彼とジンジャーと僕
-4-
なんだか、工事中の騒音のような音で目を覚ました。
気が着くと、そこは保健室のベッドの上だった。
「目が覚めた?」
優しい声に僕は頷いた。
諒子先生が、僕の顔を覗き込んでいた。
「軽い貧血みたい。このところ、寝不足だったの?」
「……はい…」
ああ、やっぱり綺麗な人だな、と僕は思った。
白くてしなやかな細い指が、僕の額に触れる。
この指が、葦原の額にも、髪にも、身体にも触れたのだ。
「先生……」
「うん?」
「今、何時ですか?」
「もう、4時半よ。起きられるようなら家に帰りなさい」
僕は頷いて起き上がったが、ふと気になってまた訊いた。
「あの、僕のこと、誰が……?」
一瞬、その名前を口にするのを躊躇うかのように、先生は間を置いて答えた。
「葦原くんよ」
「……そうですか……」
僕がベッドから下りて靴を履くと、先生は僕の眼鏡を取って渡してくれた。
さっきからの騒音が気になり、僕が窓の外に目をやると、先生も気が付いてそちらを見た。
「ああ。裏庭にある古い温室を壊してるのよ。もう、老朽化してて危ないでしょう?」
「………そうですか……」
ぼんやりと窓の外を見る僕に、諒子先生は視線を戻して言った。
「今夜は良く眠るのよ。ご飯もちゃんと食べて、栄養を摂るようにしてね」
「はい。有難うございました……」
保健室を出て、僕は渡り廊下の所から温室を見た。
濛々と埃を上げて、ショベルカーが温室を壊していた。
もうそこには、あの建物の面影も無い。
あるのは無残な残骸だけだった。
何だかこれで、全てが終わったように気がして、僕はその残骸をぼんやりと見つめた。
荷物を取りに戻ると、人気の無い教室の僕の席に、一人残った葦原が座っていた。
温室が壊されてしまったことを彼は知らないのか、それとも気にもならないのだろうか。
「北野……」
僕に気が付くと、葦原はすぐに席を立って僕が近付くのを待った。
「もう、いいのか?大丈夫……?」
「うん……。運んでくれたんだってね…?ありがとう」
「いや……。なあ、一緒に帰らないか?」
荷物を鞄に詰めながら、僕は答えた。
「どうして?」
「北野……。頼むよ、なあ…。何度でも謝るから、もう許して欲しい」
「許す……?」
僕は鞄を背負うと、初めてちゃんと葦原の顔を見た。
辛そうなその顔を見て、僕の胸は痛んだ。
彼は彼なりに僕を心配して、こうして待っていてくれたのだ。あの時の行為が僕を傷付けたと思って気に病んでくれているのだろう。
「僕は……、僕は、怒ってもいないし、恨んでもいないよ。あの時のこと、葦原に強姦されたとか思ってる訳じゃ無いし……。ただ、もう葦原と関りたくないだけ……。もう、ほっといて欲しい。前と……、同じように……」
「そんなのっ……。そんなの無理だろ?前と同じなんて、そんなの無理だ…」
驚くほど激しく首を振り、葦原は言った。
「どうして……?僕は別に、あの事を誰かに言ったりしない。あの事を盾に葦原に何かを求めたりもしない。葦原と諒子先生の事も、絶対に口外しない。……約束するから……、だから……、もう、放って置いて……」
「そんなことを気にしてるんじゃないっ。俺は……」
その時、葦原のポケットの中で携帯の着メロが鳴り出した。
「諒子先生だよ、きっと……。さっき葦原の名前が出たから……」
言いながら僕は、葦原の傍を離れて出口に向かおうとした。
ガッシャーン……
激しい音がして、僕はびっくりして立ち止まった。
ドアに投げつけられた何かが、跳ね返って僕の足元に転がった。
それは、葦原の携帯電話だった。
「あし……はら……?」
驚いて振り返ると、携帯を投げつけたままの状態で、怒りに身体を震わせた葦原が僕を見ていた。
「諒子先生の話なんかどうだっていいよ。もう、別れたんだッ」
「え……?」
葦原は怒りを納めようとしてか、大きく息を吸って吐くと、髪をかき上げて机に寄りかかった。
「あの人、見合いして結婚するって……。だから別れようって、ずっと前から言ってたんだ。でも、俺とも別れたくないなんて我侭言って……。俺も、好きだから別れたくなかったけど、でも二股なんて、俺にはとても我慢出来ないから……」
どうやら、僕の想像は間違っていたらしい。
別れたくないと言っていたのは、諒子先生の方だったのだ。
なんだか、僕にも葦原の気持ちが分かったような気がした。
葦原は結局、諒子先生に弄ばれたように感じていたのかも知れない。
そして、その“理由”を、僕はやっと理解した。
「だから……、だから、僕で憂さを晴らしたの……?」
「え…、なに……?」
「滑稽だったろ?……男の癖に、碌に抵抗もしないで、好きなようにさせて、突っ込まれても嫌がりもしなかった……。呆れた奴だと思っただろ?」
「何言ってんだよ?そんなこと……」
「僕の名前……、覚えててくれた事、凄く嬉しかった……」
その時の感情を思い出し、込み上げてくるものを押さえていられなくなって、僕はもう、我慢が出来なかった。
後から、後から、零れ落ちていく涙が、ぽたぽたと床の上にシミを作っていく。
僕は泣きじゃくりながら、言葉を続けた。
「きっと、忘れてると思ってたから……、嬉しかったんだ……」
「北野……」
「葦原が僕のことを知らなくても、僕はずっと、ずっと、葦原を見てたよ。1年の時からずっと、葦原のことだけを見てた……。葦原にとって、僕は居なかった人間でも、あの温室で毎日、僕は葦原のことだけを考えてた。…あそこでッ、あの温室で、葦原に会えるのがどんなに嬉しかったか、分からないでしょうッ?僕にとって、あの時間がどんなに大切だったかなんて、分からないでしょうッ?だから……、だから、今頃になって、興味のある振りなんかしてくれなくてもいいよ。関ってくれようとしなくたっていい。もう温室も無くなって、僕たちを繋ぐものなんか無い。だからもう、放って置いてッ…。僕に構わないでッ」
一気に叫ぶと、僕は教室を飛び出した。
背中で葦原の声が聞こえたが、今度は立ち止まったりはしなかった。
もうこれで、やっと全てが終わったのだ。 また、元のような平凡な日々が戻ってくるのだ。
だが、僕は、自分が決してそれを望んでいないことも知っていた。
それでも、もう、僕は葦原とも、自分の無様な恋とも決別することが出来たのだ。
何処をどう歩いたのか、気が付くと学校から2駅離れた自宅の近くまで戻って来ていた。
もうすっかり日が暮れて、空には星が出ている。
今日、母親は夜勤の筈で、僕の家には灯りが点いていなかった。
街灯の明かりに照らされた門柱の前に、誰かが腰を下ろしていた。
「葦原……」
「やっと帰って来た。心配したんだぜ。携帯も繋がらないし…」
そう言って笑い、葦原は立ち上がって尻を払った。
「なに……、してんの……?」
「待ってたんだよ。おまえ、俺の話を全然聞いてくれなかったから…」
誰かに僕の家の場所を聞いたのだろうか。
まさか彼が、こんな行動に出るとは予想もしていなかった。
「もう…、いいって、言っただろ?」
「そうは、いくか。俺にだって言いたいことがあるんだから」
僕は諦めて溜息をつくと、玄関を指差した。
「今、開けるから……。入れば…」
「誰も居ないのか?電気も点かないし…」
「母さん、看護師なんだ。今日は夜勤だから」
「お父さんは?」
「単身赴任。来年まで北海道だって……。どうぞ」
鍵を開けて中に入り、僕は玄関の灯りを点けた。
「じゃあ、おまえ、今夜は一人なのか?」
「うん……。どうぞ、僕の部屋は2階」
先に立って階段を上ると、葦原もすぐについて上がって来た。
部屋に入って灯りを点け、僕はすぐに鞄を机の上に置いた。
葦原は、まだ片付けていないジンジャーの水槽を見つけると、近寄って中を覗いた。
「綺麗に洗ってあるんだ」
「放って置くと、水が腐るから……。それで、話ってなに?」
「その前に、これ…」
葦原は持っていた袋から、空気が入ってパンパンに膨れたビニールの筒のようなものを取り出した。
「ジンジャー2号とその恋人……。その水槽で飼ってやってよ」
筒状の袋の中には空気の他に、水と2匹の金魚が泳いでいた。
「葦原……」
僕は金魚を受け取りながら、驚いて彼の顔を見た。
「今度は寂しくないように、最初からカップルで買ってきたから……。ちゃんと、1番仲の良さそうな2匹を選んだんだぜ」
「あ……。あり……がと……」
思い掛けない事に、僕は嬉しくて声を詰まらせた。
葦原は僕の顔を見て笑顔を見せたが、すぐに何かを思って真面目な表情に変わった。
「俺って、最低の男だよな。ほんと、おまえのこと、凄く沢山傷付けてたんだな……」
「もう、いいよ……。さっきは、あんなこと言うつもりじゃなかったんだ…。だって、葦原は悪くなんか無いし……」
「いや、俺が悪いよ。ずっと好きで居てくれたのに、おまえのこと知らなかったなんて言って……。そんな酷い話って無いよな、ほんと……」
僕は唇の端を押し上げて、首を振って見せた。
「だって、仕方ないよ。本当に僕って、目立たないし……」
「いや、俺の悪いとこなんだ。友達を大事に思わない訳じゃ無いけど、いつも向こうから来てくれるから、いい気になってる。だから、周りの事に無頓着なところが有るんだ」
「……分かるよ。葦原は人を惹きつけるんだよ」
「そうかな……、自分では良く分からないけど……。でも俺、そんな風だから、付き合いも上辺だけの相手が多くって……、だから、温室で北野と話した時、妙に落ち着いていい感じがして、嬉しかったんだ、ほんと。もっと色んなこと北野と話したいって思った。北野のこと、知りたいって思ったんだ……」
僕は答えなかった。
ただ、手の中の金魚の袋を腕の中に抱え込んだ。
「ジンジャーの話も、可愛いなって思った。おまえのこと、綺麗だって言ったのもお世辞なんかじゃ無い。おまえは自分のこと分かってないかも知れないけど、俺は綺麗だと思う。本当に、そう思ってる」
ドキドキと、僕の胸は鼓動を早めていった。
一体これから、葦原はなにを言おうとしているのだろうか。
「俺が諒子先生との別れ話で揉めて、クサクサしてたのは確かだけど、でも北野と温室で会うと、そういうことも忘れられて……。だから…、憂さ晴らしにおまえを抱いたなんて、思わないで欲しい……」
葦原の指が、僕の頬に掛かる髪を摘んだ。
「温室で、一人で泣いてた北野が、凄くか弱く見えた。慰めたかったのに、却ってまた泣かせて、どうしていいか分からなかった。抱きしめたら、色んなものが込み上げて、止まらなくなって……。おまえの全部が見たくなって…。見たら……、全部が欲しくなった……」
僕は恐る恐る顔を上げて、葦原を見た。
じっと注がれる視線が、驚くほど熱を帯びているのが分かる。
僕は急に怖くなって、少し後ろに下がった。
このまま聞いていてもいいのだろうか。
葦原も僕も、後悔しないのだろうか。
「おまえが痛がって泣いてるのに、止めてやれなかった。気を失ってしまっても、腕から離したくなかった……。置いて帰るつもりなんか無かったんだ。なにを言っても言い訳になるけど、あの時先生が、俺の家の前にいるなんて言わなければ、俺だって……」
葦原が1歩前に出て、僕たちの距離は、さっきよりも縮まった。
「後悔したよ。ちゃんと送っていかなかった事……。次の日、おまえが休んで、心配で何度も電話した。おまえの携帯の番号も、友達から無理やり聞きだして……。でも、次の日学校に来て笑ってくれたから、許してくれたんだと思った……。そんな訳、無いのにな……」
あの時の電話は、1本どころか全部葦原からのものだったらしい。
葦原の手が、僕の肩を掴んで揺すった。
「もう、戻れないよ。前と同じになんか、戻れない。少なくとも、俺はもう、駄目だよ……」
「……だって……、それなら、どうすればいいの……?」
自分でも、なんて不安げな声なのだろうかと思った。
震えて、か細くて……、それでいて、何処かに僅かな期待を込めている。葦原の答えに、何かを期待している声だった。
「戻れないなら、進もうよ」
その答えに、忽ち涙が溢れてきて、僕の頬を濡らした。
「だって……、だって、怖いよ……」
「どうして?」
「葦原が、僕のものになんかなる訳無いもん……。僕を選んでくれたなんて、信じられないもん……。僕は、僕は……、何にも持ってなくて、詰まんない奴で、それなのに、凄く欲張りで……」
言い続けようとした僕を、葦原は金魚ごと腕に抱きしめた。
「でも可愛いよ。……そして、凄く好きなんだ」
「だって……」
「俺のこと、ずっと好きでいてくれたんだろ?これからも、好きでいてくれるだけでいいんだ。それだけで、いいよ」
それなら、出来るかも知れない。
嫌いになるのは無理だけど、好きでいるなら簡単だった。
だって、今だって、こんなに苦しいほど好きなんだから。
「葦原……」
「里久だよ。そう呼んで」
「里久……」
「うん、七綱…。これから俺も、ずっとそう呼ぶから……」
「眼鏡……、外すよ。コンタクトにする。前に買って、持ってるんだ」
そう言うと、葦原は意外なことに少し嫌そうな顔をした。
「いいよ、今のままで……」
「どうして?だって、前に……」
言いかけた僕の顔から眼鏡を外し、葦原は額にチュッと音を立ててキスをした。
「七綱が綺麗だってこと、他の奴らに気付かれたくない。俺といる時だけ、コンタクトにしなよ。な?」
「うん……」
葦原の、そんな独占欲が嬉しくて堪らない。
うっとりと目を閉じて、彼の胸に凭れようとして、僕はハッとして身体を離した。
「どうした……?」
「ジンジャー2号、茹っちゃう。入れ替えてやらなくっちゃ」
「あ、そうか。手伝うよ」
そう言って葦原は水槽を抱えると、僕の後に付いて階段を下りて来た
キッチンに入って浄水を水槽に入れると、カルキ抜きの薬剤を入れた。
「水槽に移すのは明日にならないと……。金魚たちはボールに入れておこう」
入っていた水をそのまま使い、僕は金魚を大き目のボールに移し替えた。
元気に泳ぐ2匹を上から眺め、僕はふっと気になって葦原を見上げた。
「ねえ、これって、どっちがジンジャー2号?」
「さあなぁ、同じくらいの大きさだから……」
「じゃあ、どっちが雄?」
「……ん?さあ、訊いてこなかったけど……」
「じゃあ、恋人かどうか分からないじゃない。どっちも雄かも知れないよ」
「でも、どっちも雄でも恋人じゃ無いとも言えないだろ?」
「え……?」
「うん?」
僕が見つめると、葦原も見つめ返した。
「……うん、そうかもね……」
僕が呟くと、葦原はニッと笑った。
そのまま唇が近付き、僕はもう金魚のことを考えるのを止めてしまった。
今度のキスは、夢では無いとはっきり分かった。
だからこそ、怖いほどドキドキして、蕩けそうなほど熱かった。
「今日、泊まってく……」
唇を離すと、葦原は言った。
「えっ……?」
驚いた僕に、葦原は有無を言わせない口調で繰り返した。
「泊まってく」
「うん……。いいけど……」
僕が返事をすると、すぐに熱い腕が身体に絡みついてきた。
「もう、部屋に戻ろ?」
「え?……でも、お腹すいてないの?晩御飯……」
「後でいい。な?……もう、行こ?」
僕を抱きしめて揺すり、駄々っ子のように言う。
年上の人と付き合っていた癖が抜けないのか、僕の大切な恋人は、結構甘えん坊だと知った。
でも、そんなところも、何だかくすぐったいような感じがして照れ臭い。
甘えられるのが嫌いじゃ無いのだと、僕自身、知らなかった部分を教えられた。
こうして一つずつ、彼を知る度に、僕も新しい自分を知るのかも知れない。
ジンジャー2号が、先代の大きさに追いつく頃には、僕たちはお互いの新しい部分を、どれだけ発見しているのだろうか。
いいところも、悪いところも、全部知りたいし、知って欲しい。
もう、あの温室に拘らなくても、彼と一緒にいる場所が、これからは全て、僕にとっての特別な場所になるのだと思った。