涙の後で
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翌朝、俺は何時もと同じ時間に部屋を出て食堂へ向かった。
食堂へ着くと、もう小金井先輩は来ていて窓際の席で俺に手を振ってくれた。
「おはようございます」
食事の載ったトレイを持って、俺は先輩の前に腰を下ろした。
「おはよう。昨日は悪かったな?」
「いいえ。俺の方こそ、馬鹿みたいに騒いじゃって済みませんでした」
「いや…。心配してくれて嬉しかったよ。ありがとう」
そう言って笑った先輩は、あの茂みの中で見せた苦しげな様子など微塵も感じさせなかった。
あんな暗い行為をしていた人と同じだとはとても思えない、穏やかで明るい表情だった。
心の中に嵐を押し込めたまま、こうして笑っている。俺とはまるで違って、先輩はとても強い人だと思った。
「そうだ、高梁。土曜日、町へ降りないか?早目に出て隣町まで行こうよ。買い物に付き合ってくれ」
「あ、はい。いいですよ。楽しみにしてます」
隣町へはまだ行ったことがなかった。この下の町よりずっと大きくて、色んな店が沢山あるらしい。大きなデパートや遊戯施設もあるらしく、寮生たちも週末になると大勢繰り出していくのだ。
ただ、隣町と呼んではいるが、本当は電車で3駅ほど離れているので、下の町へ遊びに行くよりは早目に出なければならない。
それでなくても、下の町へ降りる為のバスは1時間に1本程度しか走っていないのだ。そこからまた電車に乗って出掛けるとなると、ちょっとしたイベントだった。
久し振りに繁華街らしい場所へ行けると思うと、俺も少し心が弾んだ。
母から仕送りしてもらったばかりだったし、下の町には売っていない物や、夏物の服も少し買いたかった。
先輩と町の話をしながら楽しく食事を終えると、昨日までの落ち込んだ気分も少しは楽になったような気がした。
また後で、登校の時に会おうと約束して食堂の前で先輩と別れると、俺はいつも通り一旦部屋へ戻った。
途中で楠田の部屋の前を通った時、丁度出て来た彼と会った。
「おはよ」
ニッと笑って楠田が言うのに頷き、俺も“おはよう”と返した。
「昨日はからかってごめんね?安心してよ。俺、あの事は小金井先輩にチクったりしないから」
ニヤニヤしながらそう言われ、俺は立ち止まって彼を振り返った。
「ありがとう。そうしてくれるなら嬉しいよ。先輩に余計な心配させたくないから」
俺が答えると楠田は笑みを引っ込めて、軽く首を傾げた。
「マジでこのまま小金井先輩と付き合うつもり?それで、いいの?高梁君は…」
楠田は皮肉で言った訳ではなかった。多分、俺と真藤先輩が好き合っているのだと思ったのだろう。
「いいも何も…。楠田君は誤解してるんだと思うけど、俺と真藤先輩は本当になんでもないんだ。…ただ、あの時は先輩が俺を慰めようとしてくれただけだから」
「ふぅん…」
少々納得しかねるといった表情だったが、それでも楠田は頷いた。
「まあ、いいや。俺、2年の伊藤先輩と付き合うことにしたんだ。昨日、先輩から告られてさー」
「え…?」
伊藤先輩とはサッカー部のストライカーで人気のあるカッコいい人だった。だが、楠田は真藤先輩を狙っていた筈だった。
俺が驚くと、楠田は軽く肩を竦めた。
「真藤先輩は脈無さそうだし、それに、伊藤先輩は凄くカッコいいしさー。俺、伊藤先輩も候補に入れてたから丁度良かったよ」
また、ニッと笑って楠田はそう言った。
流石に抜け目無いと言うか、切り替えが早いと言うか、俺にはとても楠田の真似は出来ない。
「そうなんだ。良かったな、カッコいい彼氏が出来て」
お世辞も含めて俺がそう言うと、楠田はまたニッと笑った。
部屋に戻ると、丁度慶が食堂へ行く所だった。
俺は彼と入れ替わりに部屋に入り、ジャケットを着るとバスルームに入って鏡の前で身だしなみをチェックした。
ネクタイの歪みを直し、戻って鞄を背負うと部屋を出た。
小金井先輩はA寮の前で俺を待っていてくれた。
すぐに駆け寄って、俺は先輩と並んで歩き始めた。
「そう言えば、何か新しい写真、撮ったか?」
訊かれて、俺は坂上と約束したことを話した。
すると、先輩は興味を持ったらしく、しきりに頷きながら俺の話を聞いていた。
「柔道部の稽古か…。いいなぁ、俺も撮りたいな。なあ、高梁。俺も一緒に道場へ入れてもらえるように訊いておいてくれないか?」
「あ、はい。いいですよ。今日の放課後にでも顧問の先生に頼みに行こうと思ってたんで」
「そうか。なら、頼むな?」
「はい、分かりました」
そう言って俺は先輩を見て笑った。
心中は分からなかったが、それでも今の先輩は楽しそうに見える。偽りなのかも知れないが、俺に向かって笑ってくれる。
だから俺も、精一杯、先輩に笑顔を見せようと思った。
「坂上はまだ足が治ってないと思うんで、本格的な稽古はまだ出来ないかも知れないんですけど。でも部活には出てるみたいだから、許可が下りたら今日から道場へ行くつもりです」
「そうか。じゃあ、許可が下りたら俺にも声掛けてくれるか?……あ、いや、どうせなら、俺も一緒に職員室へ行くよ。放課後、教室へ迎えに行くから待っててくれないか?」
「え?あ、はい。分かりました」
約束すると、俺は昇降口で先輩と別れた。
振り返ると、先輩も振り向いた。
偶然だと分かっているが、何だか妙に嬉しい気持ちがした。
土曜日の朝、俺は小金井先輩との約束があったので、休みでもいつも通りの時間に起きた。
当然、寝坊な慶はまだ夢の中だった。
今日は友井先輩からのモーニングコールも休みだし、出かける時に俺が起こしてやらなければならないかも知れない。そうじゃないと、慶は朝食を食べ損なうことになるだろう。
身支度をして部屋を出ると、俺は朝食をとる為に食堂へ出かけた。
休みの日は遅めの時間帯に来る生徒が多く、この時間はまだ空いている。小金井先輩も今日はまだ来ていなかった。
だが、坂上の姿が窓際に見え、俺は朝食を載せてもらったトレイを持つと彼のテーブルへ向かった。
「おはよう。今日は実家の方に帰るんだよね?」
坂上は週末になると必ず実家に戻り、前から通っている道場の稽古に出る。金曜日の夜の内に行ってしまう事も多かったが、今回はまだ寮に残っていたらしい。
だが、俺が訊くと、坂上は首を振った。
「いや、今回は戻っても怪我の所為で思うように稽古出来ないし、帰らないことにしたんだ。だから、部活の稽古の方に行く予定」
「あ、そっか」
言いながら俺は、まだサポーターに包まれている彼の足を見た。
ここ数日、稽古を見せてもらいながら写真を撮らせてもらっていたが、坂上は足に負担を掛けない様な稽古しかしていなかった。
「高梁は?出かけるのか?」
訊かれて、俺は少し躊躇ったが頷いた。
「うん。先輩が隣町へ連れてってくれるって言うから」
俺は敢えて“小金井先輩”とは言わなかった。だが、誰の事を指しているのか坂上が気付かない訳がなかった。
「そうか…。いいな、楽しんで来なよ」
にっこりと笑ってそう言われ、俺はまた頷いた。
「なあ、高梁…」
「うん?」
躊躇いがちに切り出してきた坂上に、俺は箸を止めて彼を見た。
「明日さ、部活…午後から休みなんだ。俺ってほら、週末は何時も家に帰ってたから、下の町も通り過ぎるだけで殆ど歩いたことないし、その…、もし暇だったら、一緒に行かないかなって。…あ、いや、もしその、もう誰かと約束してるんならいいんだぜ。でももし、暇だったら、どうかなって…」
ほんの少しだが頬を染めて、坂上は俺の方を見ないようにしてそう言った。
そんな様子を見ると、胸が痛む。
ずっと友達だと言ってはくれても、やはり、まだ俺のことを好いていてくれるのだろう。その気持ちに応えられないことが、彼に好意を持っているだけに辛かったのだ。
「うん、いいよ。日曜日は予定無いから…。映画でも見ようか?」
俺が答えると、坂上の顔がパァッと明るくなるのが分かった。
「ほ、ほんと?う、うん、うん。いいね。じゃ、映画見ようか」
嬉しそうに言う坂上を見て、俺はまた胸が痛んだ。
一緒に出かけるくらいで、こんなにも喜んでくれる。本当だったら、友達同士としてではなく出掛けられたらいいのだろう。坂上の望むように、恋人としてデート出来たなら、きっともっともっと喜んでもらえるのだ。
(ごめん、坂上……)
こんな俺でいいのなら、許されるのなら、坂上のものになってもいい。誰でも、望んでくれるなら、その人のものになってもいいと、この時の俺は本気でそう思えた。
それ程、俺は自分が嫌いになっていた。
自分でさえ好きになれない自分を好いてくれる人なら、その人の為に自分を棄てることなど何でもないことのように思えた。
「じゃあ、今夜メールするよ」
笑顔でそう言ってから、坂上は急に顔を曇らせた。
「あ、でも…、他の男と出掛けたりして、小金井先輩に怒られたりしないかな?」
“他の男”という言葉を聞いて、俺は急に恥ずかしくなった。
カーッと顔に血が上る。
女の子に対してしか使わない筈のそんな言葉を、自分が言われる立場なのだと改めて思うと居たたまれない気分だった。
「へ、平気だよ。先輩はそんな心の狭い人じゃないから」
「そ、そうだよな。小金井先輩はそんな小さい事言う人じゃないよな、うん…」
本当は以前、付き合うと決めた時に、小金井先輩はもう真藤先輩と出掛けないでくれと言った事があった。でも、それは真藤先輩を警戒して言ったことだろうし、友達と出掛ける事まで気にする人ではないと思う。
「じゃあ俺、もう行くよ。また今夜…」
「うん、気をつけてな」
坂上に見送られて食堂を出ると、俺は一旦部屋へ帰った。
もう1度歯を磨いて身支度を整えると、俺はまだぐっすり眠っている慶に近付いた。
普段はクールで大人びて見える慶も、眠っている姿は少しだけ幼く見えた。
「慶…」
ぐっすりと眠っているのを承知で、俺は小声でわざとそう呼んだ。
名前で呼んでいいと言われたが、俺は意地になったように慶の名前を呼ばなかった。
慶はあれからずっと俺を“千冬”と名前で呼んでくれている。
でも、俺はまるで、慶を名前で呼ぶことが罪のように感じてしまったのだ。
他の誰がそう呼んでも、俺だけは呼んではいけないように思えていたのだ。
膝を突いて慶の寝顔に視線を合わせ、俺はもう一度だけそっと慶の名を呼んだ。
「慶…」
枕の下に入り込んでいる片腕に、俺はそっと指を伸ばした。
半袖のTシャツから伸びている肌に僅かに触れる。
暖かくて、そして、そう感じただけで何故か涙が出た。
すぐに手を引っ込めると、立ち上がって涙を拭った。
気持ちを落ち着かせて、もう1度手を伸ばすと、今度はわざと乱暴に慶の肩を揺すった。