涙の後で
-5-
慶と友井先輩が付き合うことにしたという噂は、それこそ、あっという間に広まった。
一部、慶に憧れていた連中はかなり落胆したようだったが、その他は、予想通りだったと納得した人間が殆どだった。
友井先輩に関しては、付き合いたいという気持ちや憧れはあっても、言うなれば“高嶺の花”的な存在だったし、余程の自信家でなければ自分の方から告白する勇気も起きないという風だった。
だから、傍を通れば見惚れはしても、気軽に声を掛けたりは出来ない人だったのだ。
その“姫”を見事に射止めた慶は、やっかまれはしても、やはりその孤高の雰囲気からか、あからさまに厭味を言われるようなことは1度も無かったようだ。
そして、俺はと言えば、あの時、自分の気持ちを悟ってからというもの、心の落ち着かない日々を過ごしていた。
失恋した途端に好きなのだと気づいた。
いつも慶に心を乱されていたのは、恋をしていたからなのだと分かった。
でも、分かったからと言ってどうすることも出来なかった。
母の夫になった人に片想いした挙句、失恋してこの学校へ逃げてきた癖に、めそめそと泣き暮らしていたかと思えば、もう慶に恋をしていた。
幾ら、自分にもままならないことだとは言え、余りにも軽薄な気がして俺は益々自己嫌悪に陥った。
そして、またしても叶わない恋をしてしまった自分が滑稽で堪らなかった。
どうすることも出来ないからには、精一杯、自分を誤魔化し、慶に気持ちを悟られないようにとそればかり気にしていた。
この上、慶に想いを知られて、しかも正孝さんの時のように同情されでもしたら、俺はもう彼の前には居られない。この学校からも、また逃げ出さなくてはならなくなってしまう。
だから、俺は必死だった。
必死で、慶と友井先輩に興味の無いふりをし続けていた。
一方、付き合うと決めてからは、慶と友井先輩は毎朝食堂で待ち合わせ、そして一緒に登校した。
これほど目立つカップルは、勿論他にはいなかった。
まるで絵に描いたような美形カップルで、二人が並んで歩くと誰もが見惚れ、中には惚れ惚れと溜め息をつく者さえあった。
まさか、人前で手を繋いだりすることは無くても、顔を寄せ合って話しをしている姿は時々見かけるし、兎に角、一緒に居るのが楽しそうに見えるのは確かだった。
最初、二人とも言い寄って来られるのが面倒だから、利害が一致してカモフラージュで付き合っているんだろうと言う奴もいたが、一緒に居る二人を見る限りではちゃんとしたカップルに思えた。
それに、皆は知らないことを俺だけは知っていた。
朝が弱いことを友井先輩に言ったのか、毎朝、俺に起こされていた慶は、先輩からのモーニングコールで目を覚ますようになっていたのだ。
カモフラージュで付き合っているのなら、そんなことまでしないだろう。
それに、先輩からの電話を受ける慶は本当に嬉しそうに見えたのだ。
「おはよう……」
と、眠そうに答えた後、慶は目を擦りながら話を続ける。
「うん…、うん。もう少し喋って…。まだ、目が覚めない……」
そんな甘えたことを言う慶を、俺は見たことが無かったし、多分、俺の他には電話の向こうの友井先輩しか知らないに違いなかった。
こんな慶を目の当たりにして、これがカモフラージュだなんて思える訳が無い。
友井先輩のお陰で日課だった俺の役目も終わり、毎朝一緒にとっていた朝食も、俺が遠慮する形になって別々に食堂へ行くようになった。
最初、何度か声を掛けてくれていた慶も、俺が何のかのと理由をつけては避けるようになったので、もう何も言わなくなってしまった。
同室でありながら、俺と慶の接点はこうしてどんどん少なくなっていったのだ。
そして、自分の気持ちを告げる勇気も無い俺は、ただ、一人で片想いに身を焦がすしかなかった。
「高梁、お湯貰ってきたぞ。コーヒー飲むか?」
食堂から戻って来た慶に声を掛けられ、俺は振り向いて頷いた。
「あ、うん。ありがと…」
返事をすると、二人分のコーヒーを淹れ、慶は俺のカップを机まで運んでくれた。
「ほら…」
「ありがと」
それは、あの日、一緒に買いに行ったカップだった。
昼過ぎに二人で出かけ、駅前の大型マーケットで小さなポットとインスタントコーヒーやティーパックの紅茶を買い、近くの100円均一の店へ行ってカップやスプーンを買った。
本当は、慶と一緒に出かけることを俺は随分楽しみにしていたのだ。
だが、前日に、慶から友井先輩と付き合うことにしたと聞いてしまった所為で、その後はもうすっかり動揺してしまい、折角一緒に出かけても楽しい気分にはなれなかった。
その所為か、選んだのは黒い何も絵のついていないカップだった。
「これ、俺が買うよ」
俺が選んだカップを取り、慶はそう言った。
「い、いいよっ。自分のは自分で買うから…」
俺が驚いてカップを取り返そうとすると、慶は俺の手に届かないようにカップをサッと持ち上げた。
「いいって。近付きの印って訳でもないけどさ、プレゼントする。安くて悪いけどな」
「そんな…。じゃ、じゃあ、戸田のは俺が買うよ。な?」
「それじゃ、同じ事だろ」
慶は笑ってそう言うと、カップを持ってサッサとレジへ行ってしまった。
やはり、慶は俺に気を遣ってくれている。
後ろめたい気がしたが、俺はもう何も言わずに慶の後を追ってレジへ行った。
たった100円のカップでも、慶がくれたのだと思うと俺にはとても大事に思えた。
別に気持ちの篭ったプレゼントだという訳でもない。あれは、ほんの気まぐれのようなものだったろうし、慶には特別な思いがあった訳でもなかった。
でも、それでも俺とって、このカップは大切な物になったのだ。
慶の選んだカップは、白地に淡いブルーの模様が付いていた。
そのカップにコーヒーを淹れて運ぶと、慶は自分の机へ戻ってノートパソコンを開いた。
何をしているのか、気付くと慶はパソコンに向かっていることが多くなっていた。
そして、気付くと俺は、慶の背中ばかりを見ていた。
背中を見ながらそっと溜め息をつき、目を逸らしてもまた、すぐに気になって視線を戻してしまう。
そして、そんな自分を、また嫌いになっていくのだった。
撮ってもいいと許可を貰ったが、俺のデジカメの中に慶の写真は一枚も増えていなかった。
何故なら、撮りたいと思う慶の表情は、いつでも、友井先輩の傍にあったからだ。
慶の淹れてくれたインスタントコーヒーを一口飲むと、俺は机の上に載せた腕に頬を預けた。
見つめても、見つめても、振り返らない慶の背中。
振り返ってもらえない恋を、何故、いつも選んでしまうのだろうか。
好きになる人の恋の相手は、いつでも自分より遥かに優れた人だった。
適わない相手ばかり……。
努力もせずに諦めてしまおうとする自分が酷く情けなかったが、戦おうとする気力さえ起きないほど、相手は誰が見ても完璧だった。
それに、あの時、慶ははっきり言った。
他の男じゃ考えられないが、友井先輩は特別だと。
相手が友井先輩だからこそ、慶は付き合おうと思ったのだ。だから、他の相手なんて、勿論俺なんて論外に違いなかった。
また、溜め息が口をついて出た時、ドアにノックの音がして、俺と慶は同時に振り返った。
返事をすると、小金井先輩が顔を覗かせた。
「高梁、暇だったら談話室へでも行かないか?今日撮った写真、見せるよ」
一眼レフのデジカメを示して、先輩は俺に言った。
「あ、はい。行きます」
俺はすぐに立ち上がって、先輩の後に続いた。
実は、友井先輩が慶と付き合い始めたと知った時、小金井先輩の様子は少しおかしかった。
前から、二人の間には妙な空気があったが、気にしていないように見せながら、小金井先輩は明らかに動揺していた。
そして、以前にも増して、俺を気に掛けてくれるようになった。
食堂へ行くにも誘いに来てくれたり、部活の時も殆ど俺の傍に居て、写真の撮り方などを指導してくれたし、部活が終わった後も誘われて食堂や談話室で一緒に過ごすことが多くなっていた。
先輩の後に付いて談話室のドアを潜ると、そこには楠田の姿があった。
俺が小金井先輩と一緒なのを見ると、彼はあからさまに嫌な顔をした。
実は、何人もの先輩たちから付き合おうと言われながら、俺がフラフラしているのが面白くないらしく、楠田や他にも数名の生徒から小さな嫌がらせをされていたのだ。
勿論、そんな話は誰にもしたことは無い。問題にするほど酷いことでもなかったし、精々、購買でパンを買えないように邪魔されたり、下駄箱に入れていた靴を水で濡らされたりする程度のことだった。
騒げばきっと、もっとエスカレートすると分かっていたから、相手が分かっていても俺は何も言わなかった。
パソコンが空いているのを見つけると小金井先輩はその前に座って、デジカメに繋いだUSBケーブルを差し込んだ。
前は自分の部屋へ呼んでくれたのだが、部屋に真藤先輩が居るのが嫌らしく、この頃は写真を見せてくれる時にも先輩は談話室へ俺を連れて行った。
まさか、真藤先輩が俺にキスしたことは知られていない筈だったが、何か変化があったらしいことは感じているのかも知れなかった。
その所為か、俺と真藤先輩が二人になるのを、小金井先輩は嫌がるようになった。
ソフトを開いて写真のサムネイルを展開させると、先輩は俺を振り返った。
「今日、野球部の練習を見させてもらって何枚か撮ったんだ。ほら、丁度、古賀が凄いの打ってさ…」
指差された写真を見ると、古賀先輩が素晴らしいフォームで球を飛ばしていた。
「わ、カッコいい」
俺が言うのよりも早く、後ろから誰かの声が聞こえて、振り返るとニコニコと愛想良く笑っている楠田の顔があった。
「小金井先輩、今晩は。俺、1-Bの楠田です。宜しく」
「あ、ああ…、今晩は。君の事は知ってるよ。上級生の間でも有名だからね」
いつもの愛想の良さで、小金井先輩は笑みを見せて言った。
すると、楠田は嬉しそうな顔になった。
「ホントですか?小金井先輩が知っててくれたなんて嬉しいです。俺、前から先輩とお話させてもらいたくて…」
「そうなのか?だったら、声掛けてくれれば良かったのに」
「でもなんか、俺なんかが話しかけたら迷惑かなって。それに、いつも先輩は一人じゃないし…」
気弱そうな様子ではにかんで見せた楠田を見て、俺は思わず驚きを顔に出しそうになってしまった。
可愛い外見とは裏腹に、楠田は結構気が強いし押しも強い。彼のこの様子が演技だと言うことは俺には分かっていた。
「先輩の写真、凄いですね。コンクールとかには出してないんですか?」
俺の反対側からパソコンの画面を覗き込んで楠田は言った。
「ああ、たまに出してるよ。入賞したのも少しはある」
「へえーっ、凄いなぁ。俺も、写真部入ればよかった」
楠田の言葉に先輩は笑みを見せた。
「今からでも遅くないぞ。良かったら、入れよ」
「えっ?いいんですか?じゃあ、入部しようかなぁ…」
楠田の返事を聞いて、俺は少し眉を顰めた。
彼が興味があるのは明らかに写真ではなくて小金井先輩と真藤先輩だろう。そんな気持ちで入部されるのは嫌だった。
だが、俺がとやかく言う問題ではないし、止める権利も無い。
だから、俺は何も言わなかった。
「先輩、それじゃ明日にでも部室へ伺っていいですか?」
「ああ、いいよ。俺は一応、部室に顔出す予定だから来たらいい。部長の箕川にも声掛けておくよ」
「はいっ。ありがとうございます」
すっかり蚊帳の外に置かれてしまった形になり、俺は少し居心地が悪くなった。
「先輩…。済みません、俺、もう戻ります。宿題、終わってなかったんで」
それは嘘だったが、俺はそう言って頭を下げた。すると、先輩は慌てて立ち上がった。
「えっ、そうか?…じゃあ、明日また部活で会おう。その時に写真もちゃんと見せるよ」
「はい。ありがとうございます。それじゃ、おやすみなさい」
俺はそう言うと、勝ち誇ったような顔をした楠田にもお休みを言って部屋を出た。
どうやら楠田は、小金井先輩に標的を定めたらしい。
この先、益々嫌がらせが酷くなるのではないかと思い、俺は気が重くなった。
部屋に戻ると、机の上のコーヒーはすっかり冷めていた。
だが、構わずにそれを飲み干し、俺はもう一度熱いコーヒーを淹れた。
慶は部屋に居なかった。
さっき淹れたコーヒーは全部飲んで行ったらしく机の上のカップは空だった。
それを手に取り、掌の中でゆっくりと回した。
小金井先輩も真藤先輩も、俺と付き合いたいと言ってくれた。
それから、古賀先輩の他にも、何人かの先輩や同学年の生徒からもメルアドやケイバンを貰ったり、ラブレターのような手紙を貰ったりもした。
でも、俺はその中の誰とも付き合う気にはなれずにいた。
小金井先輩のことは好きだし、先輩として尊敬もしている。
いつも、親切にしてくれて面倒を見てもらっていることにも感謝しているが、恋愛対象として考えるとなると逡巡してしまう。
真藤先輩はファーストキスの相手だし、そして、そのキスも嫌ではなかった。
だが、恋人になったとしたら、その先だってきっとあるだろう。そうなると、やはり躊躇ってしまうのだ。
だったら……、もし、慶だったらどうなのだろう。
勿論、慶は俺を選んだりしないし、友井先輩に勝てる自信なんて全く無い。だから、有り得ない事だけど、でももし、慶が相手だったら俺はキス以上のこともしたいと思うのだろうか。
慶にキスされたら、どんな気持ちだろう。
そう思って、閉じていた目を開けると俺はホッと溜め息をついた。
もう、友井先輩とキスしたのだろうか。
そう思った時、ドアが開く音がして俺は急いでカップを机の上に戻した。
「帰ってたのか」
慶に声を掛けられたが、まともに顔を見ることが出来ず、俺は目を逸らしたままで頷いた。
「う、うん…。楠田が先輩に話し掛けてきて…、だから、帰ってきちゃった…」
見られはしなかったかと気になって、おどおどしてしまった俺の様子を不審に感じたのか、慶は眉を寄せた。
「どうかしたのか?」
「う、ううん。なんでも……」
まだ目を逸らしたまま首を振って、俺は急いで慶の机から離れようとした。すると、慶が腕を掴んで引き留めた。
「高梁?もしかして、楠田になんか嫌な事されたんじゃないのか?」
「え…?」
思いがけない慶の言葉に、俺は思わず顔を上げた。
すると、そこには心配そうな顔があった。
「前から思ってたんだ。おまえ、楠田たちに嫌がらせされてるだろ?」
「えっ?」
まさか、慶が気付いているなんて思わなかった。俺になんか、無関心だとばかり思っていたのに、ちゃんと見ていてくれたのだろうか。
「そ、そんなことないよ…」
否定しようとしたが、多分、ばれているのは分かっていた。さっきの慶の言葉は、疑問系ではあったが確信しているように聞こえたからだ。
慶はもう一方の腕を伸ばして、両手で俺の腕を掴んだ。
「この前、上履きのまま帰ってきたり、昼休みも購買に行ったまま帰って来なかったりしてたろ?俺が口出していいかどうか分からなかったし、訊こうかどうか躊躇ってたんだけど、何かあるんじゃないかとは思ってたんだ」
「そ、それは…」
「そしたら、今、真藤さんに呼び出されて、楠田の他にも高梁に嫌がらせしてる奴がいるから気をつけてやってくれって」
「えッ…?し、真藤先輩が?」
「ああ。俺もおかしいと思ってた所だったけど、真藤さんも気付いてたんだな。でも、学年も寮も違うし、そうそう庇ってもやれないから俺に頼むって。……なあ、これからは、何かあったら俺に言えよ?ルームメイトなんだから、困った時はもっと頼ってくれ」
俺が驚いて見上げると、慶は苦笑気味に笑った。
「別に、真藤さんに言われたから言ってる訳じゃないからな。高梁は、何かあっても黙って我慢するタイプだし、前から、いっぺんちゃんと言おうと思ってたんだ」
「慶……」
感動して思わずそう呼んでしまい、俺はハッとなった。
忽ち顔に血が上るのが分かり、目を逸らすと俺は顔を俯けた。
「ご、ごめん……」
心の中では、もう随分前から名前で呼んでいた。でも、慶のことを名前で呼ぶのは友井先輩だけなのも知っていたのだ。
「いいよ。別に謝らなくて」
笑いながらそう言うと、慶は俺の頭に片手を載せた。
「慶でいい。そう呼べよ」
言われて、俺は首を振った。
そんな親しげに俺が慶のことを呼んだら、きっと友井先輩が嫌な気持ちになるだろう。
「ごめん…っ。俺……」
「いいって言ってるだろ?」
優しくそう言われても、やはり俺は首を振った。
そして、そんなつもりじゃなかったのに、涙が溢れてしまった。
慶に優しくしてもらえる事が嬉しかった。
でも、その反面、酷く惨めな気持ちがした。
慶が俺の気持ちを知らないのは分かっているのに、叶わない恋をしている哀れな奴だと思われているような気がして仕方なかった。
だから、同情されているのだと思えて酷く惨めな気がしたのだ。
そんなのは全部、俺の被害妄想に過ぎない。
慶は友達として純粋に俺を心配してくれているのだと分かっている。
それでも、いじけた俺の心は素直に慶の気持ちを受け取ることが出来なかった。
「高梁…」
慶の手が背中に回されて俺の身体を抱き寄せた。
ドキドキと、急に鼓動が早くなる。
躊躇いがちに俺も慶の背中に腕を回そうとしたが、思い直してまた元の様に下ろしてしまった。
その代わり、目を閉じて、少しだけ、その胸に頬を甘えさせた。
慶にとってはただの同情でも、俺には慶の抱擁は特別なものだったのだ。
このままずっと抱きしめていてくれたら、どんなに幸せだろう。
友井先輩ではなく俺を選んでくれたら、死んでもいいのにとさえ思えた。
(好き……。好き……ッ、慶……)
一生言えないと分かっている想いを、俺は心の中で必死に呟いた。