イヌ・4


-9-

「い、いいえ。違います」
「石橋君…」
夏樹の答えに嘘を感じたのだろう、更に問い質そうとして吉岡は口を開いた。
「す、済みません。俺、やっぱり教室に行きますからっ」
弁当の包みを握り締めると、夏樹は急いでそう言って立ち上がった。
これ以上、隆哉と小高の事を訊かれるのは嫌だった。もう、そっとして置いて欲しいというのが夏樹の本音だったのだ。
だが、屋上のドアを開けようとした所で、夏樹は市川に出くわしてしまった。
「おっと…、あれ、石橋じゃないか」
「あ…」
夏樹が立ち止まって市川を見上げた時、追いかけて来た吉岡が後ろから現れた。
「潤也…、どうかしたのか?」
2人を交互に見ながら、市川が怪訝そうな顔をしてそう言った。
「いや…」
吉岡が曖昧に答えると、今度はその吉岡の後ろを窺うようにして市川が言った。
「リキは?向こうに居るのか?」
そう訊かれて、夏樹は顔を歪めた。
市川もまた、自分の居る所には必ず隆哉が居ると思い込んでいるのだ。それ程に、今までずっと2人は一緒だったのだ。
「し、失礼しますっ…」
急いで市川に頭を下げると、夏樹は彼の傍をすり抜けてドアから出ようとした。
「お、おいっ…」
サッと腕を掴まれて、夏樹は仕方なく立ち止まった。
「なあ、石橋君…、俺たちで良かったら、ちょっと話、聞かせてよ」
吉岡に言われて、夏樹は激しく首を振った。
「何でもないんですッ。ほんとに、何でもないんですッ…」
その尋常ではない様子に、市川も眉を寄せて吉岡の顔を見た。
吉岡は少し躊躇った後で、思い切った様子で口を開いた。
「喧嘩じゃ無いって、さっき言ってたけど…、まさか、リキと別れたんじゃ無いよね?」
「えっ…?」
吉岡の言葉に市川は思わず声を上げた。
そして、夏樹は2人が自分達の関係を知っていたのだと分かった。
「お、おいっ…、ほんとか?石橋…」
市川も驚きを隠せない様子だった。
そして、夏樹の肩を大きな手で掴むと言った。
「もしかして、基の事か?それで喧嘩したとか…?だったら、それは石橋の誤解だと思うぞ」
「…え?」
思い掛けない言葉に、夏樹は顔を上げた。誤解とはどういう意味だろうか。
「リキが基を構うのは、おまえに対するような意味じゃないよ」
どうやら市川は、夏樹が隆哉と小高の仲を嫉妬して一方的に別れを告げたのだとでも思ったらしかった。
だが、彼らから見ても、隆哉と小高は必要以上に仲良く感じるのだろう。それは、確かなことなのだ。
「誤解なんかじゃないです…」
やっと、夏樹は小さな声でそう言った。
「え…?どうしてだ?」
「俺と別れたがったのはリキの方だから…」
諦めたような口調で夏樹が言うと、それまで黙って聞いていた吉岡が驚いて口を開いた。
「そんな、馬鹿な…」
「ホントです」
自嘲気味に笑うと、夏樹は先を続けた。
「俺…、可愛気ないから…。リキもきっと、嫌になったんだと思う…」
「石橋…」
夏樹は顔を上げないまま、2人に向かってぺこりと頭を下げると、そのままドアを開けて屋上から降りた。
吉岡に思いを告げられずに、市川は随分悩んだらしい。その悩みを聞いていたのが隆哉だった。
だから、隆哉の方でも自分との事を市川に相談していたのかも知れないと夏樹は思った。
だからこそ、2人は自分と隆哉の事を心配してくれるのだろう。
だが、もう幾ら心配されてもどうにもならないのだ。
フッと溜め息を付くと、夏樹はゆっくりと階段を降りた。


放課後、いつもなら部活へ行く前に夏樹に声を掛けてくれる隆哉だったが、今日は何も言わなかった。
夏樹の方でも、勿論、呼び止めたりしなかった。
小高と連れ立って教室を出て行く隆哉を見る事もなく、夏樹は帰り支度をすると教室を出た。
昇降口で靴を履き替えて表へ出ると、後ろから来た誰かに声を掛けられた。
振り向くと、そこに居たのは購買の前で頭を下げてきた女生徒だった。
「何か、用ですか…?」
怪訝な顔で夏樹が訊くと、彼女は笑みを見せた。
見ると、夏樹より10センチぐらい背が高い。肩ぐらいまで伸ばした髪を緩く下の方で二つに結んでいて、顔立ちは聡明そうだった。
「私、3組の沖名美雪っていいます。よろしく」
頭を下げられて、夏樹も思わず軽く会釈した。
「石橋君、ひとり?良かったら、一緒に帰らない?」
「…え?俺と…?」
「うん。嫌?」
訊かれて夏樹は首を振った。
「嫌じゃないけど…」
「じゃあ、行こう?」
腕を掴まれて、夏樹は戸惑いながらも一緒に歩き出した。
「あの…、なんで俺と?」
校門を出た所で、夏樹はもう1度訊いた。
「なんでって…、私、前から石橋君と友達になりたかったんだ」
「え…?」
また、驚いて、夏樹はまじまじと彼女を見上げた。
そして、すぐに思い当たって少し苦い顔をした。
「あの…、リキに紹介して欲しいとかそういうんだったら、俺…、困るから」
すると、夏樹の言葉に美雪はプッと吹き出した。
「やだ、違うよー。そんなんじゃないって…」
「え…?」
てっきり、そうだと思い込んでいた夏樹はまた驚いた。
「確かに力丸君はカッコいいけど、私は別に彼と付き合いたいとか思ってないから。私は純粋に、石橋君と友達になりたいだけ」
「な…、なんで?」
「だって、石橋君って健気で可愛いんだもん」
「ええっ…?」
ニッと笑われて夏樹は絶句した。
今まで1度だって、女子から“可愛い”などと言われた事はない。寧ろ、夏樹が言われ続けてきたのは、それとは全く反対の言葉ばかりだったのだ。
だが、それにしてもこの美雪という子は変わっていると夏樹は思った。
友達になりたいとか、可愛いとか、普通は男子に面と向かってそんな言葉は言わないだろう。
「石橋君、今までずっと、力丸君の傍にいる所為で嫌な事言われたり、されたりしてたよね?私、それ見ててね、結構、腹が立ってたんだ」
確かに、夏樹は隆哉のファンの子達から嫌味を言われたり、時には嫌がらせをされたりした事もあった。だが、それを表に出さないようにしていたし、また、友達にも隆哉にもなるべく気付かれないように気をつけていたつもりだった。
それを、驚いたことに彼女は知っていたらしい。
クラスも違うし、今までに彼女と接触した覚えはない。それなのに、彼女は余程、夏樹に注目していたのだろうか。
「私さ…、中学の時、ちょっと、苛めに合ってたの。だから、人よりも敏感なトコがあってね…」
それを聞いて、夏樹は成る程と頷いた。
「しかも石橋君、自分は何も悪くないのに、ただ力丸君と仲がいいってだけで嫌な事言われたりしてるでしょ?そんな理不尽な話ってないよ。…それなのに、石橋君、いつも楽しそうに笑ってたし、力丸君の事も全然責めたりしてないんだなって分かったし…」
「そんな…。だって、リキが悪い訳じゃないもん」
「けど、普通は責めたくなるじゃん。…だから私、石橋君って凄いなぁって、いつも思ってたの」
「そんな…、そんなんじゃないよ」
褒められて、夏樹は罪悪感を覚えた。
どんなに嫌な目にあっても、自分が隆哉の傍を離れなかったのは美雪が思っているような理由ではないのだ。
ただ、自分が隆哉の傍を離れたくなかっただけだ。好きだったから、離れたくなかっただけなのだ。
「力丸君も、優しい所為だとは思うけど、もっと女子達に毅然とした態度を取ればいいのにって歯痒い気がしてた。…だから私、この前、思わず言っちゃって…」
「え…?」
夏樹は、驚いて顔を上げた。
「言ったって、何を…?」
何だか急に嫌な感じに襲われて、夏樹は顔を強張らせた。
「うん…、余計なお節介だとは思ったんだけど…。私が知っている限りで、石橋君がされてた嫌がらせを力丸君に話したの。もう少し、気遣ってあげて欲しいって…」
コクッと唾を飲み込んだだけで、夏樹は何も言わなかった。
もしかすると、隆哉の態度がおかしかった原因にはこのことも含まれていたのかも知れない。だが、だからといって、今更どうなるものでもないのだ。
「なんか、ここんとこ2人が別々に行動してるみたいに見えたから…。もしかして、私の所為なんじゃないかと思って気になっちゃって…」
美雪は夏樹の顔を見て済まなそうな表情を浮かべた。
「そうだったら、ごめんなさい。私、余計な事言っちゃって…」
「…ううん。沖名さんの所為じゃないよ」
「ホント?」
心配そうな顔で美雪は言った。
「うん。気にしなくていいから…」
隆哉が夏樹と別れたいと思った原因は、美雪の話とは関係無い。
隆哉の心が移ってしまったのは、すべて自分の所為なのだと夏樹は思った。
「じゃあ、なに?喧嘩したとか…?」
「ううん…、別に…」
夏樹が答えると、美雪はじっと顔を見つめた。
「私、力丸君に謝るよ?」
その言葉を聞いて、夏樹はフッと笑った。
「いいよ。ホントに沖名さんの所為じゃないから。気にしないで」
だが、夏樹の答に美雪は納得していないように見えた。