涙の後で
-7-
「んー…、おはよう……」
着メロが途切れ、やっと慶が眠たそうにそう言うのが聞こえた。
「うん…、うん。…うーん……眠いよ。目が覚めるまで何か喋って?」
幸せそうな声。
恋人からのモーニングコール。
俺は、慶が友井先輩と話しているのをいいことに、彼に“おはよう”も言わずにバスルームに入った。
ユニット式で狭小だが、流石に裕福な学校だけに各部屋にバストイレがついている。鏡の前に立つと、俺は棚から自分の歯ブラシを取った。
友井先輩からの慶へのモーニングコールは、休みの日以外毎朝続いていた。
最初は敬語を使っていた慶も、今では親しげな口調で、さっきの様に甘えたことを言うようになった。
大人びて見えるが、こういう時は慶の方が年下なのが分かる。
俺が小金井先輩と付き合うことを決めた翌朝、一緒に食堂へ行こうと誘われ、俺は断った。
小金井先輩と約束しているからと言うと、慶は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに頷いた。
「そうか。じゃあ、先に行ってくれ」
もう、用意出来ていた俺にそう言うと、慶は制服に着替え始めた。
食堂へ行くと小金井先輩はもう来ていて、その周りには俺にメルアドをくれた先輩たちが集まっていた。
俺が行くと、冗談で皮肉を言われたり、泣き真似をされたり、大変な騒ぎだった。
中には、
「何時でも俺に乗り換えていいんだぞ」
と言って、俺の手を握る先輩もいた。
ひとしきり騒いだ後で、みんな席に戻り、俺と小金井先輩はやっと朝食にありついた。
気付くと、少し離れた席に友達と一緒に楠田が座っていた。
俺が見ると、かなり険しい視線を送って寄越したが、すぐにフイッと横を向いてしまった。
目の前で俺が先輩をさらった形になり、きっと楠田は俺に腹を立てているだろう。それでなくても、嫌がらせを受けていたので、後でまた、何か言われるかも知れないと俺は覚悟した。
案の定、その日の放課後、俺は楠田に呼び出された。
「すげえ、恥かかせてくれちゃって。侮ってたなぁ、俺……。高梁君、天然な振りして強かだよねぇ」
唇を歪めてそう言われたが、俺は何も言わなかった。
「まあいいや。俺の本命は、元々、戸田君だったんだけどさ。さすがに相手が友井先輩じゃ太刀打ち出来ないもんね。でも、高梁君も小金井先輩に決めたんだし、もうこれからは俺の邪魔しないでよね?」
脅すようにそう言われ、今度は頷いた。
「最初から、邪魔するつもりなんか無いよ。小金井先輩は、向こうから付き合おうって言ってくれたんだし、俺はそれに答えただけだ」
俺の答えが気に入らなかったらしく、楠田の顔が益々険しくなった。
「ふうん。自分がモテるって自慢したい訳だ?」
「そんなんじゃない。大体……、楠田君は先輩に告った訳でもないんだろ?邪魔も何もないじゃないか」
理不尽な言いがかりに少々腹が立ってきて、俺は強い口調でそう言った。
すると、楠田は少し意外そうな顔をして俺を見た。
今まで嫌がらせを受けても何も言わなかった所為か、俺のことを、余程大人しいと思っていたのだろう。言い返したりしないものだと思ったのかも知れない。
「まあね。そう言われちゃ仕方ないけどさ」
楠田は肩を竦めると、あっさりと認めた。
「でも俺、やっぱり写真部に入るからね。真藤先輩はまだフリーだし、脈もあると思うし…」
言いながら俺に近付くと、楠田は俺のネクタイを掴んでその歪みを直しながら見上げた。
「高梁君、真藤先輩に近付かないでよね?」
「……楠田君が真藤先輩にアタックするのを邪魔する気は無いよ。でも、俺は先輩と後輩として真藤先輩とは今まで通りに付き合う。それを、楠田君にとやかく言われることはないと思うけど」
俺の答えに、楠田の眉がキュッと上がった。
「いいよ。必要以上に近付かなければね。……じゃあ、また後で、部室で会おう」
楠田はそう言うと、俺のネクタイを離して行ってしまった。
俺はその後姿を見ながら大きく息を吐いた。
自分より小柄な楠田に腕力で負けるとは思わなかったが、それでも、その威圧感に圧倒されて少し恐怖を感じたのは確かだった。
でも、だからと言って何時までも黙っている訳にはいかない。
それでなくても、真藤先輩にも慶にも俺は弱いと思われているのだ。少しは、男らしく、自分の災難くらい自分で払わなくては駄目だと思った。
(もう、心配掛けたり、同情されたりしたくない)
そうやって、慶に気遣われることが俺には辛いのだ。
俺が邪魔しないと約束した所為か、楠田はそれ以降、俺に対して嫌がらせをしてくることも無くなった。
だが一方で、真藤先輩の俺に対する態度が変わってしまったのが気になっていた。
小金井先輩と付き合うことに対して、きっと何か言われるだろうと思っていた。だが、先輩は俺と顔を合わせても何も言わなかった。
ただ、俺の髪をクシャッと撫でて、
「俺はいつでも千冬の味方だからな?」
と言ってくれただけだった。
その意味を聞こうとしても、先輩はすぐに離れていってしまい、それからは二人きりになる機会も無かった。
小金井先輩は思った通り、とても優しかった。
待ち合わせては写真を撮りに行ったり、たまには町へ降りて遊んだりもした。
先輩は使っていていいと言ったが、やはり自分の物が欲しくなり、俺は母に頼んで通販サイトでカメラを買ってもらった。
それも、サイトを見ながら先輩に相談して選んでもらい、そのカメラが届くと二人で撮影に出かけた。
そうしていると、楽しくて、少しは慶の存在を忘れていられるのだ。
慶と友井先輩は相変わらず注目の的で、何処へ行っても見られていた。
そんな中、俺はなるべく彼らを見ないように、二人がいる所に出会わないように気をつけて生活していた。
だが、同室の不幸で、聞きたくもない二人の会話を、毎朝聞かなければならなかったのだ。
「真藤先輩じゃなかったんだな?」
ポツリとそう言われ、俺は驚いて目を上げた。
いつの間にか、開いたままだったドアの前に慶が立っていた。
鏡越しにその姿を見ると、俺は口の中の歯磨き粉の泡を吐き出して口を濯いだ。
「な、なに?今頃……」
濡れた口をタオルで拭いながら、俺は言った。
小金井先輩と付き合うと決めたのは、もう何週間も前になる。だが、その時は何も言わなかった。
「いや…。なんだか、ふとそう思って……」
慶は柱に身を預けるようにしてそう言った。
「俺は…、千冬は真藤先輩と付き合うんじゃないかって思ってたから」
“千冬”と、あの時以来、慶は俺を名前で呼ぶようになった。
だが、俺は慶を名前では呼ばなかった。
「真藤先輩はカッコいいし、優しくて面白いけど、気が多そうだから…。俺は…、俺だけ見てくれる人と付き合いたかったんだ」
俺がそう答えると、慶は少しの間、鏡越しに俺の顔を見ていたが、やがて黙って頷いた。
俺だけ見てくれる人……。
でも、本当に好きなる人は、いつでも俺以外の人を見ていた。
「どうぞ。俺は済んだから」
そう言って、俺は狭い入り口で慶と身体を入れ替えた。
Tシャツとスウェットパンツを脱いで、制服に着替える。
上手く結べなかったネクタイも、今ではちゃんと結べるようになった。
慶の手は、もう借りなくていい。
鏡を見ながらネクタイを結ぶと、カードを持って部屋を出た。
小金井先輩とは、何時も大体同じ時間に食堂で会うので、特に待ち合わせはしなかった。
小金井先輩と付き合うようになってからも、実はまだ、俺に付き合おうと言って来る先輩もいた。
中にはみんなが言っていたように少し強引な相手もいて、確かに少し身の危険を感じないでもなかった。
だが、大抵は小金井先輩と一緒に行動していたので、そういう相手と二人きりになる機会は無かった。
食堂へ行くと、まだ小金井先輩は来ていなかった。
その代わりに、窓際に居たクラスメイトの坂上真也が俺を見て手招きをした。
「おはよう。どうした?今朝は遅いんじゃ?」
朝練がある運動部の生徒は、大抵もっと早い時間に朝食をとって登校してしまう。こんな時間に食堂に居るのは珍しかったのだ。
「実は昨日の練習で足首やっちゃって…。1週間は安静って事で朝連は休み」
見ると、確かにズボンの裾から見える右足に包帯が撒いてあった。
「ええ?大丈夫か?」
俺が心配して言うと、坂上は笑いながら頷いた。
「ああ。これくらいの怪我は日常茶飯事だよ。骨は大丈夫だし、捻挫だけだからすぐにまた練習に戻れる。今日も朝は休むけど放課後は道場へ行くよ。足は駄目でも柔軟と筋トレは出来るし」
「そうなんだ。大した事なくて良かったな」
坂上とは入学式の日に話して以来親しくなって、昼食を一緒に食べたりするようになっていた。
週末は道場での稽古がある為、坂上はいつも実家に戻る。だから、一緒に出掛けたりすることは無かったが、学校内や寮の中では話す機会も多かったし、今のところ、同学年で1番仲がいいのは坂上だった。
「高梁、朝は一人なのか?」
躊躇いがちにそう訊かれ、俺は少し言葉に詰まった。
昼は良く小金井先輩と食べているのを見かけるからだろう。
「うん。先輩、今朝はまだ来てないみたい。大体、同じ時間に来るから、もうそろそろだと思うけど…」
俺が答えると、何故か坂上の方が赤くなった。
「そ、そっか。うん、いいな、仲良くて…」
取り繕うような言葉に、俺の方も赤くなる。
男と付き合っていることが、異常なのだと改めて思い知らされた。
俺が赤くなって俯いたのを見ると、坂上はササッと周りを見回し、大きな身体を縮めるようにして俺の方に身を寄せて来た。
何かと思って顔を見ると、テーブルの上にあった俺の手首を坂上の大きな手が握った。
「あ、あの…。俺さ、ホントは言おうと思ってたんだけど…」
「え?」
小声で言われ、俺が聞き返した時、後ろで小金井先輩の声がした。
「おはよう。今朝はパンにしたんだ?」
目の前の席にトレイを置きながら、先輩は俺の前に並んでいる皿を見て言った。
「あ、おはようございます。今朝はスクランブルエッグだったんで…」
前から知っている坂上と先輩も挨拶をし合った。
先輩の方は普段通りだったが、何故か坂上は少し様子がおかしいように感じた。
表情が硬いように思えたが、それは、今さっき先輩の話しをしていた所為なのかも知れない。
「あ、俺、そろそろ行きます。それじゃ…」
坂上はそう言うと、食べ終わったトレイを片手で持ち上げ、ビッコを引きながら歩き出そうとした。
「待って。俺が運んでおくからいいよ」
俺が立ち上がってトレイを受け取ろうとすると、坂上はそれをサッと引っ込めた。
「いいって、いいって。平気だよ。じゃ、また後でな?」
坂上は笑いながらそう言うと、返却口の方へ歩き出した。
さっき、彼が何を言い掛けたのか凄く気になった。
その後姿を見ながら、俺は学校へ行ったら坂上と話す機会を持とうと思っていた。