涙の後で
ー第3部ー
「どうした?」
訊かれて俺は顔を上げた。
「え?……なにが?」
聞き返すと、慶は立ち上がって俺に近付いて来た。
「目が赤いぞ。泣いたのか?」
そう訊かれて、俺は慌てて目を擦った。
「そ、そうかな?別に何も……」
「……坂上と、何かあったのか?」
「えっ…?」
見ると、慶は心配そうな表情で眉間に皺を刻んでいた。
それを見て、俺の胸がまた苦しくなった。
気持ちを告げられない相手に、同情される苦しさ。そして、切なさが込み上げた。
鼻の奥がまた、ツンと熱くなり、目が潤むのが分かる。俺は首を振ると、急いで顔を伏せた。
「べ…、別に…。ただ、坂上に告られて……」
「え?坂上が?……そうか」
慶は少し驚いたようだった。やはり、彼もまた、坂上が男を相手に恋愛するようなタイプには見えなかったからだろう。
「うん。でも、俺は応えられないから…。坂上は本当に優しくて、いいヤツなのに。だから、辛くて……」
嘘と本当を交えながら俺は答えた。
泣いたのは坂上の所為ではなかったが、本当の理由を言う訳にはいかない。だが、坂上に対して済まない気持ちでいっぱいなのは嘘ではなかった。
それでも、やはり罪悪感は拭えない。それに、さっきの慶と友井先輩の姿が脳裏に蘇ってきた。
そしてまた、あの時の衝撃も……。
唇が震え出し、俺は言葉を途切れさせた。
すると、慶の手が、何時かしたように俺の頬にスッと当てられた。
「本当に優しいんだな、千冬は……」
その言葉を聞いた途端、堪え切れずに俺の目から涙が溢れた。
違う。俺は優しくなんか無い。
ただの、ずるくて情けないだけの人間なのだ。
首を振り、俺は両手で顔を覆った。
嘘をついて慶に同情されている自分が、この醜さが耐えられなかった。
「千冬……」
伸びてきた慶の腕が俺の身体を抱き寄せた。
驚いて息が止まった俺に、慶の言葉が優しく降り注いだ。
「千冬が悪い訳じゃない」
誰もが、俺を悪くないと言ってくれる。
だが、俺だけは知っているのだ。
悪いのは、全部自分だと。
「や、やめ…」
すがり付いてしまいたい慶の腕を、俺は押し退けた。
「いいよ。同情してくれなくて…」
必死で涙を拭い、俺は言った。
「な、なんだろな?俺…。すぐに涙が出て、変なの…。この頃、涙腺が弱くなってるのかな?こんなんだからすぐに、みんなに心配掛けちゃうんだよな。ホント、ごめん…。そんなつもりじゃないのに、余計な気を使わせちゃって。ごめん、ホント…ごめん……」
笑おうとして顔が歪む、それを見られまいとして俺は急いで背を向けた。
「おかしいな。俺、こんなに泣き虫じゃなかったんだけど…。な、なんか、…なんでかな?」
慶の前で泣くのは嫌だ。
そう思えば思うほど、涙を我慢出来ない。
抱きしめてくれた慶の腕は温かかったが、それでも友井先輩を抱きしめるのとは意味が違う。
幾ら俺がすがり付いても、得られるのはただの同情でしかないのだ。
「色んなことがあり過ぎたんだよ、短い間に。ここへ来る前も、千冬はずっと我慢してた。お母さんたちの前では泣かないように、必死で耐えてきたんだろ?もう、限界なんだよ」
言いながら、慶の手が肩に乗る。
「もう、我慢すること無い。この部屋に居る時は、俺に遠慮なんかしないで泣きたい時は泣いたらいい。他に逃げ場なんか無いんだから、我慢してたら辛くなるばっかりだぞ」
何故、こんなに優しくしてくれるのだろう。
気遣ってくれるのだろう。
突き放してくれればいい。
嫌ってくれればいい。
陰気なヤツだと呆れてしまえばいいのに……。
最初の頃の、誰にも興味を持たないように見えた慶は何処に行ってしまったのだろうか。
多分それは、俺がその表情や態度から誤解していただけなのだろう。
慶は俺が思っていたよりもずっと、人間的で情に厚い男なのかも知れない。
(優しいのは、慶の方だ…)
振り返ろうとすると、慶が俺に近付いたのが分かった。声がさっきよりもずっと傍で聞こえる。
「こんなこと言うと、嫌がられると思うけど…」
そう言って、俺の頭のすぐ上で慶がクスリと笑った。
「千冬はなんだか、俺の妹に似てるんだ」
「え…?」
見上げると、愛しむ様な視線に出くわし俺はドキリとした。
「繊細で傷つき易くて……。誰かが見ていてやらないと、すぐに折れてしまいそうな気がする。……いや、俺がそう感じるだけで、千冬もそして妹も、きっともっと強いんだろうけどな」
苦笑いした慶を見上げて俺は妙に納得してしまった。
(そうか…。優しくしてくれるのも気遣ってくれるのも、俺に妹を見ているからなんだ)
きっと慶にとって、妹はとても大切な存在なのだろう。
離れていても、妹のことが気に掛かるに違いない。だから、俺に妹を映して気に掛けてくれるのだ。
「俺は…、そんなんじゃないよ。戸田の妹さんみたいに、繊細なんかじゃない。俺は、俺は……、ずるくて、ただ軟弱なだけだ。全然違うよ。違う……」
首を振りながら、俺は思わず胸を押さえていた。
苦しい……。
そんな、綺麗な存在と並べられることが苦しい。
俺自身を見てもらえないことが苦しい。
そして、自分が慶の望むような人間ではないことが苦しかった。
他の人間には見せない優しい表情を俺にくれるのは、俺が特別だからではなかった。
それに気付かされたことが、何よりも一番苦しかった。
「ごめん。妹と似てるなんて言われて、やっぱ気を悪くしたか?」
済まなそうにそう言われ、俺はまた慌てて首を振った。
「違う…。そうじゃないよ」
「いや、ごめん。一緒にされたくないよな。それに、俺の妹は病気がちで学校にも殆ど行っていないんだ。家に居るより病院に居る方が多い。そんな子と、千冬を似てるなんて言って悪かったよ」
「え…?」
だが以前、慶は確か毎朝妹に起こしてもらうと言っていた。
それを言うと、慶はまた苦笑いした。
「ああ。家に居て元気な時は部屋に起こしに来てくれる。具合が悪い時や入院している時は携帯に電話して来るんだ。いいって言うんだが、自分の仕事のように思ってるんだな」
それなら妹さんは、友井先輩に仕事を取られて寂しがっているのではないのだろうか。
「妹さんも戸田のことが大好きなんだな…」
そう言うと、何故か慶は寂しげにフッと笑った。
「千冬は一人っ子だったな」
「うん」
頷くと、慶の手が伸びて俺の髪を躊躇いがちに撫でた。
それはまるで、俺の向こう側に妹の姿を見ているように思えた。
撫でられることが、嫌だとは思えなかった。
だが、また愛しむように俺を見た慶の目が、俺には酷く切なかった。
翌日、俺はいつものように慶よりも一足先に部屋を出て食堂へ向かった。
何時も賑やかな食堂だったが、今朝はなんだか様子が違う。それぞれのグループで何かの話題が持ちきりになっているらしく、普通に雑談しているのとは明らかに違っていた。
「高梁くん、高梁くんッ」
俺がトレイを持って空いている席に座ろうとすると、向こうから楠田が飛んで来た。
ギュッと袖を掴まれてストンと腰掛けさせられ、慌ててトレイをテーブルに置くと、隣に座った楠田がズズッと椅子を俺の方へ寄せた。
「知ってる?」
声を潜め耳元でそう言った楠田を、俺は眉間に皺を寄せて見つめた。
「なに?」
「昨夜さ、この食堂で戸田君と友井先輩がキスしてたんだってッ」
「え…?」
勿論、知っている。
それは昨夜、俺と坂上がここで目撃したのだから。
だが何故、それを楠田が知っているのだ。
どうやら、みんなが噂しているのもこの事らしいと知り、俺は驚いて周りを見回した。
「昨夜さ、B寮の窓から見たヤツが何人か居たらしいよ。それで今朝は、この話題で持ちきりさ。ねえ、高梁君、戸田君と同室だろ?昨夜の彼の様子、どうだった?」
「どうって……」
言いながら、俺は窓から外を見た。
確かに、日が落ちて灯りの煌々と点いたこの食堂は、向かいの寮の建物から見たら中の様子まで良く見えるだろう。
(そうか…。あっちから見てた人が居たんだ)
知っていたのは、俺と坂上だけではなかった。昨夜のキスは、今や全校生徒が知っているのかも知れない。
「別に…。戸田は普通だったけど…」
俺が答えると、楠田はフッと溜め息をついて俺から離れた。
「ふーん。しっかしなぁ…。実は俺もあの二人の“契約説”、ちょっと信じてたんだぁ」
がっかりしたようにそう言い、楠田はテーブルの上に肘を載せると頬杖を突いた。
「でも、こうなるとそれは、単なるみんなの願望だったみたいだなぁ。 あーあ、やっぱり戸田君は諦めるしかないか」
どうやらまだ、慶のことを諦めていなかったらしく、楠田は仕方無さそうにそう言った。
だが、俺はその言葉に呆れている余裕も無かった。
多分、慶もそして友井先輩も、こんな騒ぎになるとは思ってもいなかっただろうし、勿論、望んでもいなかっただろう。
そんな二人のことを思うと、俺は酷く気の毒な気がした。
その内に、騒ぎも知らずに二人が現れるのだろう。だが、俺はその前に食事を終えると、食堂を後にした。
二人が騒がれてどうするのか、知りたくも見たくもなかったからだ。
慶の困った顔も、不機嫌な顔も見たくない。俺はサッサと食堂を出ると、部屋に戻る前にB寮へ繋がる廊下へ向かった。
今朝は何故か、いつもの時間になっても小金井先輩が姿を見せなかった。
ただ単に、何か用事があっただけかも知れないが、それでも律儀な先輩なら携帯にひと言メールをくれるだろう。何の連絡も無く先輩が現れなかったのが、俺には解せなかったのだ。
歩いて行く廊下の途中でも、あちこちで慶たちの噂をしている生徒がいた。それを聞かないようにしながら、俺は小金井先輩の部屋まで行った。
ノックすると、すぐに返事があって、中から真藤先輩が顔を出した。
「おお、千冬か…。おはよう。どうかしたか?」
何時もと変わりの無い愛想の良さで先輩はそう言った。
「いえ…。今朝は小金井先輩が食堂に来なかったんで…」
俺の言葉を聞いて、真藤先輩は眉を顰めた。
「うん?ユキならもうとっくに出たぞ。食堂へ行ったんだとばっかり思ってたけどな」
「そうなんですか?……どうしたんだろ?」
俺が首を捻ると、先輩は少し苦い顔になった。
「昨夜は平気そうな顔してたんだがな。やっぱ、平気じゃなかったか……」
「え?何のことですか」
まさか、慶たちのことを言っているのだろうか。
そう思ったが、その答えを自分の中で導き出すことが出来ず、俺は先輩を見上げながら何となく不安になった。