涙の後で


-9-

放課後になり、俺は部室へ向かった。
俺の他にもう一人、掃除当番が居る筈だったが、とうとう掃除が終わるまで現れなかった。
すっかり部室が片付いた頃に、他の1年生と一緒に楠田も姿を見せた。
「高梁君、ごめんね。ありがと」
愛想良く可愛い笑顔を見せてそう言うと、楠田は他の1年生たちとお喋りを始めた。多分、そのままお目当ての先輩が現れるのを待つつもりなのだろう。
俺は鞄を置いたままでカメラだけ持つと部室を出た。久し振りに裏山に登って写真を撮ろうと思ったのだ。
もう、桜はすっかり散ってしまい新緑が美しい。その並木道を通り、俺は寮の前に出た。
すると、A寮とB寮の間のカフェテリアに友井先輩の姿があった。
どうやら、お茶を飲みながら本を読んでいるらしい。ただそれだけのことなのに、見惚れるほどに綺麗だった。
そよそよと戦ぐ風が、先輩の艶やかな髪を靡かせている。その、周りを包む空気さえ違って見えるような気がした。
その内、ここに慶が現れるかも知れないと気付き、俺は急いで裏山への道を辿った。

そして、上に着いた途端に俺は後悔した。
そこには二人の上級生が居た。そして、その一人は俺にしつこく交際を迫っていた相手だったのだ。
「し、失礼しました」
すぐに踵を返して、もと来た道へ戻ろうとしたが、それよりも早く立ち上がった二人に俺は捕まえられてしまった。
「待てよ、高梁」
「は、離して下さいッ」
「いいじゃん。中々ゆっくり話す機会無かったしさ、俺の話、聞いてくれよ」
「で、でも…ッ」
俺が振り解こうとすると、二人が両方から腕を掴みグイグイと引っ張られてしまった。
「いいから、いいから。ほら、こっちに座れよ」
「あっ…」
押さえつけられるようにして草の上に座らされ、俺は怖くなって二人を見上げた。
「高梁さ…、ホントは小金井と付き合ってるのってカモフラージュなんだろ?」
「えっ?」
「小金井のこと好きって訳じゃないんだろ?言い寄られるのが面倒だから、小金井にOKしたんだってみんな言ってるぜ」
ニヤニヤしながらそう言われ、俺は顔色を変えた。
「そ、そんなッ。違いますッ」
「いいって、いいって。そういうヤツ、結構多いんだから。彼氏を決めとけば、面倒なことなくなるし…。そう言えばさ、友井と戸田だって、契約だって専らの噂だぜ」
「え…、契約?」
俺がその言葉に驚いて聞き返すと、二人は顔を見合わせて笑った。
「ああ。友井には人に言えない恋人が居てさ、それを隠す為に利害が一致した相手と契約して付き合ってるんだって言われてんだよ。卒業した、前の彼氏だった先輩ともそうだったって噂だぜ」
「そんな…。でも、戸田は違いますよ。俺、同室だから分かるけど……」
俺が答えると、二人はまた笑った。
「そうなのか?なら、二人がキスしてるところでも見たとか?」
「そ、それは無いけど…」
俺が口篭ると、彼は俺の隣に腰を下ろして肩に手を掛けてきた。
「まあ、戸田たちの話はどうでもいいよ。俺が訊きたいのはさ、高梁のことなんだ」
肩に掛けられた手が嫌で振り払おうと思ったが、それもまた怖かった。俺は仕方なく、身を竦めただけで動かなかった。
「お、俺は…、小金井先輩のことが好きだから付き合ってるんです。カモフラージュなんかじゃありません」
「ホントか?嘘臭いなぁ」
「な…。嘘じゃありませんっ」
剥きになればなるほど、俺は自分の言葉が自分で信じられなくなった。
先輩のことは本当に好きなのに、それさえも嘘のように思えてきて、胸が痛くて堪らなくなってしまった。
すると、俺のもう一方の肩にも手が掛けられ、そしてその手にギュッと力が篭った。
「なあ、今からでも遅くないぜ?俺と付き合えよ。小金井にはさ、俺の方からちゃんと言ってやるって」
「い、嫌ですっ。俺、俺はホントに小金井先輩のこと……」
「だから、そうは見えねえんだって」
「いっ、嫌だッ」
草の上に押し倒されて、俺は本当に怖くなった。
相手は二人、しかも、俺よりずっと体格がいい。
このままでは、二人のいい様にされてしまうに違いない。
「いやっ、離せッ。離して下さいッ」
もがこうとして脚を蹴り上げた時、立って見ていたもう一人が素早く俺の脚を抑えてきた。
俺は二人を振り解こうとして、必死になって身を捩った。
「嫌だッ…」
「大人しくしろよ。いいじゃん、ちょっとぐらい」
「やっ…」
「おいッ、なにやってんだッ」
俺がもう一度叫ぼうとした時、息を切らした誰かの怒声が聞こえた。
見上げると、肩を上下させて怒りに震えた表情の真藤先輩が立っていた。
「た、拓馬……」
驚いた上級生たちがサッと俺から離れた。
「おまえら、どういうつもりだ?」
先輩の怒った顔を初めて見たが、その怒りが本物だということはすぐに分かった。
見たことも無い鋭い視線で二人を見据え、先輩は身体の横で両の拳をギュッと握り締めていた。
「お、おいおい……。一寸ふざけてただけだって。なあ?」
真藤先輩の迫力に、二人はたじたじとなってしまった。目配せし合うと、すぐに俺の傍を離れて山を下る道の方へ歩き出した。
真藤先輩は無言のまま、彼らを睨み付けていた。
それは、今までに1度も見たことの無い先輩の姿だった。
無言なことが、却って怒りを感じさせる。その迫力に、俺まで少し怖くなった程だった。
「マジでふざけただけだから。…じゃな?高梁…」
そう言うと、二人は真藤先輩の横をすり抜けて山を降りて行った。
どちらかと言うと軽くて、何時もふざけているようなイメージがある真藤先輩だったが、もしかすると、怒らせたら怖い存在なのではないか。俺は、逃げて行くと言ってもいい様子の二人を見てそう思った。
「千冬ッ」
二人が傍を通り抜けて行くとすぐ、先輩はまだ座ったままで立ち上がれずにいた俺に駆け寄って来てくれた。
「し、真藤先輩……」
抱き寄せられると、俺は自然に彼にしがみついてしまった。
抵抗している時は必死だったが、解放されて先輩の顔を見た途端に身体が震えてしまった。
別に、彼らも俺に乱暴しようとまでは思っていなかっただろう。だが、強引に身体を押さえつけられたことで、俺の脳裏に最悪の事態が浮かんだのも確かだった。
その恐怖が、先輩に抱きしめられた途端に消えていき、安堵感の為に却って身体が震え出してしまったのだ。
「大丈夫だ。もう、大丈夫……」
背中を撫でられて俺はコクコクと頷いた。
思えば、いつも俺はこうして真藤先輩に慰められている。先輩の腕は本当に何時も、俺の窮地を救ってくれるのだ。
「せ、先輩…、なんで?」
どうして駆けつけてくれたのか、一体何故気付いたのか、俺は不思議になって訊いた。
「俺は向こう側の上の方に居たんだ。そしたら、千冬がこっちに登って来るのが見えたんで降りて来た。そしたら、途中で叫び声が聞こえたんで、驚いて駆けて来たって訳」
「そ、そうだったんだ…」
頷いた後で、一気に力が抜けた。
凭れ掛かった俺を、先輩はまた抱きしめてくれた。
「あいつらは前からちょっと問題あってな。2年の時にも下級生を無理やり部屋に連れ込んだりしたことがあってさ。まあ、隣の部屋のヤツが気づいて、助け出したから大事には至らなかったんだけどな」
話を聞いて、俺は改めて怖くなった。
まさか、ちょっと身体を触られたりキスされたりするぐらいだと思っていたのだが、もしかすると、あの上級生たちはそれ以上のことまで強要するつもりだったのかも知れない。
「先輩、ありがとうございます。ホントに助かりました」
やっと身体の震えが止まり、俺は先輩から離れて改めて礼を言った。
だが、今までしがみついていたことを思うと、恥ずかしくてちゃんと目を見上げることが出来なかった。
「いいって。間に合って良かったよ」
そう言って、先輩は俺の頭にポンと手を載せた。
「けど、千冬、あんまり一人で人気の無い場所をうろつくのは止めた方がいいぞ。多くは無いが、ああいう奴らは他にも居る。バレなきゃいいって考え方だから、相手の事なんか考えないしな」
「分かりました。気をつけます」
俺が答えると、先輩は頷いた。
「ユキはどうした?」
「分かりません。今日は小金井先輩、部室には来てなかったから」
「そうか…」
言った後で、真藤先輩はフッと笑った。
「で?どうなんだ?ユキとは」
「どうって?」
 俺が聞き返すと、先輩はニヤニヤ笑って言った。
「もう、キスしたか?」
「しっ、してませんよッ」
慌てて答えながら、俺は頬に血を上らせた。
唯一自分がキスしたことのある相手にこんなことを訊かれると、何だか余計に恥ずかしい気持ちがした。
「ふぅん、そうか。まあ、ユキは手が早い方じゃないからな」
そう言って先輩はまたニヤリと笑った。
「…俺と違って。な?千冬」
「し、知りません……」
膨れてそっぽを向きながらも、俺はなんだか気持ちが楽になっていくのが分かった。
やはり、真藤先輩と居るのは小金井先輩と一緒に居るのとは違う。
何故か、俺は先輩の前だと自分を飾らずに楽に呼吸出来る気がした。
正孝さんのことや、俺の失恋のことなど、先輩が全部知っているからだろうか。
だが、それだけではなく、やはり先輩の人柄の所為のように思えた。
本当は慶も言ったように、真藤先輩と付き合うのが一番良かったのかも知れない。でも、先輩が今の俺にとって一番信頼出来る相手だからこそ、偽りの付き合いをしたくなかったのだ。
「先輩こそ、相手は決まったんですか?随分、狙われてるみたいですけど」
小金井先輩が俺と付き合い始めてから、矛先を変えたのか、真藤先輩に群がる下級生たちは更にその数を増していた。
もしかすると、今日もそんな連中から逃げてここへ来たのではないかと俺は思った。
「いや…。俺は別に決まった相手がいなくてもいいしな。ちゃんと付き合いたいと思うような相手はいないよ」
「そうなんですか…?あ、楠田とかは?可愛いと思いますけど」
楠田に邪魔をするなと言われていたのを思い出し、俺は先輩に訊いてみた。
すると、真藤先輩はちょっと苦笑いのような表情を見せた。
「楠田光一ね。確かに見た目は図抜けて可愛いけどな。でも、ああいうタイプは苦手なんだよ。まあ、遊ぶだけならいいかも知れないけどなぁ」
「でも、楠田は先輩と付き合いたいみたいですけど」
俺が言うと、先輩はまた苦笑いをした。
「ああ、そうみたいだな。熱心に色々と言ってくるんだけどな…、悪いが俺は無理だな」
やはり、思った通り先輩は楠田たちが煩くて逃げてきたらしかった。
「まあ、楠田なら付き合いたいってヤツは沢山居るだろ。その内に、誰かとくっつくんじゃないかな」
「そうですね…」
確かに、楠田がずっと一人でいるとは思えない。多分、真藤先輩に脈が無いと分かれば、また他の誰かに狙いをつけるのではないだろうか。
「そういえば千冬、大丈夫か?楠田たちに、もう虐められてないか?」
先輩の言葉に、俺は頬が熱くなるのを感じた。
「い、虐めって…。そんな大袈裟な事じゃないですよ。それに、もうなんとも無いですから」
「そっか」
頷くと、先輩はその場にごろりと横になった。
「なら、いいんだ…」
「心配をお掛けして、済みませんでした。俺が、しっかりしてないから、みんなに色々と気を使ってもらっちゃって…」
俺が頭を下げると先輩は笑った。
「みんなって、戸田のことか?」
言われて、また俺は頬を染めた。
「べ、別に、戸田に限ってじゃないですけど…」
「けど、ユキは気付いてなかったろ?でも、戸田は俺が言ったらちゃんと分かってた。あいつも気になってたらしいからな」
確かに慶は、今でも俺が嫌がらせを受けていないか気にしてくれている。気付いているとは思っていなかったのに、ちゃんと見ていてくれたのも確かだった。
だが、だからと言って、そこに特別な感情がある訳ではない。
思い出して、俺は立ち上がると崖の方に歩いて行って下を眺めた。
さっき、友井先輩が居たカフェテリアを見ると、思った通りその向かいには慶の姿があった。やはり、二人はあそこで待ち合わせていたのだろう。
「俺…、実は今朝、同級生の坂上に告られちゃって」
何か仲良さ気に額を寄せて話しをしている慶と友井先輩を見ながら、俺はボソボソとそう言った。
さっきの連中が言った様に、二人が契約で付き合っているなんて嘘だ。
あんな姿を見れば、それは良く分かる。

胸の中で嵐が吹く。
二人を見る度、俺の嵐は激しくなった。