涙の後で


-9-

試験も無事に終わり、来週から夏休みに入る。
前から思っていたことだったが、慶は部屋では碌に勉強したことも無いのにとても成績が良かった。
机に向かっていることが多かったが、そういう時は大抵パソコンに向かって何かしていて、教科書を広げているのは余り見たことが無かった。
パソコンを使って勉強しているようにも見えない。何をしているのか分からなかったが、勉強以外の何かのようだった。
その他は、本を読んでいることが多い。部屋にも沢山の本があったし、持って来た荷物の殆どが蔵書だった。
やはり、読書が好きらしい友井先輩と気が合ったのも、その辺りが大きかったのだろう。良く二人で一緒に図書館にも行っていた。
俺はそこそこ勉強しても、上の下辺りに食い込むのがやっとだった。
寮生の成績表は学校側から家に送られるので、夏休みに家に帰らなくても親は試験の結果を知ることが出来る。また、通知表も同じだった。
成績が届くと、必ず母からメールが届くので今回もきっと何か言って来るだろう。
でも、あれ以来、俺と正孝さんの間にはメールのやり取りは無かったし、電話も、母の携帯に直接掛けているので正孝さんと話すことは無かった。
もう、正孝さんの声を聞いても俺の胸が痛むことは無いのだが、やはり、幾らかの蟠りが邪魔をしていた。
夏休みは家に帰るつもりだったが、俺は母に連絡して寮に残ることにした。
7月中に行われる夏期講習に申し込んでしまったからだったが、もうひとつは折角の夏休みだし母と正孝さんを二人で旅行へ行かせたかったからだ。
二人は俺に遠慮した所為もあって、とうとう新婚旅行へ行かなかったし、仕事の忙しい母も、夏休みも夏期講習で塾を休めない正孝さんも、長期休みとなるとお盆と正月ぐらいしか取れない。
俺が帰れば、きっと二人はまた俺に遠慮して行かないと言うだろう。だから、お盆休みが終わる頃に帰ることにしたのだ。
だが、勿論休みになれば家に帰るだろうと思っていた慶が寮に残ることを知り、俺はそう決めたことを少し後悔した。
「え…?戸田も夏期講習に出るのか?」
成績のいい慶が、まさか夏期講習に申し込んでいるとは思わなかった。だが、俺が驚くと、慶は肩を竦めて言った。
「毎日寮でゴロゴロしてても仕方ないからな。講習の費用なら親父が払うし、出ることにしたんだ」
「じゃ、…じゃ、家に帰らないのか?」
「ああ。帰るつもりだったが、予定が変わった。俺は残るよ」
「……そう」
やっと、慶と暫く離れていられると思っていたのに、俺の思惑はすっかり外れてしまったらしい。それどころか、殆ど人の居なくなるこの広い寮内で、俺はずっと慶と同じ部屋で過ごさなければならないのだ。
「夏休みになったら、ここも静かになるんだろうな…」
窓の外を見ながら慶がそう言った。
「うん…。3年生もここの大学にエスカレーターで行く人たちは余裕だろうし、受験組みは塾の夏期講習に行く人が多いみたいだし、残る人は少ないらしいよ」
この前、小金井先輩から聞いた話を俺は慶に話した。
すると、慶は振り返って少し首を傾げるようにして言った。
「小金井先輩は帰るんだろ?」
「あ、うん。帰るって言ってたよ。真藤先輩は、帰っても誰も居ないから残るみたいだけど…」
「誰も居ないって?」
怪訝そうな顔をして慶が訊いた。彼は真藤先輩の家庭事情を知らないので、意味が分からなかったのだろう。
「真藤先輩のウチはお父さんと二人暮らしなんだ。そのお父さんも、今、海外赴任中で留守なんだって」
「ああ、そうなのか。千冬は夏期講習が終わったら帰るんだろ?」
「い、いや俺は…、お盆が終わってから帰ろうと思って」
「ふうん。じゃ、一緒に遊びに行けるな?」
笑いながらそう言われ、俺は驚いて慶を見た。
「えっ…?遊びに……?」
「ああ。長い休み中、ずっと寮にいるのも辛いし、何処か出掛けよう。隣街まで出れば、遊ぶ所もあるだろ?」
「で、でも…」
俺が返事を躊躇うと、その理由を察したらしく慶は苦笑いをした。
「尚也さんなら、終業式の日に家へ帰る。始業式の前の日まで帰って来ないよ」
「そ、そうなんだ……」
「それに…」
慶は言葉を繋ぐと俺の隣に来て腰を下ろした。
「付き合ってるからって、いつもいつも一緒に行動している訳じゃないし、友達と出掛けるのに一々断ったりもしないよ。尚也さんだって何も言わない」

友達……

改めてそう言われると、何だかおかしな気持ちになった。
慶は俺のことをちゃんと友達と思ってくれているのだ。
「そ、そっか。そうだよね。幾ら付き合ってても、友達は友達だし…」
「ああ」
頷くと、慶は俺の横顔をじっと見つめた。
酷く居心地が悪くなって、俺はもじもじと身体を動かしそうになった。
「千冬と出かけるのは、一緒に買い物に行って以来だな。千冬は何時も、週末は小金井先輩と一緒だったし」
「う、うん…。そうだね。でもほら、普段ずっと同じ部屋だし、その上、休みの日まで一緒じゃ、戸田だって嫌だろ?」
同じ部屋に寝起きしていても、こんなに接近することは滅多にない。だから、俺は慶に近付かれるとどうしていいか分からなくなるのだ。
「俺は嫌じゃないけど……」
少々苦笑気味に笑いながら、慶は言った。
「千冬は、本当は嫌なのか?俺と出掛けたりするの…」
訊かれて、俺はサッと顔を上げて彼を見た。
「ううんッ。そんなことないよ。そんな訳無いじゃん」
慌てて首を振った俺を見て、慶はクスッと笑った。
「ならいいけど。それじゃ、夏期講習が終わったら遊ぼう」
「う、うん…」
俺が返事をすると、慶は頷いて立ち上がり、自分の机に座ってまたパソコンを開いた。
友達として一緒に出かける。
確かにそれは、本当に普通のことだ。
男女の恋人同士だって、お互いに友達とは普通に付き合うだろうし、遊びに行くことも出掛けることもある。
意識する方が間違っていると分かってはいるのだ。
ただ……。
俺が、俺の方が慶を“友達”として見ることが出来ないだけなのだ。
だから意識してしまう。
一緒に出掛けようなんて言われたら、それだけで舞い上がって、ドキドキして、今夜から眠れなくなるかも知れなかった。
夏休みになったら離れられると安心していたのに、慶のひと言で俺の気分は一変してしまった。
離れたいという思いは、もう何処かへ吹き飛ばされてしまった。
そして、一緒に出掛けるのを楽しみにする気持ちで一杯になってしまっていた。
何処へ行こうとか、何をしようとか、考えることはそんなことばかりだった。
何度か先輩と一緒に隣町へ出掛けたことがある俺が、慶を案内しなければとか、どの店へ行って食事をしようとか、まだまだ先のことなのに考えるのを止められなかった。

嬉しい……

嬉しい、嬉しい、嬉しい。
慶に誘われたことが、嬉しくて堪らなかった。
だが、その時、ドアにノックの音がして俺は現実に引き戻された。
慶が返事をすると、ドアを開けて友井先輩が顔を覗かせた。
「尚也さん……」
すぐに立ち上がって、慶がドアの方へ行った。
俺は声を掛けてくれた友井先輩に向かって頭を下げたが、すぐに目を逸らして傍にあった携帯を手に取った。
何を舞い上がっていたのだろう。
先輩の顔を見た途端、俺の熱はサッと引いていった。
デートする訳でもない。慶ははっきりと“友達”と出掛ける、と言ったのだ。
なのに俺は、馬鹿みたいに独りで心を弾ませていた。
慶はドアの外へ出ると、何か先輩と話をしながら行ってしまった。
俺が変に気を遣ってしまうことを気にして、あれ以来、先輩が俺たちの部屋に入ってくることは無かった。
取り残されたような気分になり、俺は携帯とカードを持つと部屋を出た。
何故、何度思い知らされても分からないのだろうか。
何でこんなに、俺は馬鹿なんだろう。
幾ら想ったって、慶は俺を振り向いてなんかくれない。優しくしてくれるのは、友達だと思ってくれているからだ。
自分自身に苛立ち、俺は当てもないまま廊下をずんずん歩いた。
すると、グッと腕を掴まれて、俺は驚いて立ち止まった。
「あっ、真也……」
それは坂上だった。
「何処行くんだ?“ちふ”」
「え?」
訊かれて俺は呆然となって彼を見返した。
「なんか、凄い怖い顔して歩いてたぞ」
「そ、そう?べ、別になんでもないよ。ただちょっと、考え事してて…」
「ふうん…?なら、外でなんか飲まないか?」
「あ、うん。いいよ。俺が奢るし…」
「えー?いいって、俺が奢るよ」
笑いながらそう言い、坂上は俺の腕を掴んだまま食堂に入って行った。
自動販売機で飲み物をふたつ買うと、外へ通じるドアを開けてカフェテリアへ出た。
夜になると幾らか涼しくなるので、冷房の効いた寮を出て外で飲んだり食べたりしている生徒も結構居る。今も、20ぐらいあるテーブルの半分くらいが塞がっていた。
俺たちも隅の方の空いたテーブルを陣取って座った。
「ほら、“ちふ”。氷無しのミルク入り」
アイスコーヒーの入った紙コップを俺の前に置いて坂上は言った。
「ありがと」
結局坂上に奢ってもらい、俺は紙コップを手に取った。
あの日、初めて一緒に出掛けてから、坂上は俺を“ちふ”と呼ぶようになった。そして俺も、彼を“真也”と名前で呼ぶようになった。
俺のことを“千冬”と名前で呼ぶ相手は、真藤先輩と小金井先輩、そして慶だけだったが、坂上はその3人とも別の自分だけの呼び方で呼びたいからと言って、“ちふ”と呼んでくれるようになったのだ。
そして俺は、何だかくすぐったい気持ちもあったが、特別な相手だと思われているような気分になれて、そう呼ばれることが素直に嬉しかった。
実は、下の町へ出かけて映画を見た後、食事をして寮に帰り、俺は誘われて初めて坂上の部屋へ行った。
その時、俺は坂上に抱きしめられたのだ。
ルームメイトは居なくて、部屋には俺たちだけだった。
お互いの中学時代の話などをして、それからお菓子を食べたり、写真を見せてもらったりして帰ろうとした時だった。部屋を出ようとした俺を、坂上がいきなり抱き寄せた。
「ごめんッ。ちょっとだけ。ほんのちょっとでいいんだ……」
上ずった声で坂上はそう言った。
「さ、坂上……」
ギュッと抱きしめられて、俺はそのままただじっとしていた。
坂上の気持ちが、痛いほど伝わる。
切なくて、ただ抱かれていることしか出来なかった。
「ごめん…」
消え入りそうな声で俺が言うと、すぐに坂上は首を振った。
「謝ることなんか無い。俺こそごめんな?約束したくせに…」
切なそうな坂上の声が俺に益々罪悪感を与えた。だが、どうすることも出来ない。俺はこの場から身動きすら出来ないのだ。
「ありがと、真也…」
初めて俺は坂上を名前で呼んだ。
「好きになってくれて、ありがとう…」
俺の言葉に返事は無かった。
その代わり、坂上は更に俺をきつく抱きしめた。