涙の後で


-3-

謎めいた言葉だったが、それ以上は訊けなかった。やはり、俺が立ち入っていい事ではないらしい。
でも、その代わりにもうひとつ、とても知りたかったことを先輩に訊ねてみた。
「あの…、友井先輩は、戸田を選んだんでしょうか?」
俺の言葉に、真藤先輩は振り返った。
「どうかな…?それは、俺にだって分からないさ。けど……」
じっと見つめられて、視線が泳ぎそうになった。
何故かは分からないが、酷く後ろめたくて堪らない。
別に悪いことをしている訳でもないのに、二人のことを知ろうとすると気後れしてしまうのは何故なのだろうか。
俯きかけた俺に先輩の言葉が掛かった。
「多分、今、一番近いのは戸田かもな…」
“一番近い” それは、友井先輩の“王子”に、ということだろう。
「嫌か?千冬…」
「え……?」
顔を上げると、また先輩の視線に出くわして、俺は目を伏せた。
「そ、そんな…。嫌とか…、そんなの無いです。だって、俺には関係ないし……」
「けど、気になったから訊いたんだろ?」
「そっ、それはッ。だって……、皆が気にしてることじゃないんですか?俺はただ、戸田は同室だし…、それだけのことで……」
だが、答えながら、俺は自分にも分からなくなっていた。
どうしてこんなに、慶と友井先輩のことが気になるのだろうか。
そして、真藤先輩に言い当てられたように、二人が付き合うことが、こんなにも嫌だと思うのだろうか。
「そうか…。ま、あの二人がどうなるのか、確かに皆、気になってるだろうなぁ」
先輩は、わざと軽い調子でそう言った。
多分、俺が困っているのを感じたからだろう。
「王子役は誰になるのか、いつもみんなが気にしてる。尚也も大変だよなぁ、まったく…」
苦笑しながらそう言い、先輩は俺を促して歩き出した。
いつも、さり気無く気を遣ってくれる。
勿論、俺はそれに気付いていた。
やはり、小金井先輩が言うような人間には思えない。今まで出会った中で、真藤先輩は誰よりも優しい人だと俺には思えた。
近くのファミレスに入って食事をした後、先輩に案内してもらって、町の中を一通り歩いた。
とは言っても、見るような場所はそれほど多くは無く、3時ぐらいにはもう全部回り終わってしまった。
駅前のカフェでお茶を飲むことにし、俺たちは外が見える通り沿いの席に座った。
町を歩いている時に同じ学校の生徒もちらほら見かけて、顔を知られている真藤先輩は後輩に挨拶されたりした。
それに、来る時に聞いたように、例の他校の生徒らしき輩にも何人か出会って、聞いていた通りの視線を貰ったりもした。
こうしてここから見ていても、どちらかの高校の生徒らしいグループを何組も見かける。他に行く所も無いので、休みになると町へ出るしかないのだろう。
「ほらあれ、あれはカップルだな…」
先輩が笑いながら指差した先を見ると、ウチの学校の生徒らしい二人組みが居た。そして、確かにその二人は他の二人組には無い雰囲気があった。
居るとは知っていても、まだ学校では、それらしきカップルに気づいたことは無かった。だが、こうして目の前にすると、確かに二人がしているのはデートなのだと俺にも分かった。
お互いを見る視線が、何だかくすぐったいような感じがする。
他人事ながら、頬が熱くなり、俺はその二人から目を逸らした。

そして、見つけてしまったのだ。

ハッとして釘付けになり、俺の様子に気付いた先輩も俺の視線の先を追った。
「尚也……」
先輩が、意外なものを見たように呟いた。
そして、居たのは友井先輩だけではなかったのだ。
その隣には、慶の姿があった。

今日、出掛けるなんて俺にはひと言も言わなかった。
勿論、言わなければならない義務も無い。でも、同じ町へ降りるなら、ひと言話題にしてくれてもいいだろう。
それとも……。
(俺には知られたくなかったとか?)
いや、慶にとって、俺はそこまで気に掛けてもらえる様な存在ではない。きっと、俺が出た後で、友井先輩に誘われたのだ。
だとすると、きっと、友井先輩は慶を選ぶつもりなのだろう。
そうに違いないと、俺は感じた。
「珍しいな。尚也が町を歩くのは……」
敢えて慶の事には触れず、先輩はそう言うと、スッと手を伸ばして俺の手を握った。
「え…?」
見ると、先輩は握っていた俺の手を軽く叩いて笑いながら言った。
「ケーキ、食おうぜ?奢るよ」
「えっ…?い、いいですよっ」
「甘いの、嫌いか?」
「い、いえ。そうじゃなくて…、もう、いっぱい奢って貰ってるし…」
俺が恐縮すると、先輩は肩を竦めて立ち上がった。
「デートなんだから、年上の俺が奢るの当たり前だろ?何がいい?好きなの買ってくるよ」
「そ……」
当たり前ってことは、俺はやっぱり女の子の立場なのだろうか。
まだ俺が遠慮しようとすると、先輩はポンと俺の頭に手を載せた。
「ほら、何がいいか言えよ」
「あ…、じゃ、プリン」
「よし、プリンな」
咄嗟に、何故か“プリン”と言ってしまった。
この前、慶に奢ってもらったのを思い出したのかも知れない。
外を見ると、もう慶たちの姿は見えなかった。
何処へ行ったのか気になったが、それは俺の知ったことではないのだ。
その事実が、何だか酷く悲しかった。



あの後、真藤先輩は慶たちの事には何も触れず、俺たちは他愛ない話題でケーキを食べ、お茶を飲んでカフェを出た。
駅前から学校行きのバスに乗り、近くのバス停で降りると、来た道を歩き出そうとした俺を先輩が引き留めた。
「千冬、抜け道教えてやろうか?」
「え?抜け道?」
「うん。ここからだと、こっちの道が近いんだ。来いよ…」
「はい」
先輩の後を付いて道路を渡り、俺はバス停とは反対側の藪の中に入って行った。
少し移動すると、脇に獣道のようなものがあった。
周りは細い木と藪に囲まれていて視界が悪い。坂が少し急だったが、歩き辛いと言う程ではなかった。
「この道はあんまり知ってるヤツがいないから…。あ、でも、夏は通らない方がいいぜ。蚊だの蚋だの、蛇だのが出るからな」
「へ、蛇…?」
俺が驚くと、先輩は楽しそうに笑った。
「こんな山だし、蛇だって出るよ。学校内や、寮にもたまに出没するぜ。それに、狸やハクビシンなんかもよく見かける。まあ、夏は虫の宝庫だ。カブト虫とか取って売るつもりなら簡単だぞ」
「はあ…」
随分田舎だと思い、俺は気の抜けた返事をした。
だが、友井先輩の言っていたように、住めば都なのかも知れない。
「ほら、図書館が見えた」
指差されて顔を上げると、その先にレンガ造りのあの建物が見えた。
「ほんとだ。近いですね」
「だろ?」
頷いて、俺が再び坂を上ろうとすると、先輩が腕を掴んで脇道のような場所へ引っ張った。
突然のことで驚いていると、太い木の前で抱きすくめられて、俺は益々驚いた。
「な、なんですか?」
「ん?」
答えずに、先輩は片手で俺の顎を軽く掴んだ。
そして、驚く間も無く、俺は先輩にキスされていた。
「ふっ…?」
ちゅっ、ちゅっと、何度か唇が音を立て、そしてぬるりとしたものが唇を割って入ってきた。
それが先輩の舌だと気付いた途端、俺は膝から力が抜けてしまった。
「ふぁっ…」
カクン、と崩れ落ちそうになり慌てて服を掴むと、先輩は腕に力を込めてギュッと俺を支えた。
「キス、初めてか?」
唇を離して訊いてきた先輩を見上げ、俺は馬鹿みたいに強張った顔でガクガクと何度も頷いた。
「へえ?ファーストキスか。悪い……」
言いながら笑うと、先輩の顔がまた近付いてきた。
「舌、吸わして?」
俺の唇のすぐ上で先輩が囁いた。
「へっ?」
驚いて俺がおかしな声を上げた途端、また唇が重なった。
どうしていいか分からずうろたえている内に、先輩は俺の舌を巧みに誘い出して唇に挟んだ。そして、チュッと音を立てて吸い上げた。
「んッ」
俺はまた、滑り落ちないように先輩にしがみついた。
体が強張ったまま身動き出来ない。
女の子じゃないのでファーストキスに拘ったりするつもりはないし、まさか泣いたりもしなかった。だが、酷く緊張したのと、それからほんの少しだが怖かったのも確かだった。
「ん…、ぅん…ッ」
先輩の唇と舌の動きに翻弄されたまま、多分、時間しては僅かな間を俺は時が止まったかのように感じていた。
そうしたくなくても、喘いで息が上がる。
多分、緊張するのと同時に、俺は初めての思いがけない体験に興奮していたのだろう。
そして、頭の中では、小金井先輩が真藤先輩に対して言った“手が早い”という言葉がグルグルと回っていた。
だが、怖かったのは先輩ではない。
興奮している自分自身、そして、キスされているこの現実を嫌だとは思えないことだった。
「はぁ…っ」
やっと先輩の唇が離れて行き、思わず大きく息を吐いた。だが、俺はすぐには目を開けられなかった。
先輩の身体にしがみついた腕も離すことが出来ず、じっと動けずにいると、今度はその瞼に唇が降りてきた。
「やべえ…、マジで可愛い……」
呟くような先輩の声が頭の上で聞こえ、俺はギュッと力いっぱい抱きしめられていた。
やっと目を開けて、俺は目の前にあった先輩の上着の襟を見た。
掴んでいた腕をさらに深く回し、俺は深く息を吸いながらまた目を閉じた。
(キスした……)
今更ながらに、この経験に驚く。
はっきりと感じたことは無かったが、多分おぼろげに、正孝さんとのキスを夢見ていたこともあったように思う。
ただ、最初から半ば諦めていた恋だっただけに、俺の中に確かな欲望は無かった。
それが、ただ唇を重ねるだけではなく、愛撫と呼べる行為がその中に含まれていることを、俺は突然、身を持って知った。
その事実が、信じられなかったのだ。
そして、自分が全く不快に感じていないことも驚きだった。
痺れるような感覚が、まだ残っている。身体だけではなく、神経もまた痺れているのだと感じた。
だから、先輩の腕に抱きしめられたまま、まだじっとそこに居たいと思ったのだ。
「俺と付き合えよ、千冬。……な?」
優しく髪を撫でられてそう言われると、頷いてしまいそうになった。
でも、簡単に決めてしまっていい訳が無い。
俺は、顔を上げて先輩を見つめた。
「でも俺、まだ、失恋したばっかで……、その……」
俺の答えに、先輩はフッと笑った。
「ごめん、分かってるって。すぐに返事しなくていいよ」
「済みません…」
俺が謝ると、先輩はまた笑って、指で俺の唇を拭った。
「いいよ。千冬のファーストキス貰ったし、役得だった」
改めて言われると急に恥ずかしくなって、俺はカーッと頬に血を上らせた。
そんな俺の手を取り、先輩は藪を払いながら元の道に戻った。
坂を上り切ると、図書館の裏手に出た。
そこから、桜並木を通って俺たちは寮へ戻った。
着いた頃には、もう日が暮れ掛けていて寮の窓には半分ほど灯りが燈っていた。
週末は実家に帰って、明日にならなければ戻らない生徒も居るので、留守の部屋もあるのだろう。
気になって、自分の部屋の窓を見ると、慶はもう戻っているらしく灯りが点いていた。
「明日はどうするんだ?」
寮の前に着くと、先輩にそう訊かれた。
「明日は…、戸田と買い物に行く約束だったんですけど…。でも、分かりません」
今日、すでに友井先輩と町へ行ったのだし、買い物も済ませてきたのかも知れない。だったら慶には、もう俺と出かける必要も無い筈だった。
俺が俯くと、その頭に先輩の手が乗った。
「暇だったら、部屋に遊びに来いよ。ユキも喜ぶしさ」
「あ、ありがとうございます。それと……」
俺は顔を上げると先輩を見上げた。
「今日は、ホントに有難うございました。いっぱい奢ってもらって、それに…、凄く楽しかったです」
俺がそう言うと、先輩は悪戯っぽく笑いながら自分の唇に人差し指を当てた。
「ホントか?」
その意味が分かり、俺はまた頬を火照らせた。
「ほ…、ほんとです……」
消え入りそうな声で俺が答えると、先輩はまた笑って俺の肩を軽く叩き、B寮の方へ歩いて行った。
その後姿を少し見送った後で、俺は寮の玄関に入った。