涙の後で


-10-

慶と俺の間には、まだ少し蟠りが残っていた。
俺は相変わらず、気軽に声を掛けることに躊躇いを感じていたし、慶の方でもどこか俺に気を遣っているように見えた。
ただ、朝が弱い慶を起こすのが俺の日課になり始めていた。
そして、その代わりのように、慶は毎朝俺のネクタイを結んでくれた。
顔を洗い、制服に着替えて一緒に食堂へ行く。そして、その後、学校に着くまで俺たちはずっと一緒だった。
だが、その後はもう、帰って寮の部屋に戻るまで余り接触することは無かった。
いつも不機嫌そうに見え、その上、口数も少ないとあって、慶は取っ付き辛いらしく中々親しい友達が出来ないようだった。
だが、だからと言って、それが寂しいとも思っていないのか、まるで孤高の存在のように自分の世界を作っていた。
美形でカッコいいというだけでなく、彼の回りは空気が違って見え、それに憧れる輩も多いようだった。
慶が歩くと、必ず何人かが彼を見つめ、そして振り返る。
だが、気軽に声を掛けることは誰にも出来なかった。
言っていた通り、慶は部活には入らず、俺は予定通り写真部に入った。
この前、真藤先輩に醜態を見せてしまった所為で、俺は彼と顔を合わせるのが少し恥ずかしかった。だが、そんな心配も必要なく、先輩はまるで何も無かったかのように接してくれた。
そんな先輩に、俺は益々優しさを感じて好意を持った。
小金井先輩は真藤先輩のことを余り良く言わなかったが、俺には彼が小金井先輩の言っているような人間には思えなかった。
確かに見た目は少々軽そうだったし、自分でも意識してそう見せているようなところもあったが、本当は誠実で優しいのではないかと思った。
写真部の活動は撮影会でもない限り、個人的に好きな場所や人を撮影するだけなので、毎回顔を合わせるとは限らない。
一応、放課後になると部室に顔を出す部員も居るが、何か用が無ければ来ない人間も多かった。
だから、入部して最初の挨拶で顔を合わせたきりの先輩も何人か居た。
今年入部した1年生は俺を含めて12人だった。
真藤先輩の話では、その内の半分は写真が好きというより小金井先輩のファンだそうだ。
そういう連中は碌に撮影にも行かず、用も無いのに部室に屯している。どうやら、小金井先輩に会う機会を狙っているらしかった。
だが、そう言う真藤先輩もかなり後輩に人気があった。
見かけると、よく後輩たちに囲まれていたし、俺が写真部だと知ってアドレスを託すクラスメイトまでいた。
頼まれたので仕方なく俺がそれを渡すと、真藤先輩は苦笑しながら受け取った。
「他のヤツの番号じゃなくて千冬のが欲しいな。メアドも…」
「えっ…?あ、はい」
別に隠す必要もないし、先輩に携帯番号やアドレスを教えるのは嫌じゃなかった。
俺はポケットから自分の携帯を出すと、先輩とアドレスの交換をした。
「あの、やっぱりこういうことって多いんですか?先輩、モテるみたいだし、告られたりもするんですか?」
「まあな。俺はまだだけど、ユキはもう新入生に告られたらしいぜ」
ニヤニヤ笑って先輩はそう言った。
「えっ?凄い…」
まだ入学して1週間にもならないのに、さすが小金井先輩だと俺は思った。
でも、アドレスを渡すというのも告白のようなものだろうし、真藤先輩も負けてはいない。それに、新入生にはという意味で言ったのだし、過去には随分とアプローチされているに違いなかった。
「断ったらしいけどな、ユキは。……まあ、ユキの本命は千冬だから、当たり前だけどな」
「そ、そんな…」
俺が戸惑うと、先輩はクスリと笑った。
「少しは元気になったか?」
「あ……」
見ると、先輩の目は優しかった。
「はい。もう、大丈夫です」
「じゃあ明日、町に出ようぜ?約束したろ?」
そう言えば、先輩は休みになったら町へ連れて行ってくれると言っていた。
「はい。……でも、ホントにいいんですか?他に誰か誘う人がいるなら…」
俺の言葉に、先輩はすぐに首を振った。
「いないって。千冬と行くの楽しみにしてたし。な?じゃあ、明日9時頃出よう。映画でも見ようぜ」
「はい。楽しみにしてます」
返事をして先輩と別れると、俺は裏山に登ろうとして歩き出した。
そこからの風景を写真に撮りたいと思ったのだ。
上から見ると、桜もまた違って見えるだろう。
もう何枚かカメラに収めていたが、綺麗な桜並木を、花が散るまでずっと色々な場所から撮り続けようと思っていた。
下から見上げながら何度かカメラに収め、俺は桜並木を抜けて寮へ戻ると、裏山へ続く道を歩き始めた。
この前、慶と二人で登った時、彼のことを少しは近くに感じられた。そして、それが酷く嬉しかったのを思い出した。
もう、あんな風にして二人きりでここへ来ることはないのだろうか。
それともまた、俺のことを誘ってくれることもあるのだろうか。
この場所が、なんだか特別に思えたのは勿論俺の錯覚でしかないのだろうが、それでも、少しは慶が俺と同じ気持ちでいてくれたらいいと、密かに思っていたのだ。
だが、その場所に着いた俺を待っていたのは思いも掛けない光景だった。
慶がそこに居たことも驚きだったが、彼が一人ではなかったことが俺にとってはショックだった。
慶の傍には友井先輩の姿があったのだ。
「あ…。す、済みませんッ」
二人を見つけるなり、俺は愕然として足を止めた。そして、そのまま暫く固まってしまったが、ハッとなってそう言うと向きを変えて元来た道を引き返そうとした。
「高梁…ッ。待てよ」
慌てた様な慶の声が、俺を呼び止めた。
振り返ると、立ち上がった慶が俺に近付いてきた。
「行くなよ。俺たちに気を遣う必要なんかないから」
「で…、でも…」
躊躇いながら俺が見ると、友井先輩は笑みを浮かべながら俺に手招きをしていた。
「写真、撮りに来たんだろ?ほら、来いよ」
「う、うん……」
慶に腕を引かれて俺は友井先輩の近くへ行った。
何故、慶がそんなに俺を引き止めようとするのか分からなかった。
やはり、俺に対して気を遣ってくれているのかも知れない。傷つけたと思って気にしているのだろうか。
「こ、こんにちは。俺…」
自己紹介しようとした俺を止めて、友井先輩はにっこりと笑って言った。
「知ってるよ。戸田と同室の高梁千冬君だろ?俺は、友井尚也。よろしくね?」
「あ…、はい」
ぺこりと頭を下げると、先輩は何故かクスリと笑った。
こうして傍で見ると、本当に見惚れるほど綺麗だった。
同じ男だなんて、とても思えない。他の誰かを指すなら苦笑してしまうだろう“お姫様”と言う呼び名も、友井先輩なら素直に頷いてしまえる。
慶がこの場所に彼を誘ったのだろうか。
そう気づいて、俺は急に嫌な気持ちになった。
別に自分だけの場所だと思っていた訳ではない。現に、運動部などがこの裏山にトレーニングに登っているのだし、きっと他にもここに来る生徒は多いのだろう。
だが、自分が連れて来たこの場所に、慶が他の人間を誘ったのが、それも、その相手が友井先輩だという事実が酷く嫌だった。
所在無げに立ち竦んでいると、友井先輩が隣に座るように合図してきた。俺は、軽く頭を下げると、仕方なくそこへ座った。
「ユキが君を写真部に誘ったんだって?」
「あ、はい。最初に小金井先輩が声を掛けてくれて…。部室にも誘われて見学させてもらったんです」
「そうなんだ」
俺のことは慶から聞いていたのかと思ったが、どうやら情報源は違ったらしい。
そう言えば、小金井先輩の話しぶりも友井先輩とは親しそうな感じだったのを思い出した。
「そう言えば、戸田もだけど、君も上級生からかなりチェックされてるよ。その内に、アチコチからケイバンを渡されるかもね」
クスクス笑いながらそう言われ、俺は少し顔が赤くなるのが分かった。誰よりも人から憧れられている先輩に、こんなことを言われると恥ずかしかったのだ。
「中には、こういう学校だって知っててわざわざ来る物好きも居るらしいけどね。高梁はまさかこんな所だと思わないで来たんだろ?……まあ、最初は驚くし、気味が悪いだろうけど、その内に慣れるよ。住めば都って言うだろ?」
そう言って伸びをすると、先輩はその手を後ろに突いて身体を支えた。
それまで、少し離れた所で下を眺めていた慶が、俺の隣へ来て座った。そして、すぐに何かに気づいて俺の方へ手を伸ばした。
「桜の花びらだ…」
俺の髪からそれを見つけて摘み上げると、慶は俺にそれを見せて笑った。
その顔を見た途端、カッと自分の頬が染まるのが分かった。
何故かは分からない。
だが、なんだか急にいたたまれなくなって、俺はサッと立ち上がった。
「お、俺っ、もう行きます」
「え?でも、写真は?」
「もう、日が暮れるし、後で…、また後で、日の高い内に撮りに来ます。それじゃまた。失礼しましたッ」
早口でそう言うと、俺は唖然とする二人を残して、早足で山を降り始めた。
友井先輩の前で、慶に親しげにされるのが何故か嫌だった。
いや、友井先輩の前だから、慶がいつもは見せない笑顔を見せたような気がして、なんだか酷く惨めな思いがした。
自分に向けられていた笑顔だったのに、それは自分の為にくれた笑顔ではないような気がしたのだ。
駆け下りるようにして坂を下ると、俺はそのまま学校へ戻った。
部室にまだ、鞄を置いたままだったのを思い出したのだ。
少し息を切らしながら部室へ入って行くと、そこには小金井先輩の姿があった。
どうやら、写真の編集をしているらしく、先輩はパソコンを弄っていた。
「高梁…。まだ居たのか?」
嬉しそうに笑みを見せられ、俺は少しどぎまぎして頷いた。
「さ、桜を撮ってて…。鞄を置いたままだったんで、取りに来たんです」
「ああ。これ、高梁のだったのか…」
机の上に置いた鞄を見ながら先輩は言った。
「俺ももう帰るし、一緒に行こうか?」
「あ、はい。もう誰も残ってないんですか?」
いつも屯している先輩のファンたちの姿が見えないので俺が訊くと、先輩は苦笑いをしながら頷いた。
「ちょっと前までウロウロしてるのが2、3人居たんだけどな、煩いから課題を与えて追い出した。来週までに“春”をテーマに10枚撮ってこいって」
「そうなんだ…」
それを聞いて俺も思わず笑ってしまった。
そうでもしなかったら、きっと彼らは何も撮らずに部室に篭るに違いない。目的は写真ではなく小金井先輩なのだから仕方ないのだろうが、先輩としては迷惑なのだろう。
「まったく、あいつら何しに来てるんだか…」
呆れたようにそう言うと、先輩はパソコンの電源を落とした。
一緒に部屋を出て、先輩が鍵を掛けるのを待つと、二人で一緒に職員室へ行って鍵を戻した。
「何かあったか?」
校舎の外に出ると、先輩が歩きながら突然そう訊いた。
「い…、いえっ…。別に、何も…。何でですか?」
俺が無理に笑うと、先輩も笑みを見せたが、俺の言葉を信じてはいないようだった。
「なんだか、元気ないような気がして…。戸田と何かあったのかと思ったんだ」
「と、戸田と?どうして、戸田と…?」
まるで見透かされたようで俺は少し慌てた。心臓が鼓動を早めるのが分かり、顔が強張りそうになって先輩から顔を背けて俯いた。
「いや、別に理由は無いけど…。まあ、なんとなくそんな気がして」
言いながら先輩は掌を上に向けて手を伸ばした。その上に、僅かに散ってくる桜の花びらを受けようとしているらしかった。
「高梁は…、何と無くだけど、どこか戸田に気を遣ってるように見えるんだよな。まあ、あいつは取っ付き辛そうなヤツだけど、これから1年間同じ部屋で過ごすんだし、気が合わないなら早いトコ見切りをつけて知らん顔してればいい。最初からそんなんだと疲れるぞ?」
「別に…、気を遣ってる訳じゃないです。…それに、気が合うとか合わないとか、そんな次元じゃないし」
自分で思っていたよりも、ずっと寂しそう言ってしまった。それが恥ずかしくて、俺は益々俯いた。
すると、先輩の手が突然頭の上に乗った。
「なあ、明日、町へ降りないか?」
そう訊かれて俺はハッとして顔を上げた。
「あ…、あの、明日は真藤先輩に誘われてて……」
俺の言葉を聞いて、小金井先輩の眉間にグッと皺が寄った。
「拓馬と?約束したのか?」
「はい。済みません…」
「いや、別に謝ることないけど。……そうか、拓馬にも誘われたのか…」
やはり、先輩は面白くなさそうだった。だが、不機嫌そうな顔はすぐに引っ込んでしまい、その代わりに笑顔が現れた。
「仕方ない、拓馬に先を越されたのは悔しいが、今回は譲ってやるか」
言いながら、先輩は俺の肩をポンと叩いた。
「その代わり、この次は俺に付き合ってくれよな?」
「は、はい…。ありがとうございます」
俺が答えた時、B寮の方から連れ立って歩いて来る慶と友井先輩が見えた。
すると、二人を目にした途端、サッと小金井先輩の顔色が変わった。
「尚也……」
立ち止まって、近付く二人を待ち、小金井先輩は強張った顔で友井先輩の名前を呼んだ。
「今帰りか?ユキ…」
そう言った友井先輩の顔もなんだか少し緊張しているように見えた。
(なんだろう……?)
相手が居ないところで話を聞いた時には親しげに感じられたのに、こうして二人揃うと、その間には妙な空気があった。
「ああ。そっちは?デートとか?」
それは妙に皮肉めいた口調に思えた。
いつも愛想のいい小金井先輩の口から出たとは思えない。俺は驚いて、つい先輩を見上げた。
「よせよ。ちょっと話してただけだ。戸田が、俺の読みたかった本を持ってるって言うんで借りに行くとこ」
友井先輩は素っ気無くそう答えると、今度は笑みを見せて俺に言った。
「ちょっと部屋にお邪魔するな?高梁」
「あ、はい…。どうぞ」
俺が返事をすると、慶が促すようにして俺の背中に手を当てた。
「行こう、高梁。……それじゃ、先輩、失礼します」
小金井先輩に軽く頭を下げると、慶は俺の背中を押した。
どうやら慶も、二人の間の空気に気づいたらしい。早々に退散した方がいいと思ったようだった。
「あ、高梁…」
だが、小金井先輩に腕を掴まれて、俺は足を止めた。
「今夜、夕食の後で部屋に来ないか?見せたい写真があるんだ」
まるで、他の二人を無視するようにして先輩は俺だけを見て言った。
「は、はい。それじゃ、お邪魔します」
思わず俺が答えると、先輩は満足げに頷いた。
すると、慶がまた俺の背中を押すのが分かった。
ずっと外にいた所為か、その掌は冷たかった。
あれからずっと、慶は友井先輩と二人きりであの場所に居たのだろう。
さっき、“デートか”と訊かれて友井先輩は否定したが、本当にそうだろうか。
もしかすると、皆が予想していた通り、二人は付き合うことにしたのではないだろうか。
そう思うと、急にまた嫌な気分になった。
俺が歩き出すと、慶の手はすぐに背中から離れていった。
そしてその心は、多分これからも、一度も俺に触れはしないのだろうと思えた。