涙の後で


-6-

「どういう……意味?」
恐る恐る俺が訊くと、楠田の笑みがもっと広がった。
「訊いてるの、こっちじゃん?高梁君が真藤先輩とこそこそ会ってること、小金井先輩は知ってるのかって、そう言ってるんだよ」
「こそこそ会ってなんか無いよッ。言ったろ?今朝、小金井先輩が来なかったから、どうしたのかと思って部屋へ行ってみただけだよ。そしたら、真藤先輩がコーヒーを淹れてくれたから……」
俺は思わず立ち上がって声を荒げた。
確かに、また先輩に慰められてしがみついてしまったのは良くなかったかも知れない。でも、俺にも真藤先輩にもその行為に疚しい気持ちなんか無かった。
「そんなのさぁー、誰が信じると思う?」
馬鹿にしたようにそう言い、楠田は下から俺をねめつけた。
「付き合ってる先輩がいながら、他の先輩と個室で抱き合ったりしてさ、なんでもありません、なんて、誰が信じる?そんな虫のいい話ってあるかなぁ?本当は、真藤先輩が独りで部屋に居るのを分かってて行ったんじゃないの?」
楠田はそう言って口元を歪めた。
「そんなッ。違うよっ。俺は本当に……」
説明しようとすると、それを遮るようにして楠田が俺の肩に手を置いた。
「いいって、いいって。俺に言い訳しなくたってさ。どうせ、俺には関係ないし、言い訳なら小金井先輩にしなよ」
「なっ…」
ニヤニヤ笑った楠田の顔を見て俺は絶句した。
まさか、小金井先輩に今朝見たことを言ってしまったのだろうか。
だとしたら、今頃、小金井先輩と真藤先輩は…。
青くなって、俺は楠田を押し退けると部屋を飛び出した。
俺の所為で二人の間に何かあったらと思うと、居ても立ってもいられなかった。
(先輩ッ…)
必死で走り、俺は先輩たちの部屋まで行った。丁度、夕食の時間だったので廊下で擦れ違う相手も少なかった。
焦っていたので、相手が上級生なのか同学年なのか分からなかったし、俺は出会った全員に一応、頭を下げながら走った。
中には驚いて振り返っている生徒も居たが、俺はそれどころではなかった。
楠田が今朝のことを小金井先輩に言いつけたのだとしたら、絶対にただで済む筈がない。
俺のことはどうでもいいが、もし、真藤先輩が責められていたりしたらと思うと、どうしていいか分からなかった。
先輩たちの部屋に辿り着くと、俺はすぐにドアをノックした。
すると、中から返事があって、小金井先輩がドアを開けた。
「高梁…」
「せ、先輩…ッ」
驚いたらしく、先輩は目を見張って息を切らす俺を見た。
「どうした?なにかあったのか?」
その言葉を聞いて、俺はホッとすると同時に力が抜けた。
先輩の表情に怒りはない。そして、俺に訊いた言葉からも先輩が何も知らないと分かったのだ。
安心すると同時に膝から力が抜け、俺は思わずその場にへたるように座り込んでしまった。
「た、高梁ッ。大丈夫か?」
慌てた様子で小金井先輩がすぐに手を伸ばして俺を支えてくれた。
「す、済みません…」
どうやら、せめてもの腹癒せに俺を慌てさせようとして、楠田は思わせ振りなことを言っただけだったらしい。
楠田にも良心があったらしいと知り、俺は安堵の息を吐いた。
「どうかしたのか?なにか、問題でも起きたのか?」
先輩に訊かれ、俺は手を借りて立ち上がりながら首を振った。
「いいえ。ただ…、先輩が今朝も来なかったし、何かあったのかと思って」
仕方なく嘘をつき、俺は答えた。
すると、小金井先輩は苦笑いしながら僅かに頷いた。
「ああ、悪い。ちょっとな……。連絡もしなくて悪かったな?心配してくれたのか?」
「い、いえ。何も無いならいいんです。済みません、お邪魔しましたッ」
「あっ、おいッ、高梁ッ…」
後ろから呼び止められたが、俺は足を止めずにまた走り出した。
これ以上何か訊かれたら、言葉に詰まってしまうに違いない。それに、また嘘をつかなければならなくなったら嫌だった。
階段を下りようとした時、丁度、上がって来た真藤先輩に出会った。
「千冬、どうした?」
また訊かれて、俺はつい笑みを浮かべた。
「いえ…」
「ユキとなにか…?」
心配そうな顔になった先輩に俺は首を振った。
「いいえ。俺の早とちりでした。大丈夫です」
「うん?」
「いえ…。あ、食事済んだんですか?そう言えば、小金井先輩は食べたのかな…」
今になって思い出し、俺は後ろを振り返った。
「ああ、ユキならもう食ったんじゃないか。俺が食堂へ行ったら、もう出てくるところだったし」
「あ、そうなんだ」
それなら、慶たちとは一緒にならなかっただろう。何時も俺と会う時間とは違っていたが、先輩も二人を避けて時間をずらしたのかも知れなかった。
「千冬は?食べたのか?」
訊かれて、俺は思わず頷いた。
「あ、はい。食べました。…あ、それじゃ先輩、また…」
頭を下げて帰ろうとすると、先輩は“おやすみ”と言って行き過ぎようとした。だが、フッと足を止めるとまた俺に近付いて来た。
「千冬…、ユキの様子、どうだった?」
心配そうな真藤先輩の目を見て、俺は何故か少し寂しい気分になった。
「……いつもと変わりませんでした。ちょっとしか話さなかったけど、小金井先輩はいつも通りの先輩でした」
俺が答えると、真藤先輩は笑みを浮かべながら頷いた。
「そうか…」
「俺も……」
「え?」
訊き返した先輩に、俺も笑みを浮かべて答えた。
「俺も、明日からも今まで通りに接します。何も知らなかったことにします」
「千冬…」
先輩は一瞬俺の目を見つめると、すぐにまた笑みを浮かべた。
「そうか。…うん、分かったよ」
そう言った先輩に“おやすみ”を言うと、俺は階段を下りて渡り廊下へ向かった。
廊下の向こうに他の部屋の生徒と立ち話をしている楠田の姿が見えた。
俺が傍へ行くと、視線を寄越してニヤニヤ笑った。
俺は、その視線を見返したが何も言わなかった。
からかわれたことに腹は立ったが、それでも楠田は小金井先輩に今朝のことを言いつけたりしなかった。多分、この様子を見ると、これからも言うつもりはないのだろう。
だったら、もう気にする必要はないと思ったのだ。
心配なのは、先輩たちが傷つけられることだ。
そうじゃないなら、俺が馬鹿にされることなんか大したことじゃない。
楠田たちの前を黙って通り過ぎると、俺は部屋に向かって歩いて行った。
途中、食堂の前を通ったが中には入らなかった。
部屋に戻ると、慶はまだ戻っていなかった。
もう食堂が混み合うピークは過ぎているし、きっと、友井先輩とゆっくり話しでもしているのだろう。
俺は慶が戻らない内にと思って、制服を脱ぐとシャワーを浴びる準備をした。
普段は湯船にお湯を溜めてゆっくり浸かるのだが、今日はそれも面倒になってしまったのだ。
身体と髪を洗ってバスルームから出ると、慶は戻っていて、ベッドの上に足を投げ出して本を読んでいた。
声を掛けるべきかどうか迷ったが、俺が部屋に入っても慶は目を上げようとはしなかったので、俺は黙って髪を拭きながらベッドへ腰を下ろした。
そして、自分の机の上に載っている物に気づいた。
ハッとして立ち上がり、俺はそれを手に取った。
慶を見ると、まだ本から目を上げようとはしなかった。
「と、戸田……」
俺が声を掛けると、慶は本に視線を落としたままで答えた。
「待ってたけど来なかったから。食ってないんだろ?もう、おばちゃんたち、帰っちゃったぜ」
その言葉を聞き、俺は自分の手の中のものに視線を落とした。
それは、サンドイッチとプリンだった。

もう、お節介なことはしない。

さっき、確かにそう言われた筈だった。
そして、そう言わせようとして自分が仕向けたくせに、その言葉に傷ついていた。
でも慶は、またこうして俺に優しくしてくれる。
素直に嬉しくて、俺は胸が熱くなった。
すぐに言葉が出なくて俺が黙っていると、慶はやっと顔を上げて俺を見た。
「食いたくなきゃ、棄てればいい。けど、少しは何か食った方がいいぞ」
「……あり…がと…」
「お節介なことはしないとか言ったけど、やっぱり気になる。俺は別に、千冬を守ってやろうなんて、おこがましいことを思ってる訳じゃない。ただ…、普通に千冬のことが気になるだけなんだ」
それは、ルームメイトとして、そして友達として、慶は俺を見てくれているという意味だろう。その気持ちは、本当に嬉しかったのだ。
「うん。さっきはごめん、ちょっと疲れちゃってて…、酷い言い方した。ホントにごめん」
「いや…。俺の方こそ悪かった」
そう言って、慶は笑みを見せてくれた。
俺も何とか唇に笑みを貼り付けると、自分の机に戻って椅子に腰を下ろした。

プリン。

あの時、慶に奢ってもらった後、俺は1度も学食ではプリンを食べなかった。
食べたいと思ったこともあったが、何故か買う気にはならなかった。
多分それは、学食のプリンが慶に繋がるからだろう。
久し振りのプリンを手に取り、俺はセロファンを剥がしてプラスティックのスプーンを取り出すと、柔らかいその中へスプーンを差し込んだ。
「美味し……」
手作りのプリンはほんのりとバニラの香りがして、卵とミルクだけの素朴な味がした。
慶を見ると、もう本に集中しているらしく視線を上げることはなかった。
サンドイッチだけではなく、プリンも買ってきてくれたことが、何だかとても嬉しかった。
それは、俺がプリンを喜んで食べたことを覚えていてくれたのだと分かったからだ。
こんな些細なことでも、泣きたいほどに嬉しい。
幾ら頑張って諦めようとしても、俺の中に在る慶を想う心は消えそうになかった。