涙の後で
ー第4部ー
なんだか、訳が分からないまま、先輩に達かされていた。
そして、呆然とする俺の身体を綺麗にしてくれると、先輩は服まできちんと着せてくれた。
ネクタイを締めてくれた先輩を、チラリと目を上げて見ると俺は言った。
「ご、ごめんなさい……」
すると、恥ずかしさで顔を上げられなくなっていた俺を先輩はギュッと抱きしめた。
「なんで?俺こそごめん…。急にこんなことして、吃驚したろ?」
言いながら先輩は俺の背中をゆっくりと撫でた。
「けど…、暫く会えないんだと思ったら堪らなくて…。キスだけじゃ済まなかった」
「先輩……」
「凄く、可愛かった……」
言葉の後で、先輩は俺の額にチュッと音を立ててキスをした。
本当だろうか……?
本当に先輩は腕の中の俺を”可愛い”と思ってくれたのだろうか。俺の身体を触りながら、もしかすると他の人の事を考えてはいなかったのだろうか。
そう思うと、辛かった。
先輩に“いってらっしゃい”を言い、もう1度キスをすると俺は部屋に戻った。
まだ、呆然としていて、さっきの経験を現実のように思えずにいた。
はぁっ、と溜め息をつき、俺は鞄を抱きしめたままドサリとベッドに腰を下ろした。
今まで碌に自慰さえしていなかった身体を、急に目覚めさせられたような感じだった。
そして、その熱を身体から追い出せないまま、俺は戸惑いの中にいた。
小金井先輩のことは好きだ。だから、嫌じゃなかった。
でも、もし相手が慶だったら、俺はどうなっていただろうか。
目の前のベッドは勿論空で、慶の姿は何処にも無かった。
きっと慶も、今日帰宅する友井先輩を見送っているのだろう。
そう思った時、ハッと思い当たって俺は顔を上げた。
もしかして、俺たちがしたように、慶と友井先輩も別れを惜しんでいるのだろうか。
キスだけじゃなく、友井先輩の綺麗な身体を、慶の指が弄っているのだろうか。
そう考えた時、俺はそれを否定したくて激しく首を振った。
イヤダ。
イヤダ、イヤダ、イヤダッ。
自分だって小金井先輩としていた癖に、俺は理不尽にも慶と友先輩の行為を許せなかった。
触って欲しくなかった。
他の誰も、慶に触られて欲しくなかった。
そして、俺は気付いた。
自分が慶に触れられたがっていることを。
小金井先輩がしたように、いや、もっとその先まで、俺は慶にして欲しいと思っているのだ。
鞄を離し、俺は両手で顔を覆った。
諦めるなんて無理だった。
どんどん、止めようとしても、それを凌駕し想いは募っていく。
この想いが、いつか爆発してしまったらどうしよう。
仕舞い切れずに、慶にぶつけてしまったら……。
そう思うと、怖くて堪らなかった。
ガチャリ、と音がしてドアが開いた。
ハッとして顔を上げると、慶が部屋に入って来た。
「千冬、帰ってたんだ」
顔を見た途端、俺はカーッと頬に血が上るのを感じた。
慶が気付く訳がないのに、今さっき、先輩としてきた事を知られるのではないかと思ってしまった。
自分が何をしてきたのか、慶に悟られるのではないかと思うと、恥ずかしくて体が燃えるようだった。
「どうした?」
俺が急にうろたえたのを不審に思ったのだろう。怪訝そうな顔で慶は言った。
「べ、別に何でも……」
そう言うと、俺は落とした鞄を拾って立ち上がった。そして、机の上に鞄の中身を出し始めた。
「寮も大分静かになったな。帰宅組みはもう、殆ど出て行ったみたいだし」
「う、うん。そうだね」
「小金井先輩も、もう行ったんだろ?」
「うん、さっき……」
「そか…」
ドキドキと鼓動が早まる。
何のことは無い会話をしていても、俺は自分が緊張しているのを感じた。
鞄を机の上に置き、慶が着替え始めるのが目の隅に映った。
当たり前だが、慶は俺の前でも平気で服を脱ぐ。一方俺は、見られている訳でもないのに、着替える時は常に慶のことを意識せずにはいられなかった。
「今日の昼は食堂開かないんだよな。千冬は飯、どうする?」
訊かれて俺は仕方なく、着替え中の慶の方を見た。
ジーパンは穿き終えて、裸の身体に半袖のシャツを纏うところだった。
俺の貧弱な体とは違い、慶は適度に筋肉を帯びた男らしい身体だった。
後数年もすれば、きっともっと逞しくなって、少年臭さはまるでなくなってしまうだろう。
慶の身体が俺には眩しい。
眩しくて、俺はまた目を逸らした。
「どうしよ…。売店で何か買おうかな」
俺が俯きがちに答えると、慶は首を傾げた。
「なら、一緒にカフェテリアで食わないか?天気いいし」
「あ、うん。……そうだね」
今日からは友井先輩に遠慮する必要は無いのだと気づき、俺はすぐに返事をした。
今日から、休みが終わって友井先輩が帰って来るまで、俺は遠慮せずに慶の傍に居られるのだ。
そう思うと、素直に嬉しかった。
慶にとってはいつも通りの日常でも、俺の気持ちは全く違う。慶を独占出来るような気がして、嬉しくて堪らなかった。
(傍に居られればいいんだ。それだけでいい……)
だからこそ、隠し通したい。
自分の本当の気持ちを、慶に知られたくなかった。
汚い欲望も、叶う筈のない思いも、俺は自分の中に押し込めておかなければならないと思った。
知られたら、きっと全てが終わってしまうから。
終了式の2日後から夏期講習が始まった。
この頃になると、講習に出る生徒と部活で残っている生徒以外は皆家に帰ってしまい、寮も随分と静かになった。
俺と慶は夏期講習が始まると、一緒に登校して8時半から12時まで講習を受け、寮に帰って来て一緒に食堂で昼食をとった。
これから10日間はこんな生活が続く。
教室でも隣に座り、行きも帰りも一緒。そして、朝も昼も晩も、ずっとずっと慶と一緒だった。
(なんだか、夢みたいだ……)
隣を歩く慶を意識しながら、俺はそう思った。
ずっと、俺の方が避けていた所為もあって、同じ部屋で暮らしていても碌に接触も無かったが、夏休みに入った途端に俺は慶を独占しているような気分になった。
それに、友井先輩が居ないのだと思うと、遠慮する気持ちも薄れていた。
傍から見れば、ただ友達として普通に学校へ行き、食事をするぐらいのことでしかないと言われるだろう。でも、俺にとっては、ただ並んで歩くのも、一緒のテーブルで向かい合って食事をするのも本当に夢のような時間だったのだ。
そして慶は、8月に入ったら一緒に遊びに行こうと誘ってくれた。
勿論、デートじゃない。
でも、それでも嬉しくて、俺は今からワクワクする気持ちを抑えられずにいたのだ。
“指折り数えて待つ”と良く言うが、この時の俺は本当にそんな気持ちだった。
「何だか、最近冷たいよなぁ?千冬」
売店でばったりと会った真藤先輩にそう言われ、俺は思わずカーッと頬に血を上らせた。
慶と過ごすのに夢中で、真藤先輩も寮に残っていることを忘れていた。それを見透かされたような気がして、俺は少し焦った。
「そ、そうですか…?」
思わず頬を擦り、俺は先輩から目を逸らした。
「友達が皆帰宅しちまって退屈で堪んねえってのに、遊びにも来てくれないしさ。さては、ユキの留守に俺に言い寄られるんじゃないかって警戒してんのか?」
「そ、そんなことありませんよッ」
からかわれていると分かっていても、つい乗ってしまった。俺が剥きになると、案の定、先輩は嬉しそうに笑った。
「なら今から来いよ。もう午後は講習も無いし平気だろ?」
「で、でも…」
俺が躊躇うと、先輩が顔を寄せて来て耳元に囁いた。
「そんなに戸田の傍を離れるのが嫌か?」
ギクリとして、俺はサッと先輩から離れると顔を見上げた。
俺が驚いて凝視すると、先輩は真面目な顔つきで俺を見下ろしていた。
「せ、先輩……」
俺がコクッと喉を鳴らすと、真藤先輩はフッと笑みを浮かべた。
「行こう?千冬…」
その言葉にゆっくりと頷くと、俺は先輩の後に付いて行った。
部屋に行くのかと思ったが、先輩は外に出て裏山へ登る道に向かった。
暑くなってからはご無沙汰になっていたから、俺が裏山へ登るのは久し振りだった。
緑が濃くなり虫が飛び交う裏山への道は蝉の鳴き声で煩いほどだったが、寮を見下ろせるあの場所まで行くと、風があって案外涼しかった。
「ふう。ちょっと動くと汗が出るな…」
そう言った先輩に頷き、俺は彼の隣へ腰を下ろした。
春とは違って草の匂いが濃い。だが、下草は触ると幾らか冷たい感じがした。
「あ、あの…、先輩……」
俺が躊躇いがちに言うと、先輩はすぐに俺の方を向いた。
「なあ千冬、いい加減その“先輩”っての止めないか?」
突然の思いがけない言葉に、俺は一瞬、答えられなかった。
すると、先輩は眉間に皺を寄せて唇を歪めるようにして笑った。
「なんか他人行儀で嫌なんだよな。他の下級生は構わないけど、千冬にはその呼び方をされたくない」
「じゃ、なんて?」
俺が訊くと先輩はまた笑った。
「俺の名前は?」
「真藤…、拓馬さん」
「うん。良く出来ました」
「拓馬さん?」
「うん、それで良し。いいな?」
ニッと笑って先輩はそう言った。
「はい…」
俺が素直に頷くと、手が伸びてきて、くしゃくしゃと俺の髪を撫でた。
「あ、あの、拓馬さん……。さっきのことですけど」
俺がおずおずと切り出すと、先輩は笑みを引っ込めた。
「うん」
「お、俺って、そんなに分かり易いですか…?」
必死で隠しているつもりなのに、あっさりと見透かされたことに俺はショックを受けていた。
もしかしたら、先輩以外の誰かにも俺の本当の気持ちを知られているのだろうか。
そう思うと、怖くて堪らなくなる。
もしかしたら、慶にも知られてしまうのではないかと思えたからだ。
すると、フイッと視線を外して先輩は前を見つめた。
「いや…。他の誰も気付いてないと思うけどな。…俺は、いつも千冬のことを気にしてるから、何となく分かったけど…」
俺のことを気にしている、と先輩は言ったが、それは違うのではないかと思った。
多分、先輩は俺の傍に居る小金井先輩のことを気にしているのではないだろうか。
だから、俺の“裏切り”が気になるのではないのか。
「ごめん……なさい…」
慶と一緒に出かけられると浮かれていた自分が急に恥ずかしくなった。
「何で謝る?」
優しい笑みを浮かべて先輩はそう言った。
「俺に謝る必要なんか無い。……それに、ユキにも謝る必要はないと俺は思うよ」
「でも俺……」
言い掛けると、先輩の手がまた伸びて俺の肩の上に置かれた。
「言う必要も、謝る必要も無い。言えば誰かが傷つくだけで、いい事なんか一つも無いから」
そうかも知れない。
小金井先輩の本当の気持ちを知っても、俺は知らない振りをすることに決めた。そして、知らない振りをして付き合うことに決めたのだ。
だから、このままそっとしておくのが一番いいのかも知れない。
「……はい」
俺が頷くと、先輩も頷いた。そして、まだ俺の肩に置いてあった手をゆっくりと摩るように動かすと、心配そうな表情になって言った。
「それよりも気になるのは、千冬のことだよ。……言わなくていいのか?戸田に…」
その言葉に俺は頷いた。
自虐的な笑みが自然と唇に浮かんだ。
「言ったって、どうにもならないですから。戸田は、友井先輩と付き合ってるんだし、俺はただのルームメイトでしかないですから…」
「望みは全く無いって?」
先輩の言葉に、俺は思わずまた歪んだ笑みを浮かべた。
「ある訳無いです。……友井先輩に、俺が敵う訳ない」
「千冬…」
先輩の手が肩から離れて、その指が今度は俺の頬をそっと撫でた。
「そんなことないよ。千冬は自分のことを分かってない。確かに尚也は誰よりも綺麗だけどな。でも、千冬にはそれに負けない魅力がある。俺はそう思うよ」
「ありがとう…」
例えそれが慰めでしかなくても、俺は嬉しかった。先輩の優しい気持ちが、心に染み入るような気がしたのだ。
「でも、戸田は言ったんです。……友井先輩だから付き合うことに決めたんだって。他の男じゃ考えられないって…」
俺の言葉を聞いて、先輩は少しの間黙っていた。だが、ゆっくりと頷くと、また心配そうな目で俺を見た。
「そうか……」
俺は先輩の目を見返すと、何とか唇に笑みを浮かべた。
「俺、平気ですから。もう、諦めるって決めてるし、戸田とは友達として付き合って行きます。……もう、そう決めてますから」
「千冬……」
先輩の指が、また俺の頬を撫でて行った。
その優しさが酷く切なくて、俺は先輩の目から視線を逸らして目を伏せてしまった。