涙の後で
ー第2部ー
友井先輩が部屋に来ると、俺は自分の部屋なのにも拘らずなんだか居心地が悪い気がした。
多分、二人に対して遠慮があったからかも知れない。
一方の先輩は俺のことを気にする様子も無く、部屋を楽しげに見回した後、すぐに慶の本棚の前へ行って繁々と蔵書を眺め始めた。
俺は、二人を気にしないように努めながら、鞄を机の上に置くと、背を向けて着替え始めた。
着替え終えて制服をハンガーに掛けると、俺は購買で使うカードを持った。
寮の食堂でとる食事は、嗜好品以外は全部、寮費に含まれていて一括して親元から支払われるが、購買や学食では専用のカードがある。
生徒に必要以上の現金を持たせない為、学校内の買い物はこのカードを使うようになっているのだ。
「あの…、俺、なんか飲み物買ってきます。何がいいですか?」
俺が声を掛けると、本棚の前に居た先輩が驚いたように振り返った。
「いいよ。すぐに帰るし、気を遣うなよ」
「で、でも…」
「いいって。あ、戸田、これとこれ、借りていいか?」
「あ、はい。どうぞ」
慶が答えると、先輩は示した2冊の本を持って立ち上がった。
「急に来ちゃって悪かったな?高梁。じゃ、戸田、遠慮なく借りていくよ。ありがとう」
「いえ。もう読み終わってるし、返すのはいつでもいいですから」
「うん。じゃあ、またな。…高梁、お邪魔様」
そう言ってにっこり笑うと、友井先輩は部屋を出て行った。
本当は、もっとゆっくり話しをしていくつもりだったのではないだろうか。
俺の態度が先輩に余計な気を遣わせたのかも知れないと感じた。だとしたら、折角の慶との時間を俺は邪魔してしまったことになる。
「ごめん……」
先輩を見送ってドアを閉めた慶の背中に俺は言った。
「え…?」
怪訝そうな顔で振り返った慶に俺はまた言った。
「ごめん。遠慮するんだった。談話室へでも行ってれば良かったな?ごめんな…?」
「何言ってんだ?何でそんな事する必要があるんだよ。気の回しすぎだぞ、高梁」
苦笑しながら慶はそう言ったが、俺は頷けなかった。
慶と友井先輩の二人を前にすると、何故だか酷く落ち着かない。気を回すなと言われても、それは無理だった。
俺が返事を躊躇っていると、また慶が口を開いた。
「それより明日、町に買い物に行くんだけど一緒に行かないか?」
「えっ?俺と…?」
俺が驚くと、慶はまた苦笑した。
「俺が誘ったらそんなにおかしいか?」
「う、ううん。そうじゃないけど…」
慌てて首を振ったが、やはり慶は俺に気を遣っているのだろうかと思った。
「食堂でお湯が貰えるだろ?みんな部屋にポットを置いてコーヒーとか飲めるようにしてるらしいんだ。だから、買ってこようかと…」
「ああ…」
そう言えば、小金井先輩たちの部屋にもコーヒーや紅茶の用意がしてあった。
先輩たちの部屋にあったのは電気ケトルだったが、一々部屋で沸かさず、食堂でポットにお湯を貰っている生徒が沢山居たのを思い出した。
慶が誘ってくれたのは嬉しかったが、明日は真藤先輩との約束があった。それを反故にする訳にはいかない。
「ごめん、明日は真藤先輩と約束してるんだ」
俺が謝ると、慶は頷いた。
「そうか。別にいいよ。だったら独りで行ってくるし」
「あ…。それなら俺が、ついでに買ってくるよ。ポットと、それからインスタントコーヒーと紅茶だろ?あとは?お茶とか急須とかも必要?」
早口で俺が言うと、慶は首を振った。
「そんなに必要ないよ。それに、やっぱり俺が買ってくるからいい。高梁は余計な心配しないで、真藤先輩と楽しんでくればいいよ。な?」
「でも……」
悪いから、と言おうとすると、慶に遮られてしまった。
「なあ高梁、そんなに構えるなよ。俺は…、この前の言葉を本当に悪かったと思ってる。おまえのこと、変だともおかしいとも思ってないし、勿論、避けたりするつもりもない。だからもう、気を遣うなよ」
「そ、そんなつもりじゃないけど……」
「そうか?兎に角、ここは二人の部屋なんだし、俺に遠慮したりするなよ?」
「う…、うん」
俺が頷くと、慶も確認するように頷いた。
「あ…、あの、買い物するの明後日じゃ駄目?日曜なら予定ないし、もし…、戸田の都合がいいなら一緒に行けるんだけど…」
いつも通り、話が終わりそうな雰囲気になり、俺は慌てて言葉を繋いだ。
もう少し、慶と会話らしい会話をしたい。そして、折角、慶が誘ってくれたのに、断ってしまうのが嫌だった。
出来るなら、慶と二人で出かけてみたいと思ったのだ。
そうしたら、もう少し変われるのかも知れないと思った。
もう少し、友達みたいになれるかも知れない。
「ああ、別にいいけど。俺も予定はないよ。なら、明後日一緒に行こうか」
「う、うん。じゃあ、そうしよう」
慶の答えを聞いて、俺はホッとして思わず笑みを浮かべた。こうやって、少しずつでいいから歩み寄っていければいいと思った。
小金井先輩の言うように、慶と親しくなれなくても、自分には関係ないと割り切ってしまえばいいのかも知れない。
でも何故か、俺は少しでもいいから慶に近づきたいと思わずにはいられなかった。
それは、あんな言葉を言われた後でも変わらない。
最初から、俺は慶が気になって仕方なかったのだ。
だから、嫌われているのかと思った時、あんなにも悲しく、そして寂しく感じたのだろう。
まだまだ、先は長い。
俺たちの1年は、まだ始まったばかりなのだ。
だから、まだ諦めることはないのかも知れない。
時間を掛けても、もっと友達らしく、慶と付き合えるようになれればいいと俺は思っていた。
夕食の後、俺は部屋に戻らずにそのままB寮へ向かった。
本当は、小金井先輩の部屋へ行くのは余り気が進まなかった。
さっきの先輩は心から自分を誘ってくれた訳ではなく、友井先輩に対して当てつけていた様に思えたからだ。
だが、約束を破る訳にはいかない。行くと言ったのだから、すっぽかす訳にはいかないだろう。
食堂から通路を通りB寮の建物に入ると、廊下にもチラホラと人影があった。その全部が上級生で、俺が通ると興味深げに見ているのが分かった。
「高梁。新入生の高梁だろ?」
そんな中の一人に声を掛けられ、俺は立ち止まって頷いた。
「はい、そうです」
運動部員だろうか。坊主頭でとても背が高くて体格がいい。前に立たれると、まるで壁みたいで少し怖かった。
「誰のトコに来たんだ?」
後ろからも声が掛かり、俺は振り向いた。
気づくと、俺は上級生たちに囲まれる形になっていた。
「小金井先輩です。呼ばれたので…」
「ふうん。そう言えば、高梁は写真部に入ったんだっけな?」
何でそんなことを知っているのか、また自分の情報が知らない人間に伝わっているのかと思うと気味が悪かった。
「あのなぁ、高梁。寮では廊下でも何処でも先輩に会ったら挨拶しなきゃ駄目だぜ。“こんばんはー”とか“おはようございます”とかさ」
後ろに居た一人が、そう言いながら俺の肩を叩いた。
「あっ…。は、はい。すみません……」
俺が慌てて頭を下げると、みんなは笑みを見せた。
「いや、謝らなくてもいいよ。最初だし、分かんねえよな。まあ、上下関係はちゃんとした方が上手くいくって事だから」
囲まれて難癖を付けられるのかと緊張していたが、先輩たちの顔は穏やかだったし、笑顔も見える。心配することはなさそうだった。
ただみんな、新入生が一人で上級生ばかりいるB寮に来るのが珍しかっただけなのだろう。
「寮生活、初めてだろ?少しは慣れてきたか?」
「あ、はい。大分慣れました」
一番最初に声を掛けてきた先輩に訊かれて答えると、彼は頷きながら手を差し出した。
「そうか。俺は3年の古賀だ。一応、野球部部長」
ニコニコ笑ってそう言われ、俺は差し出された彼の手を握った。
「高梁千冬です。よろしくお願いします」
すぐに離そうとしたが、ギュッと力強く握られて手が離せなかった。すると、脇から伸びてきた別の手が無理やり古賀先輩から俺の手を奪って握った。
「はい、お仕舞い。次は俺ね…」
彼にも自己紹介され、俺はまた頭を下げた。
そして、結局俺はそこに居た先輩たち全員と握手をする羽目になった。
みんな口々に自己紹介してくれて、俺は必死で顔と名前を覚えた。後で会った時に、覚えていなかったら責められそうな気がしたのだ。
「なあ高梁、今度、俺らの部屋にも遊びに来いよ。俺のトコは、この上の203だ。腹減ったら、ラーメンでも何でもあるからさ」
運動部の生徒は、多分、寮で食べる食事だけでは足りないのだろう。みんな、部屋に食料を用意しているらしく、それは、同じクラスになった柔道部の坂上からも聞いていた。
古賀先輩にも愛想良くそう言われたが、俺はそれほど食べる方じゃないし食事は足りている。曖昧に笑って誤魔化そうとすると、人垣の向こうから俺を呼ぶ声がした。
「来ないと思ったら、こんなトコで掴まってたのか」
笑いながらそう言い、小金井先輩が先輩たちの輪を割って俺の前に現れた。
「おい。高梁は俺のトコへ来たんだぞ。引き止めるなよ」
小金井先輩が言うと、古賀先輩が不服そうな顔をした。
「いいだろ、小金井。折角だし、このままみんなで談話室にでも行こうぜ。高梁には俺たちもチェック入れてたんだからな。独り占めするなよ」
だが、小金井先輩は俺の腕を掴んで古賀先輩に首を振った。
「駄目だ。今日は俺と約束したんだから…。行こう、高梁」
「はい…」
俺は頷くと、他の上級生たちに向かって軽く頭を下げて歩き出そうとした。だが、小金井先輩に繋がれているのと反対の腕を古賀先輩が握った。
「高梁、これ俺のケイバンな?」
ニッと笑って古賀先輩はメモ用紙を俺の手に握らせた。
その途端に、周り中から不平の声が上がった。
「汚ねえぞ、古賀ッ」
「抜け駆けするんじゃねえよぉっ」
すると、古賀先輩は勝ち誇ったような顔で彼らに言った。
「ライバルが多いんだからさ。準備万端にしとかなきゃなぁ」
その様子を見て、小金井先輩は俺に向かって苦笑すると、促すように腕を引いた。
騒ぎを後に、俺は先輩に付いて彼の部屋へ向かった。
本当に、驚くことばかりだった。
男の俺が、ここに居るとまるでアイドルみたいな扱いをされる。それが不思議で、そして少々心苦しくもあったのだ。
多分、俺は期待されても誰にも応えられないだろうから。
手の中の古賀先輩に渡されたメモを見て俺が複雑な顔をしていると、それを見て小金井先輩が笑った。
「古賀はごつくて怖そうだけど、気のいいヤツだし、断ったって怒ったりしないよ。まあ、高梁が気に入ったなら付き合っても悪くないと思うぞ。噂じゃ、ああ見えて、割りと紳士的な付き合いをするらしいからな」
小金井先輩の言葉に、俺は少し頬が熱くなるのを覚えた。
「そんなつもりないです。だって、今会ったばっかりで、古賀先輩のこと何も知らないし…」
「まあ、そりゃそうだな。それに……」
言葉を切ると、先輩は立ち止まって俺の顔をじっと見つめた。
「俺も、出来れば譲りたくないし……」
「先輩……」
益々頬が熱くなり、俺は目を伏せた。
こんな目で見つめるほど、一体、俺の何処がいいと言うのだろうか。
「ほら、どうぞ」
促されて、俺は顔を上げた。
いつの間にか、先輩の部屋の前に居たのだ。
俺はドアを開けて待ってくれている先輩に軽く会釈して中へ入った。
部屋の中には真藤先輩の姿はなかった。
「真藤先輩は居ないんですね…」
「ああ。拓馬はいつもフラフラしてるからな。大抵、消灯前ぎりぎりにならないと帰って来ないよ」
「そうなんだ…」
「残念そうだな?会いたかったとか?」
「ち、違います。別にそういう訳じゃ…」
俺が慌てて首を振ると、先輩は肩を竦める様にして受け流した。
表情には表れていなかったが、多分、俺が真藤先輩の名前を出したことが面白くなかったのだろう。
お互いに、相手を意識しているが、余り好意を持っているとは言えない間柄のように感じた。
でも、それだけで割り切れる関係なのかと言われれば、二人の間にはもっと違う何かがあるように俺には思えるのだ。
「なあ、これ。どう思う?」
先輩は話題を変えるようにそう言うと、俺を促して自分の机の前に座らせた。
そこにはノート型のパソコンが開かれていて、先輩は俺の肩越しに手を伸ばしてタッチパッドに指を滑らせると、自分の写真が収まっているフォルダを開いて見せた。
「わ、凄い」
沢山の写真のサムネイルが現れて、俺は思わず声を上げた。
「5月にコンクールがあってさ、どれか出してみようかと思ってるんだ」
「へえ…。凄いですね、コンクールか……」
「凄くないよ。みんな結構色んなのに出してるぞ。中には、商品目当てとかさ」
笑いながらそう言い、先輩は俺の後ろから離れた。
「勝手に見ていいぞ。好きなのがあったら教えてくれるか?コーヒー淹れるから…」
「あ、はい。有難うございます」
俺は返事をすると、パソコンの画面を見つめて、気に入った写真をクリックした。
「高梁はパソコン持ってきたのか?」
「あ、いえ…。家にあったのは母と共有してたので持ってきてないんです。無いと困りますか?」
「いや…」
先輩は俺の分のコーヒーのカップをパソコンの横へ置いてくれながら言った。
「学校にはパソコン室もあるし、あと、図書室にも調べ物が出来るように10台ぐらいは置いてある。寮にも談話室に2台ぐらいはあるから、それを使えば大丈夫だろ。ネットも使えるようになってるし。写真の加工とかプリントは部室で出来るから心配ないよ」
「そうですか。良かった」
「まあ、学校のパソコンからじゃエロサイトへのアクセスは出来ないけどな」
「えっ、じゃ、このパソコンからは出来るんですか?」
俺がそう訊くと、先輩はプッと吹き出した。
「出来る訳無いだろ?このパソコンだって回線は学校のを使ってるんだぜ。当然、プロバイダーでブロックされてるよ」
「あ、そうか…」
俺が先輩と一緒に笑った時、部屋のドアが開いた。
「お、千冬、来てたのか」
入って来た真藤先輩は、俺に気づくと嬉しそうに笑って近付いて来た。
「あ、お邪魔してます」
俺が立ち上がって頭を下げようとすると、小金井先輩がわざと俺と真藤先輩の間に立った。
「なんだよ、拓馬。今日はやけに早く帰って来たじゃないか?」
腕を組んで自分の前に立ちはだかった小金井先輩に対し、真藤先輩はニヤニヤ笑いながらその両肩に手を置いた。
「ふふん…。今、下で千冬が来たって騒いでたからさ。また抜け駆けか?ユキ。みんなに嫌われるぞぉ?」
「抜け駆けはどっちだよ?」
面白く無さそうにそう言い、小金井先輩は真藤先輩を睨んだ。
「あ。明日の事か?」
言うと、真藤先輩は小金井先輩の影から首を伸ばし、俺を見て笑った。
「ほらな?やっぱり、誘われたろ?千冬」
「あ、はい…」
俺が小金井先輩を気にしながら頷くと、真藤先輩はまたニヤニヤ笑って小金井先輩の肩を叩いた。
「悪いな、ユキ。そういう訳で、明日、千冬は俺とデートだ」
「何が、そういう訳だ」
勝ち誇ったように言われ、小金井先輩は渋い顔をした。