涙の後で


ー第1部ー

俺が慶と知り合ったのは高校の寮だった。
新設校で設備は良かったが、辺鄙な田舎の男子校で娯楽は少なかった。
俺はその状況が気に入って受験したのだが、自ら好んでこの学校を選んだ生徒は少なかっただろう。
戸田慶も多分その中の一人で、不本意な入学とそして入寮に納得いかない様子がありありと見えた。
不機嫌な表情。
だが、その顔は惚れ惚れするような男前だった。
(これで同い年……。老けてるな…)
大人びた慶の顔を見て、俺はそう思った。
だが、いつまでも眺めていたいような気がするのも確かだった。
「俺の顔に、なんかついてるか?」
ぶっきらぼうに、俺の方を見ようともせず、慶は言った。
「う?ううん、ごめん…」
少々赤くなって目を逸らしたが、俺はまた引き寄せられるように慶の顔に視線を戻してしまった。
「何か用があるなら言ったらどうだ?」
溜息混じりにそう言うと、慶はやっと荷物を片付ける手を止めて顔を上げた。
正面からその顔を見て、俺は少し鼓動が早くなるのを覚えた。
じっと注がれる視線には力があるというのか、少々こちらを竦ませるようなものがあったのだ。
だが、唇の形が凄く綺麗で、思わず見惚れそうになっていた。
「べ、別に、用はないけど…。何が気に入らないのかなと思って…」
「気に入らない?」
「うん。もしかして、俺と同室なのが嫌とか?」
恐る恐る訊くと、慶は怪訝そうな顔で眉を上げた。
「別に。そんなことないけど?それに、気に入らない事なんか、なんも無いし」
「え?じゃ、何でそんなに機嫌悪いんだ?」
俺の言葉に、慶は何か思い当たることがあったのか苦笑した。
「ああ、悪い。俺、こういう顔なんだ」
「え?」
「よく、怒ってるのかとか訊かれるけど、そう言う訳じゃない。ま、気にするなよ」
そう言われても気になった。
不機嫌そうなその表情もだが、何より、何故こんなに慶の顔に視線が引き寄せられるのか、それが気になって仕方なかった。
だが、理由なんて分からない。結局は好みの顔なのだろうという事で自分を納得させるしかなかった。
(ああは言ったけど、やっぱり俺のこと気に食わないのかな?)
慶は否定したが、俺は漠然とだがそう思っていた。
俺が必死で話題を作ろうとして話し掛けても、
「うん」
とか
「ああ」
とか、一言が返って来るだけで話が続かない。まるで、俺になんか、まるっきり興味が無いと言われているようだった。
こんな状態では、好かれていないのだと思ってしまっても仕方がないだろう。
幾ら顔は好みでも、こんな相手と一年間寝食を共にするのかと思うと俺は憂鬱な気持ちになった。
この高校を選んだ理由が理由だけに、俺は慶のそんな態度に本当は随分傷ついていたのだ。
寂しくて、遣り切れなくて、何だか無性に人恋しくて堪らなかった。
何故なら、その頃、俺は恋をしていた。
しかも、決して許されない相手に……。
寮があって街からも遠い、この高校を選んだ理由はすべてその恋の所為だったのだ。



荷物を大体片付け終わった頃、ベッドの上に置いておいた携帯が鳴った。 俺はぼんやりと見ていた慶の背中から目を逸らすと、ベッドに横になりながら耳に当てた。
出る前に、それが誰からの電話なのか勿論確認していた。
だが、第一声が聞こえると、俺はやはり胸を詰まらせてしまった。
「もしもし、千冬(ちふゆ)くん?」
「あ、うん。おは…、あ、こんにちは」
「付いて行ってやれなくて、ごめんな?一人で大丈夫だった?」
優しい声に、俺は益々胸を震わせた。
「うん、平気だよ。結構一人で入寮してくるヤツ多いし…。荷物って言ってもそんなに無かったから」
俺が携帯に向かって話し始めると、それまで、俺に少しも興味を示そうとはしなかったのに、何故か慶はほんの一瞬だけ振り返って俺を見た。
だが、俺が目を上げると、もう見えたのは背中だけだった。
「千夏さんも休めるみたいだし、入学式は二人でちゃんと行くからね?」
そう言われて、俺は慶の背中から視線を外すと、相手には見えないのに思わず首を振った。
「いいよ、そんな。母さんも、…正孝さんも、仕事あるし。親が来ないのなんか珍しくないみたいだよ。無理しないで……」
今度こそはと構えていたのに、やはり、“お義父さん”とは呼べなかった。
後悔したが、正孝さんは気にしていないようだった。
「そんなの駄目だよ。一人息子の入学式なのに。それに…、本当は自宅から通える所に入って欲しかったんだけどね。…まあ、今更こんなこと蒸し返しても仕方ないけど…」
「…ごめんなさい。でも、やっぱり折角の新婚なんだし、3年間ぐらいは水入らずで過ごしてよ。俺は、初めての寮生活で結構ワクワクしてるし…」
「でも、君にそんな気を遣わせて何だか申し訳なくて…。なあ、千冬くん、私が嫌われたんじゃ無いって思っててもいいんだよね?」
「勿論だよ。そんなんじゃないから、ほんと……。変な風に思わないでね?」
「うん、分かった。兎に角、入学式にはちゃんと行くよ」
「……ありがとう。正孝さん…」
電話を切ると、俺は溜息をつきながら枕に顔を押し付けた。

初恋だった。
3年間通った塾の講師。
でも、彼が選んだのは、俺ではなくて俺の母親の方だった。

そりゃ、そうだろう。
俺は男で、ただの教え子で、ただのつまらない子供だ。
それに引き換え、母はまだ36歳で、若くて、綺麗で、知的で、そして未亡人だった。
33歳のノーマルな独身男がどちらを選ぶかなんて、誰に訊いたって同じ答えが返って来るに決まっている。
勿論俺は、一度も正孝さんに好きだなんて言わなかった。
言ったって、どうにもならないことぐらい子供の俺にだって分かっていたからだ。
けど、好きだった。
母と付き合っていると知った時、一晩中泣き濡れるほどには……。
同じ屋根の下に居て、母との仲睦まじい様子を見ているなんて辛過ぎた。父と呼ばなければならない現実が、余りにも切なかった。
そう……。 あの時の俺には、逃げること以外、何も思い付かなかったのだ。
俺は、もう一度携帯電話を開いて、アルバムからあの写真を出した。
母を撮る振りをして、1枚だけこっそりと撮った正孝さんの写真。
大好きな、優しい笑顔。
けど、その視線の先にあるのは、俺ではなく母の姿だった。
(お義父さんなんて、きっと、一生呼べない……)
辛くなって携帯を閉じ、寝返りを打つと、慶がこちらを見ていた。
「なっ、なに?」
俺は驚いて、些か慌てると起き上がりながら言った。
「いや…。今の、親?」
俺の会話に不審を感じたのだろうか。初めて俺に興味を示し、慶はそう訊いてきた。
「あ、うん。そうだけど……」
だが、思い掛けなく詮索されるのかと思えば、慶は気の無さそうに頷いただけだった。
「ふうん…。大事にされてんだな、高梁(たかはし)って」
「え…?そう?普通だと思うけど?」
親が電話を掛けて来るぐらいで特別大事にされていると思うだろうか。
俺は、慶の言葉に少し驚いた。
大体、さっき正孝さんにはああ言ったが、入寮に親がついて来なかったのは、俺と慶を含めてほんの数名しかいなかった。その他は、大抵母親か父親が来ているか、中には両親から祖父母までついて来た生徒だっていた位なのだ。
(もしかして、親と上手くいってないのかな…?)
何となくだが、慶の言葉から俺はそう感じた。
「戸田んちも、両親共働き?」
親が仕事で忙しいのかと思い、俺はそう訊いてみた。
すると慶は、俺の顔から視線を外し、足元に置いてあったダンボールから本を数冊掴み出しながら言った。
「まあな…」
それ切りだった。
もうその後に続く言葉は無く、俺はまた慶の背中を黙って眺めた。
その日は荷物の片付けに殆どの時間を取られ、気付くと夕食の時間だった。その後は、順番に風呂に入り、俺は早々にベッドに入ってしまった。
起きていても、することもないし、慶と話が弾む訳でも無かったからだ。
だが、だからと言ってすぐに眠れた訳ではない。
いや、環境が変わった所為もあって、俺は明け方まで眠れなかった。
慶は、緊張もしていないのか、自分のやる事をさっさとやると、ベッドに入って間も無く寝息を立てていた。
その、規則正しい音を聞きながら、闇の中で目を開き、俺はまた正孝さんの事を考えていた。
さっき声を聞いて、また切なくなってしまった。
こんな思いを、後どれくらい味わえばいいのだろうか。
ホッと溜息をつき、目を瞑った。
だが、それから暫く経っても、俺は眠る事が出来なかった。



眠れなかった割りには、まだ緊張していたのか早くに目が覚めた。
だが、どうやら慶は朝に弱いらしく、朝食の時間が迫ってもまだ寝ていた。
最初は、声を掛けるのも憚られて放っておこうかと思ったが、同室なのに無視するのもおかしいと思い、俺は寝ている慶の身体に手を掛けて遠慮がちに揺すってみた。
「戸田?起きないと朝飯食いっぱぐれるぞ」
「んー?」
返事はしたが目は開けようとしない。
俺は、もう一度だけと決めて、今度は少し強く揺すった。
「あ・さ・め・し。食わないのか?」
「…んっ?もう、そんな時間か?」
今度はちゃんと答えて、渋々ながら目も開けた。
「うん、もう7時半だぞ。急がないと…」
まだ、春休み中とは言え、もう寮生は殆ど戻って来ていたし、食事も三食ちゃんと用意されていた。新入生も、入学式はまだだったが、入寮の報告を済ませた生徒の分は勿論ちゃんと用意してくれていた。
「悪い…。すぐに着替えて行く。高梁は先に行ってくれ」
少々、億劫そうにだが、慶はやっと起き上がってそう言った。
「あ、うん。じゃ、先に行くから」
「ああ。起こしてくれてありがと…」
「う、うん。じゃ…」
余計なお世話だと言われるかと少々びくついていたが、普通に礼を言われ、俺は却って面食らった。
だが、何だか少しだけ慶に近付けたような気がして、嬉しかったのも確かだった。
学食に着くと、受け取り口に並んでいる生徒の列に加わった。
朝は、パンかご飯か選べるが、おかずは同じだった。俺はご飯を選んでトレイに載せてもらい、空いていた窓際の席に座った。
もう、早い連中はとっくに済ませて部屋に戻ってしまっている時間だったので、食堂もそう混んではいなかった。
一人きりでぽつんと食事をしている生徒は少なく、大抵は同室の相手か仲のいい友達と一緒に食べている。一人きりなのは、俺だけだった。
だが、そんな俺の前に、後から来た上級生が腰を下ろした。
「ここ、いい?」
「あ、はい。どうぞ」
その先輩は3年生だった。
まだ、入学した訳ではないので、学校にも顔を出してはいなかったが、昨夜の夕食の時に一緒になった寮生の中で、目立つ部類の上級生の顔は何となく覚えていた。
彼もその中の一人で、誰かが言っているのを耳にしたが、確か生徒会の役員らしく、笑顔が爽やかで頭の良さそうな感じだった。
「昨夜はちゃんと眠れたか?」
気さくな性格らしく、彼は笑みを見せながら話しかけてきた。
だが此方はそうはいかない。相手は上級生だし、少々緊張して顔が強張った。
「あ、はい。なんとか……」
「確か、高梁……だったよな?部活は?入らないのか?」
まさか俺の名前を知っているとは思いもせず、俺はかなり驚いた。それとも、新しく入寮した生徒の事を、この人は全て把握しているのだろうか。
だが、それを訊くのもおかしいように思い、俺は質問されたことにだけ答えた。
「まだ…、これから、見学させてもらって決めようかと。でも、運動部には入らないと思います。余り、運動神経はいい方じゃないので…」
「ふうん…。写真部なんかどうだ?やってみると、結構ハマるぞ。…って、勧誘してる訳じゃないけどな」
そう言って笑った所を見ると、彼は写真部らしい。
お世辞を言うつもりはなかったが、声を掛けてくれたのが嬉しかった所為もあって、俺は訊いた。
「写真部ですか。見学とかは出来無いんですか?」
「出来る、出来る。なんなら、今日の午後でも見に来いよ。まだ春休みだが、寮に戻ってる奴は、部に顔を出すし。あ…、部室、分かるか?」
「ああ、はい。文化部のある校舎ですよね?」
嬉しそうに言われ、俺も思わず笑みを浮かべて頷いた。
昨日、寮に入る前に、新入生は一通り学校の案内を受けていたので覚えていた。
「そうそう。本当は、入学式を終えてから正式に見学させるんだが、先に入寮した新入生は暇なんで、部活の見学してる奴も多いぞ。昨日からウチにもチラホラ来てるしな。…俺は、3年の小金井。一応、写真部副部長だ」
「そうなんですか。じゃあ、今日の午後に寄らせてもらいます」
「うん。待ってるから」
小金井先輩がそう言った所へ、やっと慶が食堂へ滑り込んで来た。
もう、片付け始めていた小母さん達に声を掛けてトレイを出してもらうと、それにおかずやご飯を載せて俺の居るテーブルへ近付いて来た。
慶は、
「間に合ったよ」
と、俺に声を掛けてから小金井先輩に向かって頭を下げた。
「おはようございます。…いいですか?」
「ああ、どうぞ。二人は同室だったっけな?」
「はい」
訊かれて、慶は頷きながら俺の隣に腰を下ろした。
「戸田慶。良かったら、おまえも写真部に見学に来ないか?」
そう訊かれて、慶はあからさまに不審そうに眉を上げた。
「なんで、俺の名前…?」
すると、小金井先輩は意味有りげな笑みを見せて言った。
「戸田は目立つからな。上級生の間でもすでに結構話題になってる。ま、その意味は知りたくなければ気にしない方がいいけど…」
不可解な答えを残し、小金井先輩は食べ終わったトレイを持って立ち上がった。
「じゃあ、高梁。また後でな?」
「あ、はい…」
俺がその後ろ姿を呆然と見送っていると、脇で普通に箸を動かしていた慶が言った。
「早く食わないと、説明会に間に合わないぞ」
「あ、うん…」
言われて、俺も箸を持つと急いで残りのご飯を食べ始めた。
慶は、小金井先輩の言った事をまるで気にしていないように見えた。
だが、俺は気になった。
そして、その意味を知る為にも、やはり今日の午後、写真部へ行ってみようと思った。