涙の後で


-4-

もう、どうしていいのか分からなかった。
何処へ行けばいいのかも分からなかった。
誰とも話せない。
誰にも分かってもらえない。

そんな思いで、いっぱいになっていた。
大きく溜め息をつくと、俺は鞄を抱いたまま、膝の上に顔を伏せた。
閉館になるまで、ここにいようと思った。
でも、きっと部屋へ帰れば、また慶に気を遣われてしまうに違いない。そう思うと気が重かった。
何故、もっと上手く切り抜けることが出来ないのだろうか。
あんな風に、いかにも友井先輩が居たことに対してうろたえているように見えたら、慶にも先輩にも嫌な思いをさせるに決まっている。
何故、もっと自然に振舞うことが出来ないのだろう。二人になんか無関心だと思わせることが出来ないのだろう。
すぐにばれる嘘で、取り繕うことしか出来ない不甲斐ない自分が、俺は嫌で堪らなかった。
(もっと、強くなれたらいいのに…)
そう思って、また溜め息が出た。
もう決して、心配掛けたり同情されたりしないと決めた筈だった。
平気な顔をして、慶の居る部屋に帰らなければと思った。
ここで気持ちを落ち着かせて、今日見たことは全部忘れてしまおうと思った。
小金井先輩たちの事だって、良く考えれば俺がショックを受けることなんか無いのだ。
初めから、先輩は俺のことが好きだった訳じゃない。それを、俺はちゃんと知っていた筈だ。
真藤先輩だって、後輩だから俺のことを気に掛けてくれただけで、思えば最初から小金井先輩の気持ちを気遣っていた。
最初から、本当に心配していたのは俺のことではなく、小金井先輩の方だったのだ。
「思い上がってたんだな…、俺……」
先輩たちにチヤホヤされて、いい気になっていたのかも知れない。
誰かにとって大事な存在になるのが、そんなに簡単なことじゃないくらい分かっていた筈だった。
だが、分かってはいても、言いようの無い孤独感が俺を苛んでいた。
(馬鹿だな。独りなのは当たり前なのに……)
そう思って自分を笑うと、俺は目を閉じた。
独りになる為に、母と正孝さんから逃げる為にこの学校へ来たのだ。だから、独りが寂しいなんて思ってはいけない筈だった。
自分から望んでそうしたのだ。
後悔なんかしてはいけない。
「これでいいんだ……」
そう呟いた時、微かな足音に俺は目を開けた。
「千冬…」
呼ばれて顔を上げると、そこには真藤先輩が立っていた。
思わず身体が硬くなり、先輩を見上げる顔が強張るのが分かった。
「さっき、ここに入って行くのが見えたから。……気分でも悪いのか?」
心配そうに言って近付いてくる先輩に、俺は慌てて首を振った。
「い、いいえ…ッ」
立ち上がると、急いで鞄を背負い、俺は先輩に頭を下げて通り過ぎようとした。
「千冬ッ…、どうした?」
腕を掴まれて、強張った顔のまま先輩を見上げる。
先輩は険しい眼をして俺を見下ろしていた。
小金井先輩とはもう別れたらしく、先輩は独りだった。
でも、俺はもう以前のように真藤先輩と接することが出来なくなっていた。
「な、何でもありませんっ。少し疲れて…。ただ、それだけです…」
段々と声が小さくなり、最後は聞き取れなかったかも知れない。でも、先輩は俺の言葉を最初から信じてはいなかった。
「なんで、そんな顔する?なんで、そんなに怯えたような眼で俺を見るんだ?」
「べ、別に、俺っ……」
何でもないと首を振って見せたが、先輩が俺の腕を掴む力が急に増した。
そして、もう一方の手が抱きすくめるようにして俺の身体を捕まえた。
「見たんだな……?さっき…」
訊かれて、咄嗟に首を振った。
他人に知られてはいけないことなのだと、俺は先輩の表情から察したのだ。
「な、何のことです?お、俺、何にも……」
だが、嘘をつくのが苦手な俺に、上手く誤魔化せる訳が無かった。
先輩は俺の言葉を全く信じていなかった。
そして、疲れたように目を瞑ると深い溜め息を漏らした。
「いいんだ。嘘つかなくていい。……そうか、見たんだ…」
「ご、ごめんなさいッ」
先輩の上着の袖を両手で掴み、俺は彼を見上げた。
「ただ…、ただ俺、小金井先輩のことが気になって…、先輩と一緒に帰ったって部長に聞いたから、もしかして、あそこにいるんじゃないかとそう思って…。み、見るつもりなんか無かったんです。ほんとに、ほんとに…俺ッ」
言いながら、涙が溢れるのが分かった。
あの時のショックが、そして、さっきまで感じていた孤独感が一挙に俺の中に蘇っていた。
こうして、温かい腕で抱きしめてくれていても、先輩はきっと俺のことを厄介な奴だと思っているのだろう。
先輩に抱いていた親密感は、もう跡形も無く消えようとしていた。
「千冬…」
名前を呼び、俺を抱いていた腕を離すと、先輩は両手で俺の頬を包み、そして涙を拭き取ってくれた。
「ごめんな?おまえのこと、傷つけちまったな?ホントに、ごめん、千冬……」
震える声でそう言い、先輩は何度も優しく俺の頬から涙を拭った。
先輩にまた優しくされたことで、我慢していた寂しさが一気に込み上げ、俺は思わず先輩にしがみついていた。
「先輩ッ。俺…、俺っ…。嫌ですッ。独りにしないでッ……」
言うつもりの無かった、心の中に澱のように溜まっていた言葉が、込み上がってきた感情と共に口から飛び出していた。
誰からも必要とされていないと思えることが辛かった。
居なくなっても、誰も困らない。誰も気付かない。
自分が そんな存在に思えて、辛くて堪らなかった。
だから、見つけてくれた真藤先輩の胸にしがみついたのだ。
「千冬……」
俺の言葉と様子から何かを感じたのか、先輩は俺の頭の天辺に唇を押し付けるとギュッと強く抱きしめてくれた。


奥の本棚の影に並んで座り、真藤先輩は俺の手をずっと握っていた。
それはまるで、二人で映画を見に行った時のようだった。
そして、一人ぼっちだと感じていた俺を、先輩のその手が励ましてくれるようだった。
「こんなこと、説明するつもりは無かったんだ…。千冬が知らずに済めば、その方がいいと思ってた」
話し始めた先輩を見ることも無く、俺はただ、黙って耳を傾けた。
本当は、俺が聞いてはいけない事なのだと分かっていた。でも、知らずには居られない。
もう、このまま蚊帳の外に置かれるのは嫌だった。
どんなに辛いことでも、俺は知りたかったのだ。
「最初に言っておくけど、俺とユキに恋愛感情は無い。今日みたいなことは初めてじゃないが、でも、ユキはあれで気持ちのいい思いはしていない筈だ。……そうなるれるほど、ユキは慣れていないし、それに…、俺を好きじゃないからな」
そう言って、真藤先輩は苦笑気味に笑った。
恋愛感情が無いのに、何故あんなことをするのか俺には良く分からなかった。
でも、確かに普通の恋愛とは違う何かを先輩たちからは感じたのだ。
小金井先輩は何かを耐えているように見えた。
それが、肉体的な苦痛なのか精神的な苦痛なのかは俺には分からなかった。でも、快感を得ているようには見えなかったのは確かだった。
「だったら、何であんなことするのかって思うだろ?……ユキは真面目だから、普通なら好きでもない男とセックスしたりしない。けど、ユキにはそうしなけりゃ耐えられない事情があるんだ」
悲しげにそう言った先輩の言葉に俺は頷いた。
「友井先輩ですね?」
「ああ…」
頷いた後で、先輩はもう一方の手を伸ばし俺の髪を撫でた。
「けどな千冬、ユキは本当に尚也を諦めようとしてた。そして、好きでもないのに誰かと付き合おうなんて考える奴じゃない。だから今まで、どんなに告られても、ユキは誰とも付き合わなかったんだ」
「え…?」
驚いて、俺は聞き返した。
それなら、俺と付き合いたいと言ってくれたのは、本当に俺を好きになってくれたからなのだろうか。
でも、それを素直に信じろと言われても、今の俺には無理な話だった。
「だから、ユキがおまえに声掛けたのを知って、俺は正直驚いた。ユキの方から誰かに告るなんて信じられなかったんだ。邪魔するようなことしたのも、確かめたい意味もあった。もし、ユキが自棄になって千冬に告ったんなら、おまえが傷つくのは目に見えてる。俺だってマジで千冬のこと気に入ってたんだからな。そんな可哀想な目には合わせたくなかったさ」
「先輩……」
先輩はまた俺を撫でると、手を下ろしてじっと見つめた。
「けど、ユキはマジだった。それは、傍で見ていた俺が一番良く分かってるんだ。……でもな、ユキだってそう簡単に尚也のことを忘れられないんだよ。何しろ、ユキは中学から尚也のことが好きで、この高校まで追いかけて来たくらいなんだから」
「えっ?」
驚いて俺は目を見張った。
まさか、そんなに前から小金井先輩が友井先輩に恋をしていたなんて思いもしなかった。好きになったのはきっと、この学校へ入ってからなのだろうと何処かで思い込んでいたからだ。
「でも、ユキがどんなに想っても、尚也は振り向かなかった。……まあ、仕方ないよな。好かれたからって好きになる訳じゃない。みんなから見れば、モテモテのユキでも、尚也の心は射止められなかったんだ」
「そう……、だったんですか…」
言いながら、何かを耐えようとしていたあの小金井先輩の顔が俺の中で蘇った。
あれは、自分の中に在る決して叶わない恋に身を焦がす、その押し潰されそうな痛みに耐えようとしていたのかも知れない。
そして、その気持ちは、誰よりもきっと俺自身が分かることなのだ。
「千冬、ユキを恨まないでやってくれ。ユキにはおまえを傷つける気持ちなんか無かった。今だってきっと、おまえとちゃんと向き合おうとしてる筈だ。ただ…、尚也が誰かとキスしたなんて聞くと、どうにも押さえられないんだよ。分かってやって欲しい」
さっき、真藤先輩は言った。小金井先輩に対する想いは恋愛感情ではないと。
だが、だとしたら何故こんなにも彼のことを理解しているのだろうか。そして、庇ってやろうとするのだろうか。
ただの友情だとはとても思えないこの感情を、先輩は一体、なんと呼ぶつもりなのだろうか。
「俺はこのまま小金井先輩と付き合っていてもいいんでしょうか?…ううん。先輩は?真藤先輩は、本当にそれでいいんですか?」
俺の言葉に、真藤先輩は酷く困惑気な表情を見せた。