一緒に帰ろう


-2-

「ワジー…?」
「なにやってんだ?なに泣いてんだよ?」
眉を顰めると、輪島は七於の前にしゃがんだ。
「なんでもない…。忘れ物したの…」
やっと涙を拭き、七於はごしごしと制服の袖で顔を擦った。
「それで泣いてたって?嘘つけ。…耀平は?」
すぐに気づいて輪島は訊いた。
すると、七於は立ち上がった。
「嘘じゃない。耀ちゃんは、待っててくれるって言ったんだけど、俺が先に行ってって言ったの」
輪島は溜め息をついて立ち上がると、七於の汚れた尻を手で払った。
「忘れ物って、なんだ?」
「え…?うんと…うんと…、あの…」
七於が口篭もると、輪島はまた溜め息をついた。
「ほら見ろ。嘘ついたって駄目だ。…耀平だろ?何か言われたのか?」
輪島が訊くと、七於は必死で首を振った。
「違うよー。耀ちゃんは何にも言ってない。…ただ、今日から砂羽ちゃんも、一緒に行くって言うから…。だから、俺…」
「七於…」
輪島が口を開いた時、七於のポケットで携帯が鳴った。
「あ…、もしもし?耀ちゃん?」
どうやら相手は耀平だったらしい。きっと、七於が来ないので電話してきたのだろう。
「あ、あの…、えと、えと…。あ、今ね、走ってるー。うん、あの…」
七於がしどろもどろで答えていると、脇から輪島の手が伸びて来て、携帯電話を取り上げた。
「もしもし?工業科の輪島だけど…。今日から七於は俺と一緒にガッコ行くから。久賀沼は気にしないで先に行ってくれよ。じゃな?」
輪島はそう言うと、耀平の返事も待たずに電話を切り、それを七於のポケットへ戻した。
「ワジー、なにするの?耀ちゃん怒るよっ」
慌てて携帯を取り出そうとする七於の手を輪島は押さえた。
「怒りゃしねえよ。怒るぐらいなら、おまえを無視して彼女と約束したりするかよ」
吐き棄てるように輪島は言うと、七於の手をグイッと引っ張った。
「もう、止せよ。おまえが幾ら想ったって、耀平は気づきゃしねえ。お前の事なんてこれっぽっちも考えてねえんだ。ただ、おまえが傷つくだけだろ…?」
輪島の言葉に七於は必死で首を振った。
「耀ちゃんのこと悪く言わないでよ。…耀ちゃんは…、悪くないもん」
「七於…」
「耀ちゃんは悪くない。耀ちゃんは、優しいもん…。悪くないもん…ッ」
また、一杯に溜まった七於の涙を見て、輪島は黙った。
そして、フッと息を吐くと、七於の手を握ったまま、それを引いて歩き出した。
「行くぞ。遅刻する…」
「耀ちゃん、怒るよぉ…。もう、会ってくれなくなるよぉ…」
空いている方の手でゴシゴシと涙を擦り取りながら七於は悲しそうに言った。
「そんなことねえよ。大丈夫だって」
輪島が言うと、七於は首を振った。
「だって、前にも怒ったもん…。ワジーと一緒に居たら、駄目って言ったもん」
「なに…?」
その言葉に、輪島は眉間に皺を寄せると、立ち止まって七於を見下ろした。
「どういうことだ?何で、俺と居ると耀平が怒るんだよ?」
訊かれて、七於はハッとすると急いで自分の口を押さえた。
「七於…?」
輪島がじっと見ると、七於は口を押さえたままでブンブンと首を振った。
「話せよ。七於ッ…」
「ごめんなさいッ…」
強く言われて、七於はギュッと目を瞑ると身を縮めた。
「謝らなくていい。耀平がなんて言ったのか話せって」
七於の肩を掴むと、今度は声を和らげて輪島は言った。
だが、七於はまたブンブンと首を振って閉じた目を開こうとしなかった。
「ごめんなさいっ…、ごめんなさい、ごめんなさいッ」
「何でおまえが謝るんだよ…?」
輪島は悲しげにそう言うと、七於の身体を抱き寄せて腕の中へ入れた。
「言えよ、七於。絶対に怒ったりしねえって。な…?」
輪島の言葉に、七於はやっと目を開いて顔を上げた。
「耀ちゃんのことも?」
「え…?」
「耀ちゃんのことも怒らないで?」
心配そうな目でそう言った七於を見て、輪島は言葉を失った。
自分のことよりも先ず、七於が一番に考えるのは耀平の事なのだ。それほどまでに大切に想っている七於の気持ちを、耀平は少しも分かっていない。それが、輪島には切なかった。
フッと息を吐くと、輪島は笑みを浮かべて頷いた。
「怒らねえよ」
どうせ、何を言われたのかぐらい想像はつく。他人が自分をどう噂しているか、知らない訳ではなかった。
「…あ、あのね…、ワジーは男も女も見境無いタラシだから、駄目だって…。傍に行くなって…」
自分が言った訳でもないのに、七於は心から済まなそうにそう言った。
「そっか…」
予想通りの言葉に輪島が苦笑すると、七於は必死の形相で彼を見上げた。
「うんとね、うんと、俺は違うって言ったよ?ワジーは優しくていいヤツだって、耀ちゃんにちゃんと言ったよ?」
「そっか。ありがとな」
笑いながらそう言って輪島が頭を撫でると、本気にしていないと思ったのか七於は益々必死になった。
「ホントだよ?ワジーはいっつも俺に親切にしてくれるって。勉強も教えてくれるし、面倒見てくれるんだって言ったよ。みんなの噂なんか信じないでって、ちゃんと言ったんだから…」
夢中になって自分のマフラーを掴んだ七於の手を、輪島は笑みを浮かべて軽く叩いた。
「分かってるよ。信じてるって」
「ワジー…」
「いいんだよ。大体、言われたって仕方ねえ。みんな、ホントのことだからなぁ」
そう言って笑うと、輪島は七於を促して歩き始めた。
「急がねえと、マジやばいぞ。ほれ、歩け、歩け」
七於は輪島の歩幅に合わせて小走りになりながら付いて行った。
「ねえ、なんで、色んな人と付き合うの?1人じゃ駄目なの?」
「なーんでかなぁ…。おまえみたいに一途なら良かったんだろうけどな…」
そう言って輪島が苦い笑いを見せると、七於は黙り込んでしまった。ただ、歩幅の広い輪島に遅れまいとして必死に付いて来る。
その様子を見て輪島はフッと笑みを浮かべた。
普通科と工業科は校舎が違う。
普通科の校舎の前を通ってその裏にある自分たちの校舎へ向かう時、輪島は3階の教室のベランダから耀平が見下ろしているのを見つけた。
七於は気づいていないようだったが、耀平は明らかに不機嫌な顔で輪島を睨み付けていた。
(そんな顔するぐれえなら、もっと七於を大事にしろってんだ…)
ちらりと見上げたが、輪島はすぐに目を逸らして七於に向かって笑い掛けた。
「七於―、今日昼飯なんにする?」
「卵サンドッ」
即答した七於に輪島は苦笑した。
「なら、おまえ、購買に並べー」
「やだぁ。潰されるもん」
昼時の購買の混雑は、小柄でひ弱な七於にはちょっとした冒険だったのだ。
「仕方ねえ。じゃあ、俺が並んでやるか」
「わぁい。だから、ワジー好きー」
「嬉しくねえなぁ」
わざとらしく顔を歪めてそう言うと、輪島は笑いながら七於の背中に手を当てた。
もう一度見上げると、耀平の姿はもうそこには無かった。輪島は肩を竦めると、七於を促すようにして工業科の校舎へ向かった。


普通科に比べれば工業科の授業は勿論実技が多い。普通授業も少なく、その代わりに専門学科の授業が入ってくるのだが、人よりも理解するのに時間の掛かる七於にとってはそれでも必死で勉強して、やっと下の方に引っかかる程度の成績しか取れなかった。
それに比べて、輪島はちゃらんぽらんに日を過ごしているように見えながら、試験をしてみると常に上位に食い込んでいた。
元々、頭の出来は悪くない。少し勉強すれば普通科に入ることも難しくなかったし、今も、授業を聞いているだけで然程勉強する必要もなかった。
だから試験になると、いつも七於は輪島の家に入り浸り勉強を見てもらっていた。
以前は耀平の家に行っていたのだが、近頃、耀平は試験前になると砂羽子と一緒に勉強するようになってしまったので七於は行くのを止めたのだ。
それに、同じ科の輪島に教わった方が分かり易いこともあって、七於は彼を頼りにしていた。そればかりではなく、普段の授業や宿題でも、分からない所があると七於は輪島に教えてもらっていたのだ。
2人が仲良くなる切っ掛けも、実は七於の飲み込みの悪さからだった。
幾ら一生懸命に授業を聞いていても、七於は他の生徒のように理解することが出来ない。教師の方も、七於1人を見ている訳ではなし、彼が何処を理解出来ていないのか、いつも把握している訳ではなかった。
休み時間、前の授業の教科書を広げて七於が唸っていると、それを面白そうに見ていた輪島が近付いて来た。
「そんなに唸ると、実が出るぞ」
輪島の言葉に、七於はきょとんとして顔を上げた。
「ミ?何の実?」
その答えに輪島は吹き出して笑った。
「おまえ、いつも一生懸命勉強してるよなぁ」
感心するように輪島が言うと、七於は少し頬を染めて顔を俯けた。
「でも…、勉強しても良く分かんない。俺…馬鹿だから…」
その言葉に、輪島は眉を顰めた。
七於が良く、クラスの人間に馬鹿だと言われては笑われているのを知っていたからだ。
「おまえは馬鹿じゃねえよ」
そう言うと、輪島は空いていた七於の前の席に腰を下ろした。
「どれ?何処が分かんねえ?」
身体も小さく、少々お頭も弱い。そんな七於だったから、皆に馬鹿にされることも多かった。
だが、七於はいじけることなく、いつも明るく笑っている。そんな彼を遠くから見て、いつも癒されていた輪島だったのだ。
「教えてくれんの?」
「ああ。何処が分かんねえんだ?」
「ありがとうっ。輪島君、優しいねー」
そう言って目を輝かして笑った七於に、輪島は驚いて目を見張った。こんなに素直に感情を表す人間を、輪島は小さな子供以外で見たことが無かったからだ。
それ以来、七於はすっかり輪島に懐いてしまい、いつも傍に居るようになった。
“タラシ”と言われるぐらいで、告白されたり誘われたりすれば、すぐに異性と付き合う輪島だったから、中には彼の傍にくっついている七於を邪魔に思う女生徒もいないではなかった。
だが、邪気の無い顔でにっこりと笑われると誰でも気が抜けてしまうらしく、面と向かって文句を言う人間もいなかった。
それに、頭は弱くても七於は鈍感ではない。
輪島がデートらしいと悟ると、いつの間にか傍から消えているのだった。
パンを買いに購買に並んでくれると言っていた輪島だったが、昼休みが始まると、最近付き合いだした普通科の女子が姿を見せた。
それを目聡く見つけると、七於は何も言わずに1人で購買へと出掛けた。
きっと2人で昼食を食べるに違いない。自分が居ては邪魔になるだろうと七於は考えたのだ。
だが、やはり今日も購買の混雑振りは尋常ではなかった。
「うぅーん…、ちょっとぉ…、ちょっと通してよぉ」
果敢にもパンのコンテナの前に突撃したのはいいが、人の間に挟まれてしまい七於は苦しくてもがいた。そして、前へ進むどころか、やがて、どんどん後ろへと追い出されてしまった。
「駄目だぁ…」
呆然として七於は前に広がる人垣を眺めた。これでは、今日の昼食は買えそうにない。
「どうしよっかなぁ…」
しょんぼりとしてそう呟くと、誰かにグイッと後ろから腕を掴まれた。
「耀ちゃん…」
驚いて七於が見上げると、少々不機嫌な顔つきの耀平が彼の目の前に茶色い袋を突き出した。
「ほら。これだろ?」
受け取って中を見ると、卵サンドイッチとイチゴ牛乳が入っていた。
「わあ…。ありがと、耀ちゃん」
顔を輝かせて七於が見上げると、耀平は面白くなさそうな表情のまま肩を竦めた。
「どうせおまえじゃ、前まで辿り着く前に販売終了だろ」
「うん。へへ…」
笑うと、七於は嬉しそうにサンドイッチの袋を胸に抱えた。
「そうだ耀ちゃん、久し振りに一緒にご飯食べようよ」
七於が腕を掴むと、耀平は首を振った。
「俺、学食で砂羽子が席取ってくれてるし」
「あ…、そうなんだ…」
「ああ。じゃ、行くわ。それから今日、後で電話するから。おまえに話あるし」
「話…?」
「ああ」
頷くと、耀平は七於に背を向けて歩き出した。
「耀ちゃん、ありがとーっ」
その背中に向かって叫ぶと、七於は振り向きもしない耀平に手を振った。
耀平の姿が見えなくなると、七於は袋を持って階段の方へ歩き出した。耀平がわざわざ自分の為にパンを買いに並んでくれたのだと思うと、七於は嬉しくて堪らなかった。
だが、一緒に食べたいと思っても、それは叶わなかった。
耀平のことを砂羽子が待っている。それを改めて突きつけられ、七於はすぐに悲しくなってしまった。
「ワジーもいないしなぁ…。1人で食べよ」
寂しそうにそう呟くと、七於は階段を上って屋上まで行った。