彼とジンジャーと僕


その日が来るまで、単調な僕の毎日には、劇的な変化など訪れる筈がないと思っていた。


朝、起きて、窓のカーテンを開け、机の上に置いた小さな水槽を覗き込む。
「お早う、ジンジャー」
水槽の中の赤い小さな金魚に挨拶をして、耳掻き一杯分の餌と愛情を与える。
金魚が餌をパクつくのを眺めながらパジャマを脱ぎ、制服に着替えて階下に下りる。
顔を洗って髪を梳かし、看護師をしている母が当直でなければ一緒に、居なければ一人で朝食を食べる。
歯を磨いて学校へ行き、数人の友達と挨拶をして少し話し、午前中の授業を終えて学食で昼食を摂る。
午後の授業を眠気と戦いながら受け、放課後は、やはり少し友達と話をして別れる。
そしてその後、僕は秘密の場所へ行く。
裏庭の片隅にある、もうすぐ取り壊しになるらしい、今は使用されていない温室。
風雨に晒されてガラスはすっかり汚れ、中を覗いても何があるのか良く分からない。なんだか判別の付かない植物の残骸や、壊れた植木鉢が積まれている。
一見、不気味な感じがする場所だったが、僕はそこが好きだった。
最初、入り口に大きな閂が掛かっていて中に入るのは不可能に見えたが、実は扉が壊れていて両手で持って動かすと蝶番の方が外れる事に気が付いた。
中に入ってみると6畳ほどのスペースで、扉以外の3方向には植物を載せる台があり、そのどれにも枯れた植物や植木鉢が乗っていた。
そして、それらに囲まれるようにして、何故か真ん中に、ビーチなどで使うビニール製の寝椅子が2台並べて置いてあった。
僕はその1台の埃を払うと、仰向けに横になった。
そうして目を瞑り、じっと耳を澄ます。
すると、グラウンドの方から運動部の生徒達の声が微かに聞こえた。
狭いこの空間にたった一人、今、僕がここに居る事を知っている人は誰も居ない。
もし、ここで死んでしまったら、きっと暫くの間は誰にも気付かれずに僕はここで眠り続けるだろう。
こうして誰にも邪魔されず、この特殊な空間を独り占めするのが僕の習慣になっていた。
ここで……、僕は、ある人のことを考える。
同じクラスの葦原里久(あしはらりく)の事だ。
葦原とは2年になって同じクラスになったが、僕は入学当初から彼のことを知っていた。
いや、同じ学年で彼のことを知らない者は、多分一人も居ないだろう。
良く、何処に居るのか分からないと言われる僕とは正反対で、葦原は何処に居ても目立つ。
男女問わず誰からも愛される彼は、常に取り巻きのような友人達に囲まれ、彼の居る場所は笑い声が絶えない。
そう……、まるで、太陽のような男だった。
そんな彼に、僕はもう、1年半も片想いをしている。
だが、2年で同じクラスになっても、僕はまだ1度も彼と話をしたことが無い。
こちらから近付いていく勇気など無いし、彼の方でも大勢の友達が居て、別段、僕なんかとは近付きになりたいなどと思わないだろう。
もしかしたら、僕の名前さえ知らない可能性もある。
だが僕は、他の大勢の人間と同じように彼の魅力に引き寄せられてしまった一人だった。
いつも僕は、この温室で彼のことを考えている。
今日の彼の、僕に向けられた訳ではない笑顔。
笑い声。
耳に入って来た会話の切れ端。
授業中の様子。
シャーペンのお尻を顎に押し当てるようにして教科書を見る癖。
それらを何度も反芻するようにして思い出し、記憶の中に焼き付ける。
この、誰からも忘れ去られたような場所で、僕は毎日、たった一人でこの作業をするのだ。
来る日も、来る日も、同じように、繰り返し、繰り返し……。
そんな毎日が、もう3月も続いていた。
そして、永遠に続くかに思えていたのだ。


その日は雨で、僕は温室のガラスを叩く雨音を聞きながら、少しうつらうつらしていた。
すると、突然、静寂を破るようにして、ガタガタッ、と扉の動く音が聞こえ、僕はビクッとして寝椅子から起き上がった。
一体、誰だろう……。
先生だろうか……。
見つかったら多分、勝手に入り込んだことを咎められるに違いない。
僕が緊張して様子を窺っていると、扉の隙間に身体を滑り込ませて入って来たのは、僕と同じ制服を着た男子生徒だった。
些かホッとして、だが、その場から動かずに僕は彼の様子を見ていた。
すると、肩に掛かった水滴を払いながら入って来たその人が顔を上げた。
「あれ?先客か……」
珍しいものを見るようにして彼は言った。
そして僕は、彼が葦原だと気付いた途端、もう動けなくなっていた。
(ど、どうして……?葦原がここに…?)
そんな僕の、心の中の問い掛けなど知る筈も無く、葦原は近付いて来て言った。
「悪いな……。一緒していい?」
僕は何とか首を動かし、僅かに頷いた。
葦原は満足そうな笑みを見せると、僕の隣の寝椅子に腰を下ろした。
「けど、驚いたな。この場所を利用してる奴が俺の他にも居たとはね」
驚いたのは僕の方だ。
この場所は僕独りのものだと信じて疑わなかったのに、選りによって葦原が知っていたとは驚きだった。
「授業サボって、時々来てたんだけど、おまえに会ったこと無かったな?初めて来たの?」
僕は渇ききった喉を潤す為に、唾を飲み込んだ。
「もう、随分前から来てる……。放課後だけだけど……」
「そっか。だから会わなかったんだ……」
納得して頷くと、葦原は寝椅子に仰向けに横になった。そうすると、長い彼の足が椅子から食み出した。
「おまえ、1年?」
訊かれて僕は愕然とした。
名前を覚えてもらっていない可能性は考えていたが、まさか、存在そのものを知られていなかったとは……。
もう半年も同じ教室に居て、彼は僕がそこに居る事さえ知らなかったのだ。
ショックで答えられずにいると、葦原は怪訝そうに僕を見上げた。
「あれ?2年生なのか?」
「……そうだよ。葦原と…、同じクラスだよ……」
「えっ……」
葦原はかなり驚いた様子で、ガバッと寝椅子から起き上がった。
「ご、ごめんっ……」
僕は顔を上げられなかった。
俯いたまま首を振り、そして、言った。
「いいよ、別に……。僕って目立たないし…。良く、何処に居るのか分からないって言われるし……」
「あ、あのさ…。俺ってほんと、人の名前とか顔とか覚えるの苦手で…。あの……、ごめんな?ほんと……」
一生懸命になって言い訳をしてくれる葦原に悪いと思い、僕は何とか口元に笑みを浮かべて首を振った。
「いいよ。本当に、気にしなくていいから…」
毎日、僕が彼を想っていた間、彼の目には一度も僕が映っていなかった。こんな事実を、本当は知りたくは無かった。
「えっと、名前…。名前、教えてよ」
知ってどうすると言うのだろう。存在さえ知らなかった僕の名前が、葦原にとって意味があるとは思えなかった。
でも、僕は恐る恐る名前を言った。
「……北野七綱(きたのなづな)
「そっか。北野ね……、うん」
自分に言い聞かせるようにして頷くと、葦原は僕を見てにっこりと笑った。
「そんで北野は、ここで何してんの?」
まさか、当の本人に本当のことなど言える訳が無い。僕はドギマギして目を伏せた。
「別に……。ただ、ぼんやりしてるだけ……」
「いつも?」
「うん……」
「そっか……」
葦原は頷くと、また寝椅子に横になった。
「そうなんだよな。ここって、ぼんやりするのには最高の場所なんだ……」
目を閉じた彼の横顔を少しの間眺めていたが、こんなに間近で彼を見たことの無い僕には刺激が強過ぎるようだった。
いつも遠くから盗み見るようにしている顔が、すぐそこにある。そう思うと、早まっていく鼓動を落ち着かせようとしても、上手くいかなかった。
僕は焦って、何か言わなければと言葉を探した。
「あ、葦原は、なんで?」
「え……?」
目を開けて怪訝そうに僕を見る彼の視線から目を逸らし、僕は自分でも滑稽に思えるほどの早口で言った。
「ほ、放課後は来た事無いのに、今日はどうしたのかと思って……」
「ああ……」
葦原は頷くと、両腕を組んで頭の下に敷いた。
「彼女と、ちょっとやり合っちゃって……。なんだか、クサクサしてさ…、一人になりたかったんだ」
「あ……」
それを聞いて、僕は弾かれたように立ち上がった。
「あ、じゃあ、僕……」
「あっ、いいよ、いいよっ」
慌てて起き上がり、葦原は僕の腕を掴んだ。
ビクッと身体が震え、僕はそのまま固まってしまった。
今、葦原の手が、初めて僕に触れたのだ。
「気にしなくていいよ、ここに居なよ。大体、俺の方が後から割り込んだんだから……」
「で……、でも……」
僕は石の様に固まったままの身体で、じっと僕の腕を掴む葦原の手を見つめた。
骨ばって大きな、男らしい手だと思った。
「邪魔しちゃ、悪いし……」
言葉の最後まで声が続かない。
葦原の手が僕の腕を離すと、やっと身体から力が抜けた。
「いいんだって、邪魔なんかじゃないよ。折角だし、もっと、話そうよ。な?」
僕は頷いて、また寝椅子に腰を下ろした。
葦原の彼女というのが誰なのか僕は知っている。
多分、僕の他には、知っている人間は余り居ないだろう。
そして、僕が知っているという事を、勿論、葦原は知らない筈だった。
葦原の彼女は、まだ別れていないとすれば校医の諒子先生だ。
放課後の保健室のベッドの上で、閉めたカーテンの隙間から、僕は見てしまった。
諒子先生と葦原が濃厚なキスをしているのを………。
気分が悪くて眠っていた僕は、誰かの言い争うような声で眼を覚ました。そして、薄っすらと明けたカーテンの隙間に、諒子先生と抱き合う葦原の姿を見つけた。
「別れないから……」
キスの後で、葦原は切なそうに言った。
諒子先生は何も言わなかった。
ただ、葦原の胸の中で頷いただけだった。
二人が、いつから付き合っているのかは知らない。だが、二人の間には遊びとは思えない雰囲気が漂っていた。
諒子先生はまだ25歳だ。若くて、綺麗で、男子生徒の憧れの的だった。
大した病気や怪我でもないのに、保健室に通う生徒も大勢いた。
生徒の誰かと付き合っているのではないかと噂された事もあったが、でも、まさか葦原が本命だとは思わなかった。
葦原は同年代の女の子達と、もっと軽い恋愛を楽しんでいるのだとばかり思っていたのだ。
どうやら今日、葦原はその諒子先生と何かで揉めたらしい。
あの時も、別れ話が出ていたような雰囲気だったし、今日もそのことだったのかも知れなかった。
「け、喧嘩……?」
「う……ん。まあな……」
曖昧に答えを濁し、葦原は寝椅子に脚を伸ばした。
「北野は?彼女、居ないの?」
「僕?居る訳ないじゃん……」
即答した僕に、葦原は笑った。
「なんで?作ればいいだろ?」
僕は黙って首を振った。
彼女を作るなんて、そりゃあ葦原にとっては簡単なことなのだろうが、それが僕のような人間には、とても難しい事なのだと彼には分からないのだ。
「好きな子は?それも居ないの?」
葦原の問いに、僕の身体は硬直した。
コクッと喉を鳴らして唾を飲み込むと、僕はゆっくりと頷いた。
「……居るよ。すごく……、すごく、好きな人…」
「へえ?なら、告ればいいだろ?」
あっさりと言った葦原に、僕は何と答えていいのか分からなかった。
「……駄目だよ」
「どうして?」
片想いしている本人からこんな事を言われて、一体僕はどうしたらいいと言うのだろうか。幾ら葦原が僕の気持ちを知らないからといっても、何故、こんな状況に追い込まれてしまったのだろうか。
「告るなんて、無理だよ。……だって、……恋人、いるみたいだし……」
言っている内に段々辛さが増してきて、僕は涙を堪えていられなくなった。
「北野……?」
僕が泣き出したことに驚いたのだろう。葦原は僕の方に身を乗り出した。
「ごめん…。俺、無神経だった……。ごめんな?」
僕は何も言い返せず、ただ首を振り、眼鏡を外すと涙を拭った。
「そんなに、好きなんだ。泣きたいほど……」
その通りだった。
ずっとずっと前から、僕は泣きたいくらい葦原が好きだったのだ。
「けど、そんなに好きなら尚更、告ってみればいいのに……。恋人がいたって分からないぜ。案外、上手くいくかも知れないし」
僕は、残りの涙を拭いながらまた首を振った。
「いいんだ……。好きだって思ってるだけで、ずっと幸せだったから……。毎日、考えていられるだけで……、それだけで、いいんだ……」
「そんなの、辛くねえの…?」
信じられないと言いたげに、葦原は訊いた。
きっと、彼のような人間には僕の気弱さが理解出来ないのだろう。ただ、黙って誰かを見ているような経験などしたことが無いのだから。
「誰もが……、葦原みたいに出来る訳じゃないよ。……分からないよ、葦原には……」
「……俺だって、何でもかんでも上手くいってる訳じゃねえよ……」
少々乱暴な調子で呟き、葦原はまた寝椅子に脚を乗せた。
そうかも知れない。
葦原は葦原で、きっと辛い恋をしているのだろう。相手が年上で、しかも先生では障害だって沢山あるのだろう。
僕は何も言えなくなって、下を向いたまま外した眼鏡を弄んでいた。
「北野って、綺麗な顔してんなぁ……」
意外そうな呟きが聞こえ、僕はびっくりして顔を上げた。
すると、葦原は寝椅子の上に肘を突いて起き上がり、僕の顔をしげしげと見つめた。
「目の色が薄くって、色が真っ白で、まるで外国人の子みたいだ。なんで、そんな黒ブチのでっかい眼鏡なんか掛けてんだ?コンタクトにしろよ。折角綺麗な顔してんのに、勿体ないぜ」
「な、なに言って……」
僕は慌てて眼鏡を掛けて顔を隠した。
ドクドクと、血管を流れる血液の音が体中から聞こえる。
(綺麗だなんて、何で言うの……?)
泣かせた事を気にしてのお世辞だろうが、僕にとっては却って辛いのだ。だが勿論、そんな気持ちが葦原に分かる訳が無い。
「ああ、だからさ、隠すなって……」
急いで起き上がり、葦原は手を伸ばして僕の顔から眼鏡を外した。
「や……」
怯えるように身を縮めた僕に構わず、葦原の手が僕の額に被さった前髪をかき上げた。
「ほら。こうやって、もっと顔を出せよ。髪形も変えたら、すげえ綺麗になるぜ」
「な……」
僕は彼から顔を背けて、額に載った手を外した。
「き、綺麗な訳、無いだろ…。変な事、言わないで……」
「綺麗だって。な、そうしなよ。コンタクトにしてイメチェンしろって…。そしたら、その好きな子に告る気持ちになれるかもよ」
葦原の言葉に、僕の胸の奥から、何かが一気に込み上げてきた。
(人の気も知らないで…)
「ぼ、僕っ…、僕、もう帰る……」
僕は葦原の手から眼鏡を取り戻すと、急いで立ち上がった。
「あっ、おいっ、北野……」
「さよならっ」
驚く葦原の方を振り返りもせず、僕は雨の中に飛び出して行った。
傘を持っていたが、差す気にもなれなかった。
どうして、あんなことを言うのだろう。
今日偶然にあの場所で会うまで、存在にさえ気付いていなかった人間に、ほんの少しの興味さえ持ったことの無い人間に、綺麗だなんて、どうして言うのだ。
雨の中を足早に歩きながら、僕は正門を抜けて学校を後にした。
そして、急に気付いて立ち止まった。
「酷くなんか、無い……」
僕の気持ちなんか、葦原は微塵も知らないのだ。1年半の間、僕が勝手に彼を想っていただけなのだ。
だから、少しも悪くなんか無い。
葦原はただ、僕を勇気付けてくれようとしただけなのだ。
僕は振り返って、雨に煙る学校を見た。
そして、やっとそのことに気が付いた。

今日、僕は初めて葦原と言葉を交わしたのだ。

玄関からバスルームに直行し、濡れた服を脱いで僕はシャワーを浴びた。
頭からタオルを被って自分の部屋に入ると、すぐに水槽を覗き込んだ。
「ただいま、ジンジャー……」
小さな赤い金魚は、僕が近付くと必ず、出迎えるようにして水槽の前の方まで泳いで来る。
餌をもらえると思ってパクパクと口を動かして待っているのだ。
「ジンジャー、今日ね、葦原と話が出来たんだよ。凄いだろ?」
僕が餌をくれるのでは無いと分かったらしく、金魚はまた泳いで水草の陰に入り込んでしまった。でも僕は、構わずに話を続けた。
「あの秘密の場所をね、僕たちは知らずに二人で共有してたんだ……」
思わずうっとりとした口調になってしまい、僕は赤面した。
金魚相手でも、なんだか恥ずかしくなってしまったからだ。
「葦原は、あそこで何を考えていたんだろう……?やっぱり、諒子先生のことなんだろうな……」
そう思うとキュウンと胸が痛くなり、僕は両腕で肩を抱くと、そのままベッドに突っ伏した。
初めて葦原と話した。
葦原の手が、僕の腕を掴んだ。
葦原の手が、僕の額と髪に触れた。
それは、僕にとって、なんて大きな事件だろうか。
たった二人きりで、僕は葦原と過ごす時間を持てたのだ。今までの単調な日々が、まるで変ってしまったように思えた。
(でも、それは今日だけだ…)
そうだ。 明日からは、きっとまた元通り、たった一人で葦原のことを思う日々が戻って来る。
僕にとって今日がどんなに特別でも、葦原にとっては僕との出会いなど取るに足らない出来事なのだ。
ハアッと溜息をつき、僕は寝返りを打って横を向いた。
「名前……、覚えてくれたかな……?」
存在にさえ気付かれていなかった僕が、そこに居ると分かってもらえただけで、僕は満足するつもりだった。
それ以上のことを望むつもりなんか、勿論、無かったのだ。


でも、翌日、僕にはまた驚くことが待っていた。
教室に入った途端、取り巻きを掻き分けるようにして葦原が僕に近づいて来たのだ。
「北野」
クラス全員の目が、僕たちに注がれているのが分かった。 誰もが、僕と葦原の接近を意外に思っているのだ。
「お……、おはよ……」
僕は顔を上げられなかった。
何とか挨拶だけはしたが、それも彼に聞こえたかどうか分からないほど小さな声だった。
「昨日、ごめんな?なんか俺、気に障ること、言ったみたいで……」
気にしてくれているなんて思いもしなかった。
驚きと喜びがいっぺんに訪れ、僕は泣きそうになるのを堪えて急いで首を振った。
「そ、そんなことないよ。僕こそ……」
声が続いたのはそこまでだった。
僕はペコリと頭を下げると、逃げるようにして自分の席に向かった。
「おまえらって、友達だったんかーぁ?」
「なんか、意外な組み合わせじゃーん」
葦原の友人達が、からかうように言うのが聞こえた。
「いや、ちょっとな……」
言葉を濁し、葦原も自分の席に戻った。
葦原に嫌な思いをさせたのではないかと気になって、この日、僕は1日中、そのことばかりを考えていた。
折角、気にして声を掛けてくれたのに、僕はまともな受け答えさえ出来なかった。
その上、僕なんかに声を掛けた所為で、皆からからかわれるようなことまで言われてしまった。
今まで、居る事にさえ気付いてもらえなかったけれど、それでも嫌われてしまうよりは、その方が増しだったかも知れない。
僕は怖くなって、いつものように葦原を盗み見ることさえ出来なくなってしまった。