳が無いと心の底では分かっているつもりだった。
だが、それがまさか、こんなに早く訪れるなんて思いもしなかったのだ。
「ホントにもう…、駄目なんだ…?」
がさがさした掠れる声で、夏樹は小さく呟いた。
夏休みの楽しかった時間が、今ではまるで夢だったように感じる。
これから先、自分が隆哉以上に好きになれる相手が現れるとは思えなかった。
きっと、ずっとずっと、隆哉は自分の中で1番大切な存在で居続けるに違いないと夏樹は思った。
だからこそ、苦しめてはいけない。
自分が、隆哉の負担になってはいけないのだと夏樹は思った。
「言わなくちゃ…。俺が、ちゃんと言わなくちゃ…」
別れを告げるのは隆哉だってきっと辛いに違いない。
いや、隆哉の方が、きっと辛いのだ。
だから、自分の方から言わなければと夏樹は思った。
言って、隆哉を解放してやらなければならないのだ。それが、自分が隆哉にしてやれる唯一のことなのだから。
そのまま眠れずに朝を迎え、夏樹は6時前に家を出た。
毎朝、5時半には起きてランニングするのを日課にしている隆哉を、外で掴まえようと思ったのだ。
泣き過ぎと寝不足で少し頭がくらくらしたが、夏樹は構わず歩き続けた。
隆哉の家まで行くと、門の前に立って彼が戻って来るのを待った。
早朝の住宅街は人影も無く、夏樹はそこに立って静かな家波を眺めた。
決意した所為か、今ではもう、心の中は案外静かだった。
門柱に寄り掛かると、夏樹はホッと静かに息を吐いた。
やがて、地面を蹴る音が聞こえ、見ると道の向こうから隆哉が走って来た。
夏樹の姿を見ると、驚いて一瞬立ち止まったが、すぐにまた駆けて来ると夏樹の前に立った。
「な…、夏樹…」
荒い息を吐きながら、それを整えようとしているのが分かる。そして、隆哉の表情は酷く強張っていた。
「おはよ…。昨夜は、ごめん…」
夏樹の言葉に、隆哉はただ首を振った。
「俺が泣いた所為で、話も出来なくて…。でも、このままには出来ないから。俺、ちゃんと言わなきゃ駄目だと思ったんだ…」
「夏樹…」
隆哉の顔を見上げると、夏樹は言った。
「リキ…、ホントにありがと…。俺、リキに好きだって言ってもらえて嬉しかったよ。大事にしてもらえて、凄く嬉しかった…。俺は、意地っ張りで素直じゃないから、1度もちゃんと言えなかったけど、でも、ホントにリキと居られて嬉しかった…」
「な、夏樹ッ…」
隆哉の顔が見たことも無いほどクシャッと崩れた。
だが、夏樹は込み上げてくる涙を堪えて言葉を続けた。
「俺のこと、好きだって言ってくれてありがと…。付き合ってくれてありがと…」
そこで挫けそうになり、夏樹は一瞬言葉を切った。
だが、クッと顎を上げると、夏樹は隆哉の目を見て言った。
「…さよなら、リキ…」
夏樹がその言葉を言った瞬間、隆哉は絶望したように目を瞑った。
隆哉に背中を向けると、夏樹は走り出した。
もう、隆哉の顔を見ている事が出来なかった。これ以上彼の前に居たら、別れたく無いと言って縋ってしまうだろう。
だから、逃げなければならなかったのだ。
(さよなら、リキ…、さよなら…)
してもらうばかりで何一つ返せなかった。だからこれが、自分に出来る、最初で最後の事なのだと思った。
ずっと傍にいたかった。
ずっと愛されていたかった。
もしかして、捨て身で縋ったら、隆哉は思い直してくれたのかも知れない。
だが、それは出来なかった。
同情されて付き合ってもらっても、きっと最後には駄目になる。傍に居ても、きっとただ、辛いだけに違いなかった。
息が苦しくなって、夏樹は走るのを止めた。膝に両手を突いて、荒い息を整える。
そして、これで良かったのだ、と夏樹は思った。
腫れ上がった顔のままで学校へ行くのは嫌だったが、休んだらきっとまた隆哉に心配を掛けると思った。
だから、夏樹は我慢していつも通りに登校した。
幸い、今朝は朝練があったのか小高にも会わなかった。
自分と隆哉の関係が変わった事を誰にも悟られたくなかったが、どんなに頑張っても、以前のように笑う事は難しかった。
それでも夏樹は、教室に入るといつも通りにみんなに挨拶し、一生懸命に平然を装った。
そして、一緒に現れるであろう隆哉と小高を見ても、2人の笑い合う姿を見ても、取り乱したりしないように覚悟を決めた。
これから毎日、同じクラスの2人と顔を合わせない訳にはいかないのだ。
どんなに辛くても、此処から逃げる訳にはいかない。
だから夏樹は、強くならなければと思った。早く、少しでも早く、平気でいられるようにならなければと思った。
やがて、いつも通りに元気良く挨拶をしながら小高が現れた。
そして、その後ろから隆哉の姿が見えた。
キュッと夏樹の鳩尾が痛んだ。
鼻の奥がツンとして、目の淵が熱くなる。それをグッと堪えて、夏樹は顔を上げた。
「おはようっ、夏樹」
何も知らない小高は屈託なく笑って夏樹に挨拶をした。
「おはよう」
夏樹も、何とか笑顔を作って挨拶を返した。そして、振り返ると、そこに隆哉が立っていた。
その顔は、なんとも言い現しがたい複雑な表情だった。
「おはよ…、リキ…」
「…おはよう、夏樹…」
挨拶を交わした後、夏樹は必死で笑みを浮かべた。
その顔を見て、隆哉はサッと目を逸らすと自分の席へ歩いて行ってしまった。
顔を背ける前の一瞬、酷い罪悪感が隆哉の顔に表れるのを夏樹は見てしまった。
そして、それを見た瞬間に、堪らなく悲しい想いがしたのだった。
友達に勘ぐられたくなくて、なるべく今まで通りにしようと頑張ったが、やはり限界があった。
隆哉と小高が一緒に居るのを見るのは、夏樹にとって死にたい程の苦しみだったのだ。
昼休みに、とうとう耐え切れなくなって、夏樹は口実を作ると弁当を持って外へ出た。
まだ、暑い屋上には人も居ないだろうと思い、夏樹は階段を上ると屋上のドアを開けた。
だが、僅かな日陰を求めてぐるりと回ると、そこに吉岡が居た。
「あ…、すみません」
ぺこりと頭を下げて、夏樹が帰ろうとすると吉岡が呼び止めた。
「石橋君、いいよ、遠慮しないで…」
「あ…、はい…」
だが、きっと後から市川が来るのではないだろうか。そう思って、夏樹が後ろを振り返ると、吉岡が苦笑した。
「詠慈なら、今、顧問の先生のトコに行ったから暫く来ないよ。いいから、座りなよ。一緒に食べよう」
言われて、夏樹はもう一度、ペコッと頭を下げた。
遠慮がちに、少し離れて腰を下ろすと夏樹は弁当の包みを広げた。
すると、それを見ていた吉岡が怪訝そうな顔で言った。
「リキは?一緒じゃないの?」
「…はい」
躊躇いがちに夏樹が答えると、吉岡は眉間に浅い皺を刻んだ。
「まさか、喧嘩したとか?…そう言えば、一昨日もなんか変だったけど…」
「いえ、別に何も…」
そこで思い出して、夏樹は顔を上げた。
「あ、この前は、心配してくれてありがとうございました」
「いや…。体調のことよりも、何だか石橋君の様子がおかしかったから…。でも、次の朝、リキに聞いたら、もう大丈夫だって言うから安心してたんだけど…」
「はい、もう大丈夫です」
だが、夏樹の答えを聞いても吉岡の表情は晴れなかった。
「身体の事じゃなくて…。やっぱり、なんか元気がないよ。なあ、リキと何かあったんじゃないのか?」
そう言われて、夏樹は無理に笑って見せた。
「いいえ。ホントに何もないです」
「何もないのに、リキが昼休みに君を1人にするなんておかしいよ。あんなにべったりだったのに。……あのさ、まさか…、基が原因じゃ無いよね…?」
その名前を聞いて、夏樹の肩がピクッと動いた。