彼とジンジャーと僕


-3-

誰かの手が額に触れて、僕は目を覚ました。
いつの間にか、泣き疲れて眠ってしまったらしい。
「急に居なくなったから、どうしたのかと思って……。珍しいな、北野が授業をサボるなんて」
目を上げると、覗き込むように僕を見ている葦原の顔がぼんやりと見えた。
「泣いてたのか……?何かあったの?」
なんだか億劫で身体を動かす気になれず、僕は頷くとまた目を閉じた。
「死んだんだ……」
「え……?」
「ジンジャー…、死んだの……」
葦原は答えなかった。
金魚が死んだくらいの事で、授業までサボってこんなところで泣いていたと知って、きっと呆れたのだろう。
だが、暖かい掌がもう一度額の上に乗って、僕は驚いて目を開けた。
「そうか…、可哀想に……。可愛がってたのにな……」
僕はゆっくりと起き上がると、座り直して葦原と向き合った。
きっと、彼は昨日のことで僕を探していたのだと気が付いたからだ。
だから、僕の機嫌を損ねないように気を遣って言ってくれたのだろう。
「いいよ。同情する振りなんかしてくれなくても……」
「え…?」
「昨日見たこと、僕は誰にも言ったりしない。口止めなんか必要ないよ。大体、僕は前から知ってたし…、葦原と諒子先生が付き合ってるの…」
「北野……」
眼鏡を掛けていなくても葦原が驚いて目を見開くのが分かった。
「だから、気にする事無いよ。僕やジンジャーに興味のある振りなんかしてくれなくていい。僕は、ずっと一人で平気だった。ジンジャーだってそうだった。寂しいなんて気が付かなければ、ずっと一人でも居られたんだ……」
「北野…」
葦原の両手が僕の腕を掴んだ。
「なんだよ、それ。俺は振りなんかしてない。初めてここで会って喋った時から、おまえのことが気になってたから……」
僕の瞳から零れ落ちた涙に驚いたのか、葦原はそこで言葉を飲み込んだ。
「半年間も、僕の存在にさえ気付かなかったくせに……」
「だから、それは謝ったろ…?俺……」
「体育の時、サッカーとソフトボールで2度も同じチームになったこともあったよ。名前は覚えてくれてないかもって思ってたけど、まさか僕が居る事自体、知らないなんて思わなかった……」
「ごめん。だから……、ほんとにごめんって…」
「いいよ、もう……。今更、僕に気なんか遣うこと無い。今まで通り、居ない人間だと思えばいいだろ?それで葦原は、何にも困ったりしないんだから」
「悪かったって……。そんなに泣くなよ。泣かないでくれよ。な……?謝るから、何度でも、おまえの気が済むまで謝るから……」
ごめん、ごめんと何度も言いながら、まるで、小さな子供をあやすように葦原は僕の身体を抱きしめて背中を擦った。
だが、ジンジャーの死の悲しみや、昨日見た光景への衝撃や、それと、自分自身の感情の激しい波に翻弄されていた所為もあり、僕は随分気を昂ぶらせていた。
だから、その時は、抱きしめられている事にも気づいていないくらいだった。
気が付くと、葦原の唇が何度も僕の顔に押し付けられていた。
額や頬、こめかみ……。
そして、それが唇のすぐ横に触れた時、僕はやっと弾かれたように葦原から身体を離した。
「や……、なに……?」
「逃げるなよ。こっち向いて…」
囁かれて捕まえられ、僕は呆然としたまま唇を許した。
それが初めてのキスだということも、相手が葦原だということも、何処か遠くで起きた出来事のように感じられ、何故か僕には実感が無かった。
濡れた舌の感触が口の中に感じられることも、入り込んできた彼の唾液を飲み込んだ時も、僕にはそれが現実だとは思えなかった。
葦原の片手が下りてシャツのボタンを外されても、感覚はあるのに何故か現実味が無い。
僕は呆然としたまま、葦原の顔を見上げた。
「身体も真っ白だ。綺麗だな…。触っていい?」
ドコニ……?
葦原の手がシャツの前を広げ、指が乳首に届くと、何を指して言ったのか触られて初めて気付いた。
「凄く綺麗だ…。膨らんでもいないのに男とは思えない」
言いながら、葦原の手は僕の身体から服を剥いでいった。そして、ズボンと下着を脱がされても、僕はただ、ぼんやりと葦原の顔を見ていた。
彼が何故こんな表情を浮かべているのか、不思議で堪らなかった。
それは、まるで、昨日の保健室で見た、あの時の顔……。
「かわい……。こんなにちっちゃいくせに、ちゃんと立ってる……」
呟きの後で、乳首が口に含まれた。
くすぐったくて、ビクンと背中が持ち上がる。
でも、逃げようとは思わなかった。
「気持ちいい……?」
囁かれて頷く。
ふわふわとした不思議な感覚の中で、葦原に弄られる部分だけが敏感になっていくのが分かった。
乳首を舌先で擦られて、ピクンッ、ピクンッ、と身体が跳ねる。
それでもこれが夢のように思えて、僕はされるままに横たわっていた。
「あぅっ……」
後ろに指が入り、その痛みで僕は思わず声を上げた。
「痛い……?」
葦原に訊かれて、僕はやっと、これが現実だと気が付いた。
「なに、してるの……?」
「ごめん、ちょっと、我慢して…?」
(なに…?なにするの…?)
痛みで涙が滲んだが、葦原が息を荒げて自分の前を開けるのが見えた。
(嘘…。まさか、セックスしようとしてるの…?)
それに気付いた途端、僕の全身の血が沸き立つほどに熱くなった。
どうして、こんなことになったのだろう。 葦原はどうして、僕を抱こうとしているのだろう。
今度は激しく混乱し、僕は抵抗するのも忘れていた。
「あっ、あ…っ、あっ……」
痛みでまた我に返る。 両脚を抱え上げられ、激しい痛みと共に葦原が僕の中に入ろうとしていた。
「痛い?もっと、力を抜いて……」
(熱い…ッ、火傷する……)
痛みは、焼け付くような熱と一緒だと思った。
僕が首を振ると、葦原は優しく額に唇を押し付けた。
そして、太腿を押し上げていた手を僕の胸に当て、両手の親指で濡らされて硬くなっていた乳首を擦り始めた。
「んんッ…」
喘いだ僕の唇にキスをしながら愛撫を続け、唇を離すと葦原は囁いた。
「もっと奥まで挿入らせて?」
「奥まで……?どうして……?」
痛みと快感が入り混じり、余り声が出せなかった。
それでも通じたらしく葦原は答えた。
「挿入りたいんだ……。挿入らせて……」
(どうして……?僕はもう君でいっぱいなのに。これ以上、何処まで入ってくるの…?)
そう思ったが、僕は痛みを我慢して葦原を受け入れようとした。
「いいよ。そう……、上手だよ…。そのまま、力抜いて……」
「んくっ、…んっ……」
自分でも驚くほど大粒の涙が、ボロボロと転がるように目尻を伝い落ちていった。
「痛い……?ごめんな…?ごめん……」
(何で謝るの…?)
そう思いながら、僕は首を振った。
「挿入ったよ、全部……」
そう言った後、見上げた僕の唇に葦原はまたキスを落とした。
「七綱……」
呼ばれて、僕の身体はビリッと感電したように震えた。
「なまえ……。なんで……?」
「名前呼ばれるの、嫌か…?」
僕は目を閉じて首を振った。 胸の奥から、熱いものが堰を切って込み上げてきたのだ。
「ううん…。もっと、呼んで……」
葦原の首にしがみ付き、僕はそう言った。
葦原は、行為の間中、ずっと僕の名前を呼んでくれた。
痛みも苦しみも、僕はもう、どうでも良かった。
ただ葦原の熱を感じ、耳元で囁かれる自分の名前を頭の中に木霊させながら、僕は次第に意識を手放していった。



意識を取り戻した時、目の前には葦原の背中が有った。
横たわった僕の隣で、葦原は誰かと電話で話していた。
見ると、僕の服は元通りきちんと着せられている。葦原が、気を失った僕の身支度を整えてくれたのだ。
「だから、この前も言ったでしょう?なんで、分かってくれないの……?」
葦原の声が、僕の耳にも切なそうに響いてきた。
「どうして、そんな……っ。今は無理だよ。今は行けない……。マンションの方に行くから、夜まで待って……。兎に角、今は駄目なんだ……」
葦原の気持ちは、もう、諒子先生の下へ行きたがっている。だけど多分、責任感から僕を置いてはいけないと思っているらしかった。
「兎に角、もう1度こっちから掛けるから……、じゃ…」
僕は手を伸ばして、葦原のシャツを掴んで引いた。
ハッとして葦原が振り返る。
僕の顔を見て、すぐに近づいて言った。
「大丈夫か……?ごめんな、俺……」
「行っていいよ」
「え……?」
僕は彼の手に握られた携帯電話を指差した。
「諒子先生……。大事な話なんだろ?…行っていいよ」
「でも……」
「いいよ。僕は平気。……一人で大丈夫だよ。だから、行きなよ」
そう言うなり、僕は寝返りを打って葦原に背を向けた。 その拍子に傷が痛み、僕は思わず呻いてしまった。
「なに言ってんだ。送って行くよ。一人でなんか帰れないだろ?」
「帰れるよっ。大丈夫だって言ってるだろっ」
「北野……」
(ほら…、もう”北野”に戻ってる。恋人の声を聞いて後悔してるんだ…。僕なんかとセックスしたこと……)
滲んできた涙を隠したくて、僕は身体を丸くして縮こまった。
「少し休めば、平気。気にしないで行ってよ。……一人になりたいんだ…」
「ごめん、俺……。ほんとに、ごめんな?後で、ちゃんと話し、しよう?」
(話…?なんの、話?)
そう思ったが頷いた。
葦原は荷物を掴むと、もう1度僕に謝って温室を出て行った。
葦原に何が起こったのかは分からない。
どういう気持ちになって、彼が僕を抱こうなどと思ったのかは知らない。
多分、彼にも色々な事が重なって、普通とは違う状態だったのだろう。
僕があんまり泣くので、可哀想になったこともあるだろう。
僕の存在に気付かずに居たことを、指摘された後ろめたさもあったのだ。
ただ、僕にはっきりと分かっていたのは、こうして抱かれたからといって、僕たちの間が何か変わる訳では無いということだ。
葦原は少なくとも、僕の為に諒子先生と別れたりしないし、2度とこんな風に僕を求めてきたりもしない。
僕はもう2度と、ここへは来ないし、教室で葦原に話しかけたりもしない。
ここで葦原と出会う前と、全く同じ状態に戻るだけだ。
「このままここで死んじゃったら、明日、葦原が見つけてくれるのかな…?」
そうしたら、ほんの少しの間ぐらいは、僕のことを覚えていてくれるだろうか。
それなら、死んでも構わないな、と僕は思った。



強がって葦原を帰らせたが、一人で帰って来るのは本当に辛かった。
痛みで歩くのもままならず、家に着くまでに何時もの倍以上の時間が掛った。
泣き過ぎた所為か、無理な性行為で身体に負担を掛けた所為か、その晩、僕は熱を出した。
母は、どうしても目の離せない患者さんを抱えていて、病院を休む事が出来なかった。
お粥と解熱剤を用意すると、何度も僕に飲むように言って、家を出て行った。
ベッドの中でうつらうつらと眠ったが、寝返りを打つ度に身体が痛んで目を覚ました。
そして、ぼんやりと、昨日の事が現実だったのだと思い出す。
「なまえ……、覚えててくれたんだな……」
北野ではなく、七綱と、何故あの時、呼んでくれたのだろう。
(未練たらしいな…)
そう思って頭を振る。
名前を呼んでくれた時の葦原の声を、早く忘れてしまいたかった。
階下で電話の鳴る音が聞こえ、鞄の中で自分の携帯も何度か鳴ったが、起きる気持ちにはなれず、放っておいた。
熱も午後には下がり、夜には、明日学校で葦原の顔を見る覚悟も出来ていた。



翌日の朝、教室に入ると、すぐに葦原が近づいて来た。
「大丈夫か?その……」
「うん。もう平気」
精一杯の意地を張って、僕が笑って見せると、葦原は明らかにホッとしたようだった。
昨日の電話の1本は、彼が心配して掛けてくれたのかも知れない。
僕はまだ何か言いたげな葦原を残し、さっさと自分の席に着いた。
そして、その日から、僕はもう2度と葦原を見たりしなかった。
勿論、温室にも近付かない。
葦原の事を、僕はそこに居ないかのように完全に無視してしまった。
そんな日が、1週間も続いた後、
「北野、ちょっと……」
放課後、授業が終わると葦原が近付いて来て声を掛けてきた。
また、意外なことが起こったと、残っていた生徒達がざわついた。
「なあに?」
教科書を鞄に仕舞う手を止めず、彼の顔を見ようともしないまま僕は答えた。
「話がしたいんだけど……」
「やだな、誰かと間違ってるんじゃないの…?」
「北野……」
「ほら、」
僕は彼の取り巻き達の方を指差した。
「友達がびっくりしてるよ。僕なんかに話しかけるから…」
「北野、俺はちゃんと…」
僕は立ち上がると彼を押し退けるようにして席を立った。
「さよなら、葦原くん」
「北野っ…」
逃げるようにして教室を出て、僕は足早に昇降口に向かった。
葦原を嫌いになった訳じゃ無い。
それどころか、前よりも、ずっとずっと好きになってしまった。
もう、苦しくて、死んでしまいたいほどに好きになってしまったのだ。
(傍になんか居たら、どうにかなってしまう…)
自分がこんなにも貪欲な人間だったなんて知らなかった。
葦原が欲しくて、欲しくて、僕の中には常に、どす黒い感情が渦巻いていた。
それが怖くて、僕は彼に近づくまいと決めたのだ。
だけど、葦原はそんな僕の気持ちなど知る訳が無い。
なにを思ったのか、次の日から、教室を移動して特別室を使う授業があると、必ず僕の隣に腰を下ろしてくるようになった。
葦原の意外な行動に、クラスメート達はまたざわついた。
彼の取り巻き達は、またからかうようなことを言ったが、彼は取り合わなかった。
僕の少ない友人達も驚いて理由を訊いてきたが、僕は知らないと答えるしかなかった。
葦原は、隣に座るだけで話しかけてくる訳ではなかった。
ただ、時々じっと僕の顔を見る。 この無言のプレッシャーに、僕の神経は段々に参ってきた。
夜も眠れなくなり、胃も痛んできた。
ひそひそと、僕を見て皆が噂話をするのにも耐えられない。
今まで誰からも注目されたことなど無かったのに、葦原が隣に来るだけで僕は急に好奇の目に晒されるようになってしまったのだ。
「あっち、行って……」
PCルームで、またどっかりと隣に腰を下ろした葦原に、僕は勇気を出して小声で言った。
「なんで?」
「と、友達のとこに座ればいいだろ…?」
「俺は北野の隣がいい」
「なんでだよ……?こんなの、もう嫌……」
「だったら、ちゃんと話をさせろよ。……怒ってるのかも知れないけど、話くらいちゃんと……」
ガタンッ、と立ち上がった僕に驚き、葦原は言葉を止めた。
「怒ってなんかないよっ。だから、もう放って置いて。構わないでくれよっ」
「北野……」
葦原が立ち上がって僕の腕を掴んだ。
その瞬間、僕はふっと意識を無くした。