彼とジンジャーと僕
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放課後、僕はまた温室に行った。
寝椅子の上に膝を抱えて頬を載せると、じっと、遠くで聞こえるグラウンドの音に耳を澄ませた。
葦原はきっと、もうここへは来ないだろう。
少なくとも、僕が居るかも知れない放課後は近付かないに違いない。
それでいいのだ。
ここは、僕独りの場所だった。今まで通り、これからもそうなのだ。
僕はふと思い出して顔を上げると、眼鏡を外した。
コンタクトレンズは前に作って持っている。でも、ゴロゴロするのが嫌で結局使わずに仕舞ってあった。
「綺麗だなんて……、なんで言ったんだろう…?」
そして、女の子でもないのに、僕は嘘かもしれない葦原の、その言葉が嬉しかったのだ。
「変なの……。お世辞に決まってるのに……」
ドン臭いとか、冴えない奴とか言われても、綺麗だなんて、ただの一度も言われたことなど無い。
僕の口からは、また大きな溜息が飛び出した。
また眼鏡を掛けて膝を抱えた時、ガタンッ、と入り口の戸が動き、僕はハッとした。
人影が見えて、それがすぐに葦原だと気が付いた。 もう、絶対に来ないと思い込んでいた僕は、驚いて呆然と彼を見つめた。
「やっぱ、来てたんだ……」
入って来ると、葦原は嬉しそうに僕を見て言った。
「ど…したの……?皆と、遊びに行ったんじゃ……」
授業が終わった後、葦原が友達に誘われているのが聞こえていた。だから、彼らと一緒に帰ったものだとばかり思っていたのだ。
「う……ん。なんかなぁ…、そういう気分じゃなかったし、おまえの事も気になってたし……」
「ぼ、僕…?」
驚いた僕を見て、葦原は少し照れくさそうに笑った。
「昨日、泣かせちゃったしさ。まだ、怒ってるみたいだったし……」
「そ、そんな……。僕は何にも、怒ってなんか無いよ。ほんとに、ほんとだよ?」
僕が慌てて早口に言うと、葦原は面白そうに僕を見た。
「へえ?北野も、そんな大きい声が出せるんだ?」
「え……?」
カアッと顔が熱くなるのが分かり、僕は急いで顔を伏せた。
「今日一日見てたけど、北野って殆ど喋らないんだもんな。喋っても、笑っても、小さい声でさ、気をつけて見てないと、ほんとに居るのが分からないよ。身体も小さいしな」
葦原が僕のことを見ていたなんて気が付かなかった。今日は、僕の方が彼を1度も見なかったからだ。
「なあ、おまえって趣味とか何?いつも、何して遊んでんの?」
「何って、別に……。本、読んだりとか…、映画見たりとか…、ゲームもするけど……」
「へえ?友達とゲーセン行ったりとかすんの?」
「たまに……」
「ふぅーん……」
意外だったと言いたげに葦原は唸った。
「な、なんで…?」
急に質問されて、僕は不安になって彼を見た。
「いや、おまえみたいなタイプって俺の周りには居ないからさ、どんな風に過ごしてんのかと思ってさ……」
「べ、別に…、普通だと思うけど……」
「そうだな」
葦原は頷いて笑った。
「映画とか、どんなのが好き?」
「アクションものとか、コメディとかかな…」
「へえ?」
僕の答えに葦原はまた、意外そうな顔をした。
「北野みたいなタイプって、ヒューマンドラマとかが好きかと思った」
「あんまり、そういうのは…。映画見た後で考えさせられるのとかは苦手なんだ…。どっちかと言うと、スカッとしたいし」
「あはは、分かる、分かる。俺もそうだよ」
僕がその眩しいような笑顔にどぎまぎと目を伏せた時、フゥッと葦原の溜息が聞こえた。
「いいな、こういうの…」
「え…?」
驚いて目を上げると、葦原は僕を見て微笑んでいた。
「俺、こんな風に誰かと、ゆっくり話したことってあんまり無いんだ。いつも大勢でワイワイしてることが多いしさ、こっちが何か言わなくても、相手が喋ってくれるから…」
「あ…、ご、ごめ…。僕、あんまり、喋るの苦手で…」
葦原に気を遣わせてしまったのかと思い、僕は焦った。
「あはは…。いいんだよ、そこが、いいんだって、北野は」
葦原がそう言った時、ポケットで彼の携帯電話が鳴った。
携帯を取り出してメールを読むと、葦原の眉間に深い皺が刻まれた。
そのまま返信を打たずに、葦原は携帯をポケットに仕舞った。
「か…、彼女……?」
「あ、うん……」
「まだ、喧嘩中なの……?」
「まあな。ちょっと、拗れちゃって…」
きっと、その所為で、友達と遊びに行く気にはなれなかったのだろう。
諒子先生と葦原の付き合いは、やはり難しい局面を迎えているらしかった。
「なあ、暇だったら、映画見に行かねえ?」
「えっ……?」
突然の誘いに、僕は驚いて絶句してしまった。
「駅裏の映画館でさ、B級のアクション物やってんだ。ちょっと古いヤツだけど、見に行こうよ」
「ぼ、僕と……?」
信じられない展開に、僕は驚きを隠せなかった。
葦原はそんな僕を見て面白そうな顔をした。
「そうだよ。なんか、変か?」
「う、ううんっ。……そうじゃ、ないけど……」
ウレシイ、ウレシイ、ウレシイ。
嬉しくて踊り出しそうだった。
まさか、葦原が僕を誘ってくれるなんて、夢にも思わなかった。こんな日が僕に訪れるなんて考えた事も無かった。
僕が返事をしようと口を開きかけた時、葦原のポケットでまた携帯が鳴った。今度は、さっきと着信音が違う。
「ごめん」
と素早く言い、葦原は携帯を取り出した。
「もしもし……」
話をしながら、葦原は立ち上がって入り口の方に移動した。
「……だから、ちゃんと話そうって、言ったでしょ?……分かってる、そんなの……。え……、今から?だって、今日は駄目だって、そっちが言ったんだろ……?」
会話の端々から、僕にも電話の相手が誰なのか分かった。
葦原の背中を見ながら、僕は諒子先生の綺麗な白い顔を思い出した。
「ごめん、北野…、俺……」
電話を切ると、さっきまでとは違う、深刻そうな顔で葦原は振り返った。
「うん、いいよ……。用事、出来たんでしょ?」
さっきまで、胸の中ではちきれそうに膨らんでいた喜びが、急に音を立てて萎んでいくのが分かった。
だけど僕は、精一杯、口元に笑みを浮かべて答えた。
(気にしないで。誘ってくれただけで嬉しかったから…。本当に一緒に行けるなんて、思ってなかったから…)
心の中でそう言うと、少し泣きそうになった。
「誘っといて、ごめんな。…今度、ほんとに行こうな?」
「うん…。さよなら」
今度が、本当に有るのかどうか分からないけど、それでも葦原の気持ちが僕にはとても嬉しかった。
葦原が出て行った後で、さっきの喜びを思い返そうとして、僕はまた膝を抱えて独りの時間を暫く過ごした。
それから数日の間、葦原は温室には現れなかった。
教室でも、何処か虚ろな感じで、皆と騒いでいても心から楽しんでいるようには見られなかった。
きっと、諒子先生との話し合いが上手くいかなかったのだろう。
葦原は別れたくないのに、諒子先生の方が終わりにしたいと言ってきたのだろうか。なんだか、彼の様子から、僕はそんな風に想像していた。
今までなんとも思わなかったのに、一人で温室に居てもつまらないと感じて、僕は5分もすると帰りたくなってしまった。
ここが好きで、何時間でも一人で居られる場所だったのに、一体どうしたんだろう。
僕は寝椅子の上に座って、周りを見回した。
埃っぽい、狭っ苦しい空間。
枯れた植物と肥料の匂い。
葦原が居ないと、ここには少しも魅力など無かった。
こんな場所が、何故今までお気に入りだったのか。あんなにも執着出来た自分が、なんだか不思議でならなかった。
でも、それでも僕は、毎日ここに来るだろう。
ここに来れば、また、葦原に会えるかも知れないからだ。
もう、僕の秘密の温室は、ただ葦原を待つだけの場所になってしまっていたのだ。
「ジンジャー、今日も来なかったよ」
部屋に帰ると、僕はベッドの上から金魚に話しかけた。
「もう、来ないのかな……?どう思う?ジンジャー……」
金魚は僕の話を聞いているような素振りで、水槽の前を行ったり来たりしている。
僕は両肘で身体を前に進め、もっと水槽に近付いた。
「僕と話をするのなんか、きっと面白くないよね。葦原にはいっぱい友達もいて、毎日楽しそうだし……」
ジンジャーはひらひらと、尾鰭を振って水槽の奥に戻って行った。
「でも……、最近元気が無いんだ……。諒子先生の事で悩んでるのかもね……」
一人になると、葦原がふと見せる暗い表情が気になっていた。でも、僕には声を掛けて訊ねる勇気も無い。
多分、葦原にとって友達でさえない僕は、ただ彼を見ているしかないのだと思った。
日直の仕事があって、僕はその日、いつもよりも遅い時間に温室に行った。
すると、そこには先に葦原が来ていた。
もう、ここでは会えないのかも知れないと諦めかけていた僕は、胸を高鳴らせて近付いた。
両腕を枕に寝椅子に仰向けに横になり、葦原は眠っているようだった。僕が近付いても身動きもしない。
僕は隣の寝椅子に腰を下ろして、暫くの間彼の寝顔を眺めた。
彫刻のような彫りの深い美しい陰影。濃く長い睫。整った、男らしい眉。
綺麗なのは葦原の方だ。
僕は彼の眠りを妨げるのが嫌で、そっと立ち上がって出口に向かった。
「帰るのか…?」
声を掛けられて、僕は驚いて振り返った。
「ね、眠ってると思ったから……」
「考え事、してただけ……。いいから座れよ」
後ろに肘を突いて上半身を起こすと、葦原は抑揚の乏しい口調で言った。
「うん……」
僕が腰を下ろすと、葦原は肩肘を突いて、その手で頭を支えて横になった。
「なあ、北野。おまえ、猫、いらないか?」
「猫……?」
「うん。まだ仔猫なんだけどさ、可愛いんだぜ。茶虎で雄なんだけど」
「葦原の家で生まれたの?」
「いや……。知り合いに……、貰う予定だったんだけど、俺のとこで飼えなくなっちまって……」
“知り合い”と言う時に、一瞬だが口篭った。
きっと、その知り合いは諒子先生なのだろうと僕は思った。
葦原は多分、彼女の猫を可愛がる心境ではなくなってしまったのだ。傍に置いておくのが辛くなってしまったのだろう。
「ごめん…、僕、猫は……」
「あ、嫌い?」
「ううん、そうじゃないんだけど……。僕、金魚を飼ってて……」
「金魚?へえ……」
興味を持ったらしく、葦原は起き上がって座り直した。
「どんな金魚?尾っぽがヒラヒラするやつ?」
「ううん。普通の、1番安い……」
「ああ、餌金」
「餌金?」
「そう、昔は釣の餌に使ったらしい、あれだろ?良く夜店の金魚掬いで……」
「そう、ジンジャーも金魚掬いの金魚だったんだ」
「ジンジャー?」
聞き返されて、僕は忽ち赤面した。
金魚に名前をつけているなんて、おかしな奴だと思われるのではないだろうか。
「ち、近くの、じ、神社のお祭りで……」
「ああ。だから、ジンジャーか……。あはは…、可愛いな」
笑ってもらったことにホッとして、僕は顔を上げた。
「じゃあ、金魚掬いで掬ったんだ。ジンジャーを」
「ううん。僕、金魚掬いで、ちゃんと掬えた事無いんだ。失敗すると、店の人がおまけでくれるだろ?ジンジャーもおまけで貰ったんだ」
「ふーん…」
笑顔で聞いてくれる葦原に勇気付けられて僕は話を続けた。
「今までの金魚はすぐに死んじゃったんだけど、ジンジャーはもう1年も生きてて、大きさも倍以上になったの」
「へえ、可愛がってんだな……。1匹だけしか居ないのか?」
「うん……。小さい水槽だし……」
「でも、1匹だけじゃ、ジンジャーだって寂しいんじゃないか?」
「寂しい……?」
「うん。友達、欲しいかもよ」
「そうかな……?」
今まで、そんな風に考えた事が無かった。 ジンジャーも、1匹だけじゃ寂しいだろうか。そう言えば、昼間、誰もいない家でジンジャーはいつも一人ぼっちなんだと気が付いた。
家に帰って、僕は真っ先にジンジャーの水槽を覗き込んだ。
「ジンジャー、友達欲しい?」
パクパクといつものように口を動かし、ジンジャーは尾鰭を振って近づいて来た。
「やっぱり、一人じゃ寂しいかなぁ…。ペットショップに行って、買って来ようか。ジンジャーの友達……」
そう言うと、勿論気の所為だろうが、ジンジャーの尾鰭がいつもよりも激しく振られたような気がした。
僕は何度も温室で葦原と過ごした事で、まるで彼と、秘密の場所で逢引をしているような気分になっていた。
教室では相変わらず言葉を交わすことも無かったが、時折、彼の方を見ると視線が合うこともあった。
それは、温室で会う以前には1度も無かった事だった。
たったそれだけの変化でも、僕は多分、少し図に乗っていたのだろう。
その日の放課後も、僕は温室で葦原を待った。
でも、15分ほど待っていても彼が現れる様子は無かった。
僕は諦めて温室を出ると、校舎の裏を通って正門に抜けようとした。
通り道に保健室の窓が有る。僕は何気なく、引かれたカーテンの隙間から中を覗いた。
来ない筈で、葦原はそこに居た。
ベッドに浅く腰を下ろし、その前に誰かが跪いている。
怪我をして手当てを受けているのかと、僕は窓に近寄って目を凝らした。
葦原の前に跪いているのは諒子先生だった。そして、先生は葦原の怪我の手当てをしていたのではなかった。
それに気付いた時、僕の頭の中で警鐘が鳴った。
”早く目を逸らして、早くここから立ち去りなさい”
だけど僕は、凍りついたようにそこから動けなくなっていた。
諒子先生の奉仕を受け、葦原は僕が見たことの無い表情を浮かべていた。
僕には決して見せてくれる筈の無い顔……。
その、あまりに雄臭い顔が、何故か痛いほどに胸を締め付けた。
ふっと、顔を上げた葦原が、窓の方を見た。
視線が、見つめていた僕の目を捉える。
その瞬間、サッと顔色が変るのがはっきりと分かった。
僕は弾かれたようになってやっと目を逸らし、その場から一目散に逃げ出した。
電話で言い争っていた日の後、葦原はもしかすると諒子先生と別れたのではないかと勝手に思い込んでいた。 だから、諒子先生から貰う筈だった猫を僕に譲ろうとしたのだと……。
だが、そんなことは僕の思い込みに過ぎなかったのだ。二人は、まだ、あんなに密な付き合いを続けていたのだ。
走りながら、僕は自分が泣いている事に気が付いた。
驚いて立ち止まり、急いで涙を拭う。
(何で泣いてるんだろう……?)
葦原に彼女が居る事など前から分かっていた。
僕のことなど、なんとも思っていないのも分かっている事だ。
全部分かっている事なのに、何故こんなに悲しいのだろう。
(何を期待してたんだろう……?もしかしたら、もっと近しい関係になれるとでも思ったの?)
だとしたら、なんて馬鹿なんだろう。
僕は呆れて、今度は笑い出しそうになった。
だけど、胸が痛くてすぐに笑いが引っ込んだ。
考えてみれば、こんなに苦しい思いを、僕は生まれてから一度も経験したことが無かった。
家に帰るとなんだか酷く疲れてしまった。
一辺に、色んな感情の波に襲われた所為だろう。
「ジンジャー、ただいま……」
胸の内を聞いてもらおうと、鞄を放り投げ、僕は水槽に目を向けた。
「ジンジャー?」
おかしい。 いつもならヒラヒラと泳ぎ回っている赤い身体が、一箇所から少しも動こうとしない。
「ジンジャー……?」
水槽の底に敷いた砂利の上に、ジンジャーはひっそりと横たわっていた。
何だか気が抜けたようになり、何もする気になれなかった。
だが、金魚が死んだくらいで休むなんて駄目だと母に叱られ、仕方なく学校へ行った。
遅刻ギリギリだったが何とか間に合い、僕は席に着いた。
でも、授業など上の空で頭に入らず、結局1時限目が終わるのを待って、僕は教室を抜け出した。
ジンジャーは昨夜、庭に穴を掘って葬った。
墓石代わりに小さな石を立て、庭に咲いていたコスモスを摘んで供えた。
言葉も喋らない小さな金魚でも、1年間も共に過ごした友達だ。誰にも言えない葦原への想いも、全部ジンジャーが聞いてくれたのだ。
こっそりと校舎を出て温室へ行き、僕は膝を抱えてジンジャーの事を考えた。
昨日の朝まで何事もなく、餌だって元気にパクついていたのに、どうして死んでしまったのだろう。
僕が気付いてしまったように、ジンジャーも気が付いてしまったのだろうか。
本当は、一人で居る事が寂しいっていうことに……。
本当は、見ているだけで幸せなんかじゃなかった。
話をして、触れて、そして僕のことを見て欲しいと思っていた。
人間は与えられると欲張りになる。
1度でも葦原に近づけた僕は、いつの間にか、もっとそれ以上をと望んでいたのだ。
涙が溢れてきて、僕は眼鏡を外した。
ジンジャーと僕の為に、気が済むまでここで泣こうと思った。