涙の後で
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真藤先輩は俺の顔を見ると、言ってしまったことを後悔するような表情を見せた。
「ああ、いや。別に何でも……。ユキは今朝、生徒会の用事でもあったのかも知れないな。それできっと、早く出たんだろ?」
「……そうですか。それならいいんですけど…」
明らかに先輩が嘘をついているのが分かったが、俺はそれ以上追求しなかった。話していいことなら、先輩はきっと話してくれた筈だったし、隠そうとするからには俺が知らなくていい話なのだろうと思ったからだ。
だが、気持ちの上ではやはり釈然としなかった。
そして、小金井先輩と友井先輩との間に一体何があるのか、知りたいと思った。
だが、それを口に出すことは出来なかった。
言葉を切ったまま、黙って立っている俺を真藤先輩が部屋の中へ招き入れた。
「まだ早いし、コーヒーでも飲んでいこうぜ。ほら、座れよ千冬」
「あ、はい…。でも、先輩、朝ごはん食べてないんじゃ?俺は部屋に戻りますから食堂へ行ってください」
気付いて俺が言うと、先輩は首を振ってコーヒーカップを手に取った。
「いや、俺はさっき、買ってあった菓子パン食ったし、今朝はそれで終わりにするからいいんだ」
「そうなんですか?……じゃ、済みません」
俺はそう言って軽く頭を下げると、先輩のベッドへ浅く腰を下ろした。
「ブラックでいいんだっけ?」
「あ、はい。ありがとうございます」
この部屋には何度か来ているが、小金井先輩がここに居ないのは初めてだった。
向かいを見ると、何時もきちんと整えられている所しか見たことの無い小金井先輩のベッドが乱れたまま放置されていた。
真藤先輩がカップを持ったまま俺の隣に腰を下ろした。
その振動で俺の身体が僅かに揺れ、カップの中のコーヒーもフルフルと揺れた。
俺は小金井先輩のベッドを見つめたまま、ぼんやりとした口調で言った。
「小金井先輩は…、友井先輩のことが好きなんですね……」
真藤先輩が向きを変えたのが視界の端に映り、それからベッドがまた揺れた。
「千冬……」
名前を呼ばれてハッとすると、俺は慌てて真藤先輩を見た。そして忽ち、口に出してしまったことを後悔した。
「い、いえッ。た、ただ俺は……、先輩みたいな人気者が本気で俺なんか選ぶ訳無いって、何処かでそう思ってたから……」
「それは……」
「い、いいんです」
真藤先輩が言いかけた言葉を、俺は急いで遮った。
「俺はそれでもいいんです。……俺だって、先輩のこと責められない。ううん…、俺の方が小金井先輩に酷いことしてるんだから……」
「そんなことないよ」
優しく言ってくれた先輩に俺は首を振った。
「ううん…。俺は、卑怯なことしてる。……先輩を騙して。だから、俺はいいんです。先輩が、俺をどんな理由で傍に置いてくれていてもいいんです。ただ…、俺が先輩に何かして上げられる訳じゃないと思うけど…。だって…、俺なんかが友井先輩の代わりになれる訳ないんだし……」
不意に、俺の手から真藤先輩がカップを取り上げた。
気付くと、俺の手はぶるぶると震えていた。そして、握られていたカップからコーヒーが零れそうになっていたのだ。
「す、すみませ……」
軽く頷いて見せると、先輩は自分のと俺のカップを机の上に置いた。
「お、俺…、なに言ってんだろ?余計なことばっか……、済みません、俺…。俺が口出すことじゃないって分かってるのに……」
俺はまた、少しパニック状態になってしまっていた。
小金井先輩に裏切られたと思った訳ではない。
ただ、小金井先輩までも友井先輩を好きなのだと分かったこと。そして、友井先輩のことを想いながら、俺を選ばなければならなかったこと。それを、真藤先輩は全て知っていたのだということ。
そして、卑怯な自分は報いを受けるのだと思えたこと。
そんな全てが、いっぺんに自分を襲い、心が乱れ切ってしまったのだ。
「違う、千冬っ…」
真藤先輩の両手が俺の肩を掴み、少し強く俺の身体を揺すった。
見ると、じっと俺の目を覗き込んでいる。
俺は黙ってその目を見つめ返した。
「ユキは…、確かに尚也のことが好きかも知れない。けどな、ずっと前から、諦めようとしてるんだ…」
「え…?」
俺が訊き返すと、先輩は辛そうに頷いた。
「ユキと尚也のことは、俺の口から言う訳にはいかない。でも、これだけは言っておくよ。ユキは自分の気持ちを紛らわそうとして、千冬と付き合ってる訳じゃないと俺は思ってる。尚也の代わりとか、そんなんじゃないよ。ユキはちゃんと、好きだから千冬を選んだんだ」
俺を慰めようとして、先輩がそう言っているのはすぐに分かった。
有り難かったが、それもまた切なくて、俺は言葉が出なかった。
“ユキには軽い恋愛なんか出来ない”
確かに、真藤先輩は以前俺にそう言った。
友井先輩のことを胸に秘めながら、俺とも恋愛するなんて真面目な小金井先輩に出来る訳がないのだ。
もし、俺が傍に居ることで小金井先輩の気持ちを楽にしてあげられるなら、俺はそれでもいいと思った。友井先輩の代わりにはなれなくても、少しでも癒せるならそれでいいと思ったのだ。
でも、そう出来る自信が俺には無い。
傍に居ても、ただ気遣ってもらうばかりで、今だって辛い気持ちでいるだろう先輩を、傍で慰めることさえ出来ないのだ。
「俺…、ホントに余計なことを……。気付かなくていいことに気付いて、肝心なことは何も出来ないのに……。小金井先輩の辛い気持ちを慰めることも出来ない…」
「千冬ッ」
ギュッと腕を掴まれて驚いて見ると、真藤先輩は何時に無く厳しい顔で俺を見ていた。
“怒られる”
そう思った。
だが、次の瞬間、俺は先輩の腕の中に居た。
「ごめんな?話してやれなくて…」
済まなそうにそう言われ、俺は首を振った。
「千冬は悪くないよ。何にも悪くない。千冬が罪悪感を持つ必要なんてないんだ」
また、先輩は俺を悪くないと言ってくれた。
胸の痛みに耐え切れず、ギュッと目を瞑ると、俺は頬を押し付けている先輩のシャツを掴んだ。
トントンッ、と勢い良くドアを叩く音が聞こえ、俺が身を離す前にドアが開けられた。
「真藤先輩っ、一緒に行きませんかー?」
飛び切りの可愛い笑顔を見せながら、楠田が顔を覗かせた。
だが、その笑顔が俺を見てすぐに引っ込んだ。
「高梁……」
拙いと思ったが、もう遅い。
すぐに離れたが、楠田は俺が先輩の腕に抱きしめられているのを見てしまった。
「楠田、ドアってのは返事があってから開けるもんだぞ」
少々きつい調子で真藤先輩にそう言われ、楠田はハッとして俺から先輩へ視線を移した。
「す、済みません。つい……」
「幾ら親しくても、上級生の部屋に入る時は気をつけろよ。問題が起きてからじゃ遅いからな?」
何時もは下級生とも平気でふざけ合っている真藤先輩だったが、今日は容赦が無かった。
だが、多分それは、楠田の為にも厳しくしたのだろうと思う。中には煩い先輩も居るし、寮で生活する上で、上級生への礼儀は欠いてはいけないものだった。
それを、下級生はきちんと覚えておかないとトラブルに巻き込まれかねない。
「はい。済みませんでした」
先輩の言いたいことは楠田もすぐに察したらしく、素直に頭を下げた。
「俺はユキを探してから行くから、先に行ってくれ」
真藤先輩がそう言うと、楠田はまた素直に頷いて部屋を出て行った。
「先輩、俺も行きます」
俺が立ち上がると、先輩も頷きながら立ち上がった。
「楠田にまた何かされたら、俺に言えよ?一人で我慢するんじゃない。いいな?」
「大丈夫ですよ。楠田だってそんなに馬鹿じゃないです。もう、何もしてきませんよ」
「ああ…、そうだな」
ドアまでついて来てくれた先輩をもう一度振り返り、俺は彼を見上げた。
「コーヒー、ご馳走様でした。……あの…」
口篭ると、先輩は俺が何を言いたかったのか分かったらしく、笑みを浮かべて頷いた。
「ユキのことなら心配するな。俺がちゃんと探して連れて行くから」
「…はい。済みません」
深く頭を下げ、俺はもう一度先輩を見ると部屋を後にした。
俺が行ってもどうしようもない。小金井先輩はきっと俺の顔なんか見たくないだろう。だからこそ、食堂へ来てくれなかったのだ。
もう、俺を傍に置くのも嫌になったのかも知れない。そう思えて悲しくなった。
部屋に戻ると、もう行ってしまったとばかり思っていた慶が、まだベッドの上に座っていた。
「な、なんだ、まだ居たの?友井先輩と、もう行ったんだと思ってた」
俺がハンガーから上着を取りながら言うと、慶は立ち上がって俺に近付いて来た。
「食堂から戻ったら、千冬の鞄がまだあったから気になって。いつもなら、先に出てるのにどうしたのかと……」
「べ、別に、どうもしないよ。ただちょっと、真藤先輩と話してたから……」
言いながら俺は上着を着て、机の上から鞄を取った。
「もう行く。遅くなっちゃった」
鞄を背負って俺がドアへ向かおうとすると、慶が腕を掴んだ。
「待てよ。俺も一緒に行くから」
「え?だ、だって……」
「尚也さんなら、今朝は先に行ってもらった。俺が一緒だと小金井先輩が怒るかな?」
「う、ううん。今朝は俺も一人だから」
俺が答えると、慶は僅かに口を綻ばせながら頷いた。
「そうか、じゃあ問題ないな。一緒に行こう」
「う、うん…」
俺は久し振りに慶と連れ立って学校へ向かうことになった。
それにしても、俺のことを気にして、友井先輩を先に行かせて待っていてくれるなんて思いもしなかった。
本当に、慶は俺のことを気遣ってくれる。
痛いほど……。
妹の代わりに、俺を守ってくれるつもりなのだろうか。
そっと隣を見上げると、その視線に気付き、慶が俺の方を向いた。
「うん?」
訊かれて、俺はすぐに首を振った。
「ううん。何でも……」
「今朝のことか?」
「え?」
もう一度見ると、慶は苦笑いを浮かべていた。
「想像通り、大変だったよ、今朝は。まさか、千冬たちの他にも見てた奴らが居るなんて思わなかった。不注意だったよ、マジで……」
俺は頷いただけで何も言わなかった。言葉が何も見つからなかったからだ。
「あんな大騒ぎになるなんてな。暫くは面倒な視線に晒されそうだ」
うんざりしたようにそう言い、慶は肩に掛けた鞄を背負い直した。
なんだか、久し振りに並んでみると慶はまた少し背が伸びたような気がした。
緑の桜並木に差し掛かり、入学した時よりも随分濃くなった影を見つめた。
なんだか眩しくて慶を見られない。毎日同じ部屋で暮らしているのに、おかしな気分だった。
「久し振りだな。千冬と並んで学校へ行くのは……」
「ん…、うん……」
頷いたが、俺は慶の方を見なかった。
本当は、こうして並んで歩けることが嬉しかった。
いつも同じ部屋に暮らしていても、こんなに傍に寄る事は珍しい。勿論、昨夜のように抱きしめられることなんて例外だったが、普段も並んで座ることさえ殆ど無かったのだ。
慶は相変わらず、普段は余り喋らない。
俺も用が無ければ話し掛けないし、一日中一緒に居ても、ひと言二言の会話だけで終わることも珍しくなかった。
こんな関係でしかないのに、何故、慶は俺のことを気遣ってくれるのだろうか。
やはり、俺に同情しているからだろうか。
それとも、やはり妹の代わりなのだろうか。
「戸田?」
「うん?」
「妹さんと、連絡取り合ってるのか?」
「ああ…」
妹の話になると、途端に慶の顔が穏やかになった。本当に、妹を大事に思っているのだ。
「一応、毎日メールしてる。忘れると怒られるからな」
「電話はして上げないの?」
「…ああ。声聞くと、会いたくなるからいいって言うんだ」
「そう。本当に仲がいいんだな。俺、兄弟が居ないから分からないけど、皆そうなのかな?兄弟って…」
俺の言葉に慶は首を傾げながらフッと笑った。
「いや、どうかな?俺たちはちょっと事情があって……。だから、普通の兄弟よりも親密かもしれないな」
そう言えば、妹さんは身体が弱くて家に居るより病院に居る方が多いと言っていた。そんな事情があるから、慶は余計に妹を大事にしているのだろう。
「戸田は、いいお兄さんなんだろうな」
俺がそう言うと慶は苦笑いをした。
「どうかな?妹にすれば、面倒臭い兄貴だと思ってるんじゃないか?朝は起きないし、だらしないし……」
「そんなこと無いよ。……優しいし、いいお兄さんだと思ってるよ、きっと」
慶は笑っただけで答えなかった。
「千冬は?」
訊かれて、俺は何のことか分からずに慶を見上げた。
「少しは気持ち…、楽になったか?」
訊いてきたのは正孝さんのことだった。
やはり慶は、俺の失恋をずっと気にしてくれていたらしい。
「ん……」
俺は頷くと、前を向いた。
「もう、大丈夫。吹っ切れたから」
それは、正孝さんのことを言った訳ではなかった。
自分に言い聞かせるように、俺は慶のことを想って言った。
「そうか。なら、良かったけど…」
「うん。もう、……もう、大丈夫だよ」
前を向いたままそう答え、俺はもう一度胸の中で、自分に向かって“大丈夫”と言った。