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昼休みになると、いつも女の子と連れ立って行ってしまう輪島が、七於の傍へ来た。
「七於?今朝のことだけど…」
やはり心配していたらしく、眉根に皺を寄せて輪島は言った。
「う、うん。何でもないよ。あの、あの…、ちょっと…、あ、うん、耀ちゃんと喧嘩して…」
「耀平と?」
訊き返したが、輪島は信じていないようだった。
耀平の方で七於に腹を立てることはあっても、七於が耀平に逆らうことなどないと知っているからだろう。
「う、うん。あ、だから俺、謝りに行かないと。じゃ、じゃ…ね?」
これ以上話していたら、きっとまた嘘が見抜かれてしまう。
七於は逃げる様に教室から出て行った。

学食に行くと、今日も耀平と砂羽子が待っていてくれた。
食欲はなかったが、また心配されると思い、七於は頑張って残さずに昼食を食べた。
教室に戻ると、輪島ももう戻っていて、七於が自分の席に行く為に傍を通ると笑みを見せた。
「耀平と仲直り出来たみたいだな?」
学食を覗いたのだろうか。七於と耀平たちが一緒に昼食をとっていたのを見たのかも知れない。
「う、うん。耀ちゃん、怒ってなかった…」
「そか。良かったな」
そう言って笑ってくれたが、以前だったら言葉だけではなく、輪島の手が七於の頭に乗ってくしゃくしゃと髪を撫でてくれた筈だった。
だが、今は用件だけ言ってすぐに目を逸らしてしまった。
また、悲しくなって、七於は自分の席に向かいながら、輪島の手が乗っていた筈の頭に自分の手を乗せると、くしゃっと髪を掴んだ。
何をして嫌われたのだろうかと、何度も考えてみた。
だが、七於には分からなかった。
何も思い当たらないし、そして、あり過ぎて分からない。
自分の何もかもが、腹立たしいのかも知れない。
ポケットの中で携帯の着信音が鳴り、七於は席に着きながら取り出して確認した。
相手は耀平で、言い忘れたが、今日は委員会で少し遅くなるので、迎えに行くまで図書室で待つようにとのことだった。
決して一人で帰るなと念を押され、七於は“分かった”と返信を打った。
放課後になり、七於は教室を出て図書室へ向かった。
図書室は普通科の校舎にあり、渡り廊下を通っても行けるのだが、一旦外へ出て行った方が早い。七於は真っ直ぐ昇降口へ行って靴を履き替えると表へ出た。
空を見ると、今にも降り出しそうだったが、まだ暫くは持つだろうと思った。
普通科の校舎へ向かおうとした時、後ろから声を掛けられて振り返ると、そこにはあの3年生が立っていた。
忽ち、七於の身体が強張った。
恐怖で固まり動けずにいる七於に、3年生が近寄って来た。
そして、その手が伸びて、七於に触れようとした。
(嫌だッ…)
ギュッと拳を握り呪縛を解くと、七於は身を翻した。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ…ッ)
恐怖で訳も分からず闇雲に駆け出すと、七於は裏門から学校の外へ飛び出した。
周りを見る余裕もなく、自分が何処を走っているのかも分からないまま、息が苦しくなって咳き込むと、七於はやっと立ち止まった。
だが、追われているのではないかという恐怖は、まだ納まっていなかった。
後ろを振り返り、誰も居ないのを確認したが、それでも怖くて、七於は目の前に見えた寂れた公園へ足を向けた。
その生垣の陰に潜り込むと、七於は小さく縮こまって息を整えようとした。
とうとう雨が降ってきたが、七於は動かなかった。
じっと丸くなって膝を抱え、荒い息を押し殺そうとしていた。
木の陰から覗くと、七於が居る生垣の少し先に、古びた東屋があった。
見ると、そこに一人の女性が佇んでいた。
自分より少し年上だろうか。長い髪が艶やかで、色の白い、美しい女性だった。
(雨宿りかな?綺麗な人…)
七於がぼんやり見ていると、公園の入り口あたりから、バシャバシャと水溜まりを蹴って走って来る音が聞こえた。
(ワジー…)
カバンを頭の上に掲げて雨を避けながら、輪島は東屋に向かって走って来た。
何故、こんな所に輪島がいるのかと七於が驚いていると、東屋の女性が彼に向かって手を振った。
(え…?)
輪島が東屋に入ると、女性はタオルを出して彼の濡れた髪や肩を拭った。
この距離では話し声は聞こえなかった。
だが、輪島も彼女も笑っている。
そして、輪島はカバンを置くと、彼女の頬を両手で包んだ。

それはまるで、映画のワンシーンのようだった。

二人がキスするのを呆然と眺めながら、七於は息を飲んだ。
胸がどんどん苦しくなり、七於は両手で自分の喉を押えた。
まるで、七於の中で時が止まったようだった。
何時までも、二人を見ていなければならない気がして息が出来なくなりそうだった。
だが、時が動き、やがて唇が離れると、女性が傘を出した。
輪島がそれを広げて、二人は仲良く1本の傘の下に入ると、公園を出る為に歩き出した。
彼女の手が傘を持つ輪島の腕に掴まっている。
その後姿を、七於は雨に濡れながらずっと見つめていた。



ポケットの中で携帯が鳴り、七於はやっと我に返るとそれを取り出した。
見ると、耀平からだった。
委員会が終わって図書室へ行くと、七於が居なかったので心配しているらしい。
すぐに戻るからと返信し、七於は学校へ向かった。
表門の方へ回ると、そこに傘を差した耀平が待っていた。
「何やってんだ、おまえっ」
ずぶ濡れの七於を見て、耀平は顔色を変えた。
「大丈夫か?何かあったのか?」
心配そうに聞かれ、七於は首を振った。
「何でもない。ごめんね?耀ちゃん。待ってなくて…」
「それはいいけど、何もないなら、どこ行ってたんだよ。こんな雨の中…」
「うんと…、あの3年生が居たような気がして、怖くて逃げた。……でも、見間違いだったみたい…」
「本当か?」
眉間に皺を寄せながら訊き返した耀平に、七於は頷いた。
「うん…、見間違い…」
何処かぼんやりとした様子の七於を見て、不審そうにしていた耀平だったが、カバンから体育着を出すと七於のびしょ濡れの頭を拭き始めた。
「タオルねえし、汗臭くても我慢しろ」
「うん…」
「早く帰らねえと。おまえ、すぐ風邪ひくし」
「うん…」
「ほら、行くぞ」
濡れた体育着を乱暴にカバンに押し込み、耀平は七於を促した。
耀平の傘に入り、七於は歩き始めた。
「家帰ったら、すぐに風呂入れよ。制服も、ちゃんと干して」
「うん、分かった…」
耀平に返事はしていたが、七於の頭にはその言葉が素通りしていた。
さっきの光景が頭から離れない。
もう、何も考えられなかった。
家に帰ると、耀平に言われたことも忘れ、七於は真っ直ぐに部屋へ行った。
濡れた体のまま、ベッドへ腰を下ろすと、ただぼんやりと壁を見つめた。
「ワジーの…本気の彼女……」
あの女性を思い出し、七於は呟いた。
「綺麗だった……。すごく…、綺麗……」
彼女の美しさを思い出すと、何故だか酷く怖くなった。
そして、輪島が彼女にキスをしたことが悲しくて堪らなかった。
右手を上げ、七於は自分の唇に触れた。
「俺にも…、チュー…してくれたのに……」
ほろほろと、いつの間にか溢れた涙が、七於の頬を伝い落ちた。
輪島のキスを思い出して、やっと自分の気持ちが分かったのだ。
「俺…、やっぱり馬鹿なんだ……ッ」
そう言って、七於はしゃくりあげた。
「馬鹿だから、分かんないんだッ…。好きになっちゃダメって、分かんないんだ…ッ」
どうしていつも自分は、こんな恋をしてしまうのだろう。
悲しくて、悲しくて、七於は泣き止むことが出来なかった。
自分がもう少し大人だったら、もう少し賢かったら、そして、もう少し魅力的だったら、愛されることもあったのかと思う。
だが、今の自分が愛されることなど絶対に無いのだ。
「もっと…、頭よく…なれればいいのに…な…」
しゃくり上げながら悲しげに呟き、七於は両手で顔を覆った。



その日の夜、濡れたままでいた所為で七於は熱を出した。
朝、迎えに来た耀平が、出て来ない七於を心配して、母親に聞いて部屋に上がって来た。
「だから風邪引かないようにって言ったろ?濡れたままで居たんじゃねえの?」
ベッドに横になった七於を見下ろして、少し腹立たし気に耀平が言った。
「うん…、ごめんね」
屈んで、七於の額に手を当てると耀平は眉間に皺を寄せた。
「結構、熱あるな…。小母さん、仕事休めないって言ってたけど、大丈夫か?一人で…」
「うん、寝てれば平気…。薬飲んだし、昨日より良くなったし」
「そうか?まあ、取り敢えず寝てるしかねえしな。俺、帰りにまた寄ってやるから、大人しくしてろよ。飯、ちゃんと食って薬も飲むんだぞ」
「うん。ありがと、耀ちゃん…」
七於が答えると、耀平は頷いて部屋を出て行った。
暫くすると、枕元に置いてあった携帯にメールの着信があった。
見ると、それは輪島からだった。
今日、七於が病欠だと担任に聞いて連絡をくれたらしい。

“風邪だって?大丈夫か?熱、高いのか?”
“大丈夫。そんなに高くないから”
“そうか。ゆっくり休めよ。お大事に”
“心配してくれて、ありがとう”

返信して、七於は携帯を、また枕元に置いた。
優しい輪島。
今でも、自分を心配してくれる。
どんなに辛いことがあっても、輪島がいつも傍に居て慰めてくれた。
あの時の恐怖も、輪島が居てくれたから乗り越えられたのだ。
でももう、その手は離れた所へ行ってしまった。
2度と七於の手の届かない所へ。
目を閉じると、七於は深い溜め息をついた。
「大丈夫…。忘れられるよ。俺…、ちゃんと出来るよ…」
熱のせいで、また眠気がやって来た。
無意識に手を伸ばし、七於は何かを掴もうとした。
「あたま……撫でて?……も…っかいだけ…」