イヌ・4


-10-

美雪の家は夏樹よりも学校に近いが、途中までは方向が一緒だった。
翌朝も、一緒に行かないかと言われ、夏樹はそうする事にした。誰でもいいから、相手が欲しかったのかも知れない。
1人でとぼとぼと歩いていると、隆哉と一緒に登校した事を嫌でも思い出して、辛くなってしまうのだ。
中学の時は苛められていたというが、美雪は明るくて良く喋ったし、聞いているだけで気が紛れた。
ただ、最初に思った通り、少し変わった処がある。
苛められた原因は、そんな処かも知れなかった。
女子との付き合いは今でも苦手らしく、同性では余り親しい友人はいないらしい。だが、他校に親友が居ると言っていた。
「芸能人の話とか、後は化粧品やら服やら、それから最後は男の話…。なーんか、そういうのノレないんだよねえ…」
そう言って、美雪は苦笑しながら首を振った。
「じゃあ、沖名さんはどんな話が好きなの?」
「うーん…、野球とか?」
「野球っ?」
訊き返して夏樹は笑った。
確かに、高校生の女子の間で野球の話題は難しいだろう。
「うん。野球見るの好きなんだぁ」
「へえ…。プロ野球?何処のファン?」
「プロでも高校野球でも六大学でもなんでもいいの。チームで好きっていうのは特別ないんだけどね。好きな選手はいっぱいいるよ」
「ふうん…」
野球なら夏樹だってテレビで良く見るし、好きだった。だから美雪との話は、一時、夏樹に嫌な事を忘れさせてくれた。
気が付くと、もう教室の傍まで来ていて、夏樹よりも手前のクラスだった美雪は軽く手を振って教室の中へ入って行った。
その姿を見送って歩き出そうとした時、夏樹は目の前に隆哉が立っているのに気付いた。
「リキ…」
どうやら隆哉は、夏樹と美雪が喋りながら歩いて来るのを見ていたらしい。
「おはよ…」
力のない笑みを浮かべて隆哉は言った。
「おはよう」
夏樹も何とか笑って挨拶を返すと、教室へ入って行った。
今朝も一緒だったのかと思ったが、小高の姿は見えなかった。そして、彼が現れたのは1時限目が終わってからだった。
どういう理由で遅れたのか、皆に訊かれても小高は笑って誤魔化してしまい、はっきりとは言わなかった。
だが、夏樹の見る限り、小高の顔色が少し悪いように思った。多分、調子が悪くて遅くなったのだろう。
そう思っていたのだが、放課後になると小高は部活へ行く用意を始めた。
だが、何か言うのではないかと思った隆哉も、その様子を見ても何も言わない。そして、何事もなかったように一緒に行こうとしていた。
それを見て、夏樹は少し眉を寄せた。
具合が悪かったのなら、今日は部活を休むのではないだろうか。それに、人一倍他人を気遣う隆哉が、“大丈夫か”のひと言も言わないのは解せなかった。
もし、相手が夏樹だったら、隆哉は煩いほどに具合を訊いてきた筈だ。いや、以前の隆哉ならそうだった。
尺然としない思いで夏樹が鞄を背負うと、後ろのドアから、ぴょこりと美雪が顔を出した。
「石橋君、帰れる?一緒に帰らない?…あ…」
丁度、ドアを出ようとしていた隆哉に気付くと、少し強張った表情になり、美雪はペコッと頭を下げた。
すると、隆哉も少し硬い表情で軽く頭を下げた。そして、何を思ったのかサッと振り返ると、夏樹の顔を見た。
「か、帰れるよ。なんか食べてく?俺、奢るし…」
隆哉から目を逸らし、夏樹は美雪に近付きながら言った。
「ほんと?やった…」
嬉しそうに言った後で、美雪は窺うように隆哉の顔を見た。
すると、隆哉はそれに気付いたのか、今度はサッと夏樹から目を逸らした。
「さよなら。リキ、基…」
傍を通り抜けざまに夏樹が言うと、突然現れた美雪に興味津々の顔をしていた小高は、夏樹を見て意味あり気に笑いながら言った。
「うん、バイバイ。また明日な、夏樹」
「うん」
それに頷き、夏樹は教室を出た。
多分、小高は夏樹に彼女が出来たのだとでも思ったのだろう。明日にでも、ゆっくりと話を聞こうというつもりらしかった。
そして、隆哉はとうとう何も言わなかった。
連れ立って歩き出した後、美雪は1度、後ろを振り返ったが、夏樹は前を向いたまま昇降口まで歩いて行った。
さっき、隆哉の表情は硬かった。
夏樹が美雪と仲良くするのを良く思っていないのかも知れない。もしかすると、自分への当てつけだとでも思ったのだろうか。
勿論、夏樹にそんなつもりはない。
ただ、隆哉を失った悲しみを、独りで乗り越えるのは辛過ぎる。美雪の存在は、そんな夏樹の心を紛らわせてくれたのだ。
帰りにファーストフード店へ寄って、また美雪と一頻りお喋りをすると、夏樹は家へ帰って来た。
美雪は隆哉の事を気にしているようだったが、それについては特別何も言わなかったし、夏樹も、まさか彼女に本当の事情を話すつもりもなかった。
他愛の無い話で一時を過ごしたのだが、今の夏樹にはそんな時間が嬉しかった。
相変わらず、仕事で遅い母はまだ帰っていなかった。
何時ものように、自分の鍵で家のドアを開けると、夏樹は部屋に鞄を置いてすぐにバスルームで汗を流した。
そして、また自分の部屋に戻ると、クローゼットから着替えを出した。
その時、置いてある隆哉の着替えの事を思い出した。
抽斗を開け、夏樹は隆哉の衣類を手に取った。
「これ…、返さなきゃ…」
此処に置いておいても、もう隆哉が使う事は無い。夏樹の家でシャワーを浴びることも、勿論、泊まっていくことも、もう2度と無いのだから。
洋服を買った時に入れてもらった袋があったのを思い出し、夏樹はそれを出すと隆哉の衣類を中へ入れようとした。
だが、手に取った途端、隆哉の顔が脳裏に浮かんでしまった。
「リキ…ッ」
胸に抱えようとして、夏樹はすぐに首を振った。
もう、未練がましい真似はするまいと思った。自分が振り切らなければ、きっと隆哉だって辛いに違いない。
夏樹は、後ろ髪を引かれる思いで隆哉の衣類を全て、袋の中へ入れた。



翌日、夏樹はその袋を鞄の中へ入れて登校した。
放課後にでも、隆哉に渡そうと思ったのだ。
教室で会うと、隆哉は何か言いたげな顔で夏樹を見た。だが、結局は“おはよう”と言っただけで、何も言わなかった。
それに反して、小高の方は手薬煉引いて待っていたといった様子で、昼休みになった途端に近付いて来た。
「なあなあ夏樹、昨日の子、この前夏樹に頭下げてた子だよな?なになに?告られたの?」
その言葉を聞きつけ、他の友達もワラワラと夏樹の周りに集まって来た。
「なんだって?ホントか?夏樹」
「うそ、マジ?夏樹に彼女がッ…?」
騒がれて、夏樹は苦笑しながら首を振った。
「違うよ。ただの友達。彼女とかじゃないって…」
夏樹の答えに、小高は不服そうだった。
「えー?だってさ、たった2、3日前には知らないって言ってたのに、昨日は随分親しそうだったじゃん。そんなに急に仲良くなるもん?」
「喋ってみたら気が合ったから…。ホントにそれだけだよ、恋愛感情じゃないから」
「ふうん…」
「なぁんだ…」
夏樹の説明に他の友達もがっかりして、昼食を買いに行く為に教室を出て行った。
だが、弁当組の小高はそのまま残って、更に夏樹に話し掛けた。
「でも、いい子じゃん。もしかしたら、友情から発展して彼女になる可能性もあるかもよ?」
言って笑うと、小高は夏樹の背中をポンと叩いた。
「頑張れーい」
隆哉と自分の関係を知らないが故の小高の屈託の無さが、夏樹には辛かった。八つ当たりと分かっていても、つい刺々しい気分になってしまう。
「基はどうなんだよ?…誰か、好きな人居ないのか?」
どんな答が返ってくるのか知りたかった。
例えそれで、また嫌な気持ちになったとしても、夏樹は知りたいと思ったのだ。
「俺?…俺は…、居るよ。好きな人…」
余りにも正直な、誤魔化しの無い小高の答えに、夏樹は胸を抉られるような思いがした。
そして、答えの後にサッと隆哉に視線を走らせるのを見た瞬間、夏樹は逃げ出したくなってしまった。
「そ…、そう。この学校の子?」
「うん、そうだよ」
「へ…え…。凄いな…、転校して来たばっかなのに」
夏樹の言葉に、小高は何故か少し寂しげに笑った。
「だって…、好きになる時なんてあっと言う間じゃん…?」
夏樹は答えなかった。
確かにそうかも知れない。
そして、いつの間にか、自分でも信じられないほど深く好きになっているのだ。
「基、俺、屋上に行くけど」
その声にハッとして夏樹が顔を上げると、弁当の包みを持った隆哉が立っていた。
相変わらず硬い表情で、そして夏樹の方を見ないようにしているのが分かった。
多分、自分を避けたくて逃げるのだろうと夏樹は思った。
「あ、うんっ。じゃ、俺も行く」
嬉しそうにそう言うと、小高も弁当を持って一緒に出て行った。
「好きになるのなんて、ホントに簡単なんだよな…」
出て行く2人の背中を見ながら、夏樹は低く呟いた。
だが、諦める事は、何故これほど難しいのだろうか。
好きになった時と同じように、降って来たその感情が、あっさりと何処かへ行ってしまえばどんなに楽か知れなかった。



放課後、日直だった夏樹は先生に仕事を頼まれてしまい、教室に戻るともう隆哉達は居なかった。
仕方なく、部室へ追いかける事にして夏樹は鞄を背負うと小走りに外へ向かった。
何時までも、未練たらしく隆哉の衣類を持っていたくない。急げばまだ、着替えをしているくらいで道場へは出ていないだろう。
部室の傍まで来た時、その裏の方から声が聞こえて、夏樹は不審に思って近付いた。
すると、ジャージ姿の小高を2年生の先輩が3人で取り囲んでいた。
「おまえさぁ、なんなんだ?練習に参加したの、たった1日じゃん。やる気がねえなら、入部なんかするなよ」
「いや、俺は…。別にやる気が無い訳じゃありません」
「だったらなんでやらねえの?見たとこ、怪我してる様子もねえし…。学校にはちゃんと来てるし、病気って訳でもねえんだろ?」
「毎日よぉ、ただ見学してるだけなら、マネージャーにでもなったらどうだよ?」
夏樹も驚いたが、どうやら小高は部活に出ても練習せずに見学しているらしい。
一体、どんな事情があるのかは知らないが、練習出来ない何かがあるのだろう。 しかし、この状況は苛めに近いと夏樹は思った。
思わず飛び出して上級生に文句を言おうとした時、反対側から隆哉の姿が見えた。
(リキ…)
夏樹は思わず建物の影に身を隠した。
「先輩、止めて下さい」
「リキ…、けどよ、練習するつもりがないなら目障りだろうが」
「小高は今、少し体調が悪くて医者にも行ってるんです。それは、顧問の先生も、主将も承知してる事ですから」
不服そうだったが、隆哉の言葉を聞き、上級生達は渋々納得した。
「じゃあ小高、体調が戻ったらちゃんと練習に出ろよ」
「はい。すみませんでした」
自分が悪い訳ではないが、小高は先輩達にきちんと頭を下げた。
上級生が行ってしまうと、小高は隆哉の腕を掴んだ。
「ありがとう、リキ…」
「いや…」
それを見て、夏樹の胸の中に熱い塊がグッと込み上げた。
隆哉はやはり、小高の事を気遣っていたのだ。そして、ああして庇ってやっているのだ。
今まで、同じようにして守られていたのは自分だった。その事を思うと、夏樹は切なかった。
そっとその場を去ると、夏樹は反対側に回って部室のドアの前に立った。
そして、鞄から袋を出すと、それを手に持ってまた鞄を背負った。
今なら部室は開いている筈だし、このまま黙って入って隆哉の荷物の中に入れてしまおうかとも思った。
だがその時、隆哉が何故かまた部室の方へ戻って来た。
「夏樹…」
夏樹の姿を見て、隆哉は立ち止まった。
夏樹は強張った表情のまま彼に近付くと、持っていた袋を差し出した。
「これ…、リキのだから…」
隆哉は黙って受け取ると、袋を開けて中を見た。
「これ…」
ショックを隠せない表情で、隆哉は顔を上げた。
「もう…、置いといても仕方ないし…」
顔を見ようとせずにボゾボソと言うと、夏樹は隆哉から離れようとした。
「じゃ…」
「な、夏樹…ッ」
グッと腕を掴まれて、夏樹はビクッとして立ち止まると隆哉を振り返った。
そして、そこに、苦しげな隆哉の表情を見た。
「夏樹…、俺…、俺ッ…」
意を決したように隆哉が話し出した時、後ろから彼を呼ぶ声が聞こえた。
「リキーッ、練習始まるぞ。急げッ…」
ハッとして、隆哉が夏樹の腕を離した。
そして、名残惜しげに夏樹を見ると、仕方なく道場の方へ走って行った。
「リキ…?」
一体、隆哉は何を言おうとしたのだろうか。今更、何か、言い訳めいた事でも言うつもりだったのだろうか。
もう、いいのにと夏樹は思った。
もう、何を聞いたって空しいだけだ。
夏樹は、隆哉の去った方へ背を向けると、校門へ向かって歩き出した。



夜、美雪からメールが来て、明日の朝も待ち合わせして一緒に登校しようと言ってきた。夏樹は、それにOKの返事を送ると携帯を閉じた。
明後日の土曜日、父と母は朝早くからゴルフに出掛けてしまう。今までなら、部活があってもなくても夏樹は隆哉と会っていた筈だった。
だが、明後日はもう、幾ら待っていても隆哉は来ないと分かっている。
夏樹は、もう1度、美雪にメールを打った。明後日、何も予定が無かったら映画にでも行かないかと誘ったのだ。
すると、間も無く美雪の返事が来た。
「予定無しです。誘ってくれて嬉しいよー。何の映画、観る?」
「なんでもいい。沖名さんの観たいのでいいよ」
夏樹が返事をすると、それなら調べておくから、と返信が来た。
小高は友情が恋愛感情になることもあるだろうと言ったが、勿論、夏樹にはそんな気持ちは少しも無かった。
そして、美雪の接し方を見ても、自分との間を友情以上に育てるつもりは無さそうに思えた。
ただ、美雪とは男女の垣根を越えて気兼ねなく付き合えるような気がして、夏樹は彼女との関係を大事にしたいと思い始めていたのだ。
翌朝、待ち合わせした美雪の家の近くで会うと、学校へ行く道々で観に行く映画の話をした。
美雪が観たいと言ったのは封切りになったばかりのSFアクション物だった。
それは、確か隆哉も観たいと言っていた映画だった。
夏樹は一瞬躊躇ったが、結局は同意した。
もう、夏樹が他の誰かと観てしまっても隆哉は気にしないだろうと思ったのだ。
待ち合わせ場所や、時間を決めて夏樹は美雪と約束した。
やはり、普通ならデートと言ってもいい誘いだが、美雪には夏樹に対して構える様子はまるでなかった。
そんな美雪だからこそ、夏樹の方でも気軽に誘う事が出来たのだ。
(男として見られて無いってことなのかなぁ…)
それは少々悲しいと、夏樹は心の中で苦笑した。
だが、まだ他の相手との恋愛など考えられない夏樹にとっては却って有難いことだった。


その日は、避けていたにも拘らず、何度か隆哉と目が合った。
そして、その度に隆哉は何か言いたげな表情をするのだった。
だが、結局、碌に言葉も交わさず放課後になり、夏樹はまた美雪と連れ立って学校を後にした。