涙の後で


-3-

部屋に帰ると、慶はまだ眠っていた。
起こさないようにそっと近付き、俺はベッドの横に膝を付いた。
慶は知らないが、時々、俺はこうして彼の寝顔を見ていることがある。
眠っている慶にならうんと近くことが出来る。

そう………。
キスできるくらいの距離にまで……。

息を止めて顔を近づけると、俺はそっと目を閉じた。
そしてゆっくりと瞼を開く。
グッと顎を突き出せばくっつくくらいの距離に慶の唇があった。
でも、勿論、本当にキスできる訳なんか無い。
俺はすぐに顔を遠ざけると、ゆっくりと息をした。
キスしたら、慶は目を覚ましてしまうだろうか。
それとも、ほんの一瞬触れるだけなら気付かれずに済むだろうか。
いつも、こうして寝顔を見る度、俺は同じ事を考える。でも、結局は実行に移す勇気などありはしなかった。
ゆっくりと立ち上がろうとした時、突然、慶がパチッと目を開いた。
心臓が跳ね上がった。
俺はそこに凍りついたようになって慶の目を見つめた。
「……千冬?」
呼ばれても答えられず、俺はただ目を見開いたままゴクッと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
もしかして、俺がキスしようとしたことに気付いてしまったのだろうか。だとしたら、俺はもうこの部屋にいられない。
「今、何時だ?」
でも慶は、暢気に伸びをしながら俺にそう訊いた。
「し、7時ぐらい…」
やっと俺がそう答えると、慶は頷いて両目をごしごしと擦った。
「ご、ごめん。起こそうと思ったけど、まだ早いかと思って、それでその…」
「いや、いいよ。起きる。シャワー浴びるから待ってて?そしたら食堂に行こう」
「あ、うん…。分かった」
ホッとして、急に力が抜けた。
慶はどうやら、目を開けた途端に俺の顔があったことを、別段疑問にも思わなかったらしい。
きっと、いつもと同じに俺が起こそうとしていたのだと思ったのだろう。
億劫そうに起き上がると、慶はスリッパ代わりに履いているビーチサンダルを引っ掛けてバスルームへ向かった。
「あ、やべ…。バスタオルの洗濯したのなかったんだ。ここの借りていいか?」
それは俺がさっきシャワーを浴びた時に使ったやつだった。
俺は慌てて立ち上がると、クローゼットへ向かおうとした。
「待ってて、今、新しいの…」
「いいよ。これ、そんなに濡れてないし。じゃ、借りるな」
そう言うと、俺が返事をする前に慶はドアを閉めてしまった。
「えっ。うそ……」
小声でそう呟き、俺は力が抜けたようにベッドに腰を下ろした。
俺の使ったタオルを慶が使う。
考えると体がカーッと熱くなるような気がした。
馬鹿々しいことかも知れない。でも、同じタオルで慶が身体を拭くのかと思うと、酷く淫らな感じがして俺は無意識に自分の身体を抱きしめていた。
落ち着かなくて、部屋の中をうろうろしたり何かを手に取ってまた戻したり、座ったと思ったらまた立ち上がったり、俺は馬鹿みたいに挙動不審な行動を続けた。
やがて、暫くしてバスルームのドアが開いて、慶が姿を見せた。
篭った湯気を外に出しながら、鏡の前で濡れた髪を拭いている。
此方を向いて俺を見ると、笑みを浮かべて言った。
「千冬のタオルっていい匂いするな。おんなじ洗剤で洗ってるのになんでだろ?」
「し、知らないよ…」
下着一枚で濡れた髪を拭く慶を俺は見ることが出来なかった。
体の熱が引かない。
目が潤むのを感じて、俺は急いで慶に背中を向けると湿気を出す振りをして窓を開けた。
寝具類は学校側で纏めて業者に頼んでくれるので、一週間に1度、清潔なものが届く。でも、自分達の衣類やタオル類などは洗濯室にある洗濯機で自分達で洗わなければならない。
洗剤や柔軟剤は自前だが、大抵は売店に売っている物を使っているので同じ銘柄だった。
だから、慶の言うように洗濯物の香りは同じ筈だったが、1度使った後だった所為で俺の匂いが残っていたのかも知れない。そう思うと、余計にドキドキが止まらなくなった。
「これ、俺が洗うよ」
タオルを示しながら慶が言うのに、俺は首を振った。
「い、いいよ。俺も今夜洗濯するし、一緒に洗うから」
「そうか?じゃ、悪いな」
言いながら傍へ来ると、慶は使い終わったバスタオルを俺に渡した。
今度は、タオルから慶の匂いがするのだろうか……。
そう思ったが、勿論、慶の見ている前で匂いを嗅ぐことなんか出来ない。俺は素っ気無い風を装って、バスタオルを自分のランドリーボックスへ投げ入れた。

慶の支度が終わるのを待って、俺たちは食堂へ出掛けた。
真藤先輩に会えるかと思ったが、先輩の姿は見えなかった。
中島先生も、もう食事を済ませてしまったのか食堂にはいなかった。
真藤先輩は、よく中島先生の所へ行くと言っていた。
俺のことも小金井先輩のことも、何時も気遣ってくれる真藤先輩だが、自分の気持ちを余り見せることは無い。中島先生も言っていたが、いつも自分のことは二の次にしているように見えるのだ。
そんな真藤先輩が、本心を吐き出す場所が中島先生の部屋なのだろうか。
そう思うと、俺は急に中島先生のことをもっと知りたくなってきた。
「千冬?」
慶に呼ばれて俺は目を上げた。
「うん?」
「昨夜、眠れなかったのか?何か疲れた顔してる」
「えっ?」
気づかれなければいいと思っていたが、やはり慶にも分かるほどだったらしい。
「ちょ、ちょっと、考え事してたら寝そびれちゃって…」
俺は目の下を擦りながらそう言った。
「そうか…。なら、疲れてるんじゃないか?今日は出かけるの止めようか?」
「う、ううんッ。大丈夫だよっ」
慶の言葉に俺は慌てて首を振った。
「でも、結構長く電車に乗るし、気分悪くなったりしたら…」
慶は俺のことを余程か弱いと思っているのか、本気で心配してくれているらしかった。
「平気…。ちょっと寝不足なだけだし、それぐらいで具合悪くなったりしないよ。それに……」
迷ったが、俺はほんの少しだけ、正直に気持ちを言うことにした。
「俺、戸田と出掛けるの、凄く楽しみにしてたんだ」
言った後で、顔が赤くなるのが分かって俺は慶の視線から逸らして目を伏せた。
「千冬……」
「だって……、中々こんな機会ないだろ?だから…」
勇気を出して目を上げると、慶はじっと俺を見ていた。
「へ、変な意味じゃないよ?ただ…、一緒の部屋に居ても、今まではあんまり遊んだり出来なかったし…」
目が泳いでしまい、俺はまた目を伏せた。
自分から避けたりしていた癖におかしなことを言うヤツだと思われただろうか。そう思って俺は言ったことをすぐに後悔した。
でも、慶から返ってきた言葉は俺の心配しているようなものではなかった。
「もっと早く、誘っても良かったのかな?でも、千冬は週末忙しそうだったし、小金井先輩に睨まれそうで…」
そう言って慶は苦笑した。
「俺、何だか小金井先輩に嫌われてるみたいだし…。千冬と同室だから警戒されてんのかな?」
「そ、そんなこと無いと思うけど……」
勿論、小金井先輩は俺のことで慶を警戒している訳じゃない。でも、小金井先輩と友井先輩の関係を知らない慶にはそう思えるのかも知れなかった。
「なあ、家に帰るまでの間、もっと色々出掛けようか?映画見に行ったり、もう少し遠くの町まで足伸ばしたり…」
信じられないような言葉に、俺は目を見張って慶を見つめた。
「ほんと?いいのっ?」
「当たり前だろ?寮にずっと居ても退屈だし、まだまだ時間はあるし、今はお互いに遠慮する相手もいない」
「うん……」
嬉しかった。
本当に嬉しくて、俺は一瞬、全てを忘れそうになった。
全てを忘れて、慶を好きだということだけしか考えられなくなりそうだった。
そして、今なら自分の本心を言えそうな気がした。
心の中だけではなく、口に出して“慶“と名前を呼んで、そして、”好きだ“と言えそうな気がしたのだ。
「あ、あの……け…」
俺が、“慶”と名前を呼びかけた時、数人の生徒ががやがやと食堂に入って来た。
その声を聞いて、俺はハッとすると唇を閉じた。
幾ら夏休み中で利用者が少ないとは言え、ここはみんなが出入りする食堂だった。こんな場所で、一体俺は何を言おうとしていたのだろう。
それに気付くと、カーッと顔が熱くなるのが分かった。
もう少しで、とんでもない事をしでかすところだった。
雰囲気に騙されて、言ってはいけないことを言ってしまうところだった。
折角、慶と二人っきりで出掛けようとしているのに、今こんな告白をしたら全てが台無しになってしまう。きっと、気まずくなって、もう慶は俺を誘ってくれなくなるに違いなかった。
「なに?」
黙ってしまった俺に、慶が怪訝そうな顔で先を促した。
「あ、あ、うん…。もう行こうか?バスの時間もあるし」
「あ、そうだな。そろそろ支度しよう」
言うと、慶は食べ終えたトレイを持って立ち上がった。
部屋へ戻ると、俺たちはそれぞれバッグに必要なものを入たりして支度を始めた。
俺は思いついてバッグの中にデジタルカメラを入れた。
もしかすると、撮りたくても撮る機会の無かった慶の写真を撮れるかも知れないと思ったのだ。
もう1度鏡の前に立ち、俺は顔や髪をチェックした。
何度見たって変わらないとは思ったが、少しでも目の下の隈が薄くなっているのを祈った。
でも、やはり少しも変わっていない。また溜め息をつき、俺はもう1度髪にブラシをかけるとバスルームを出た。
慶はもうすっかり支度を終えて、ベッドに腰を下ろしてメールをチェックしていた。
「ごめん。行こうか」
「ああ」
声を掛けると、慶はすぐに立ち上がってバッグを背負った。
別段お洒落している訳でもないのに、慶は相変わらず格好良かった。ただ立っているだけで存在感がある。そして、みんなが彼に注目するのだ。

何処が好きなんだろう……?

慶と並んで歩きながら俺はそう思って、改めて彼を見た。
でも、考えても分からない。
ただ、見ているだけで、それだけで胸が苦しくなるのだから。
「なに?」
訊かれて、慌てて目を逸らすと俺は首を振った。
「ううん。なんか戸田、背が伸びたのかなって…。前より目線を合わせるのに上を見る気がするから…」
「そうかな?そう言えば、ジーパンとか少し縮んだ気がするな」
笑いながらそう言い、慶はすっと脚を前に伸ばしてジーンズの裾の長さを確認した。
「まだまだ伸びそうだよね」
俺の言葉に慶は首を傾げた。
「どうだろうな?まあ、まだ高1だし、止まりはしないだろうけど」
「お父さんは、大きいの?」
 俺が訊くと、慶は一瞬返事を躊躇ったようだった。
「あ、ああ…。小さい方じゃないかもな。千冬んちは?」
「あ、俺は…、覚えてないんだ。父さんが死んだの、2歳の時だったし」
「あ、そうだったな。ごめん……」
済まなそうな顔になった慶に俺は笑って首を振った。
「ううん。覚えてないから悲しくも無くて…。最初から父親が居ないのと余り変わらないから。……あ、でも写真見ると結構大きな人だったみたい。母と並んでる写真見ても、結構身長差があったから」
「そうなのか。じゃ、千冬もこれから伸びるんじゃないか?」
「どうかなぁ。あ、そう言えば身長って母親に似るんじゃなかったっけ?だとしたら、あんまり期待できないなぁ」
「そうなのか?……でも、千冬はあんまり大きくならなくてもいいよ」
「どうして?俺は少なくても170センチは超えたいよ」
「ははは…。でも、ごつい千冬は想像出来ないもんなぁ」
高1で、もう180センチ近くある慶と比べると、俺はまるで子供子供して見える。でも、慶にこんなことを言われると、もう伸びなくてもいいかと思ってしまった。
他愛のない会話を続けながらバス停まで歩く。
それだけで、物凄く楽しかった。
慶と二人だけの時間は、俺にとってはまるで宝物みたいに感じられたのだ。
だから、日差しの強さも夏の暑さも、その時の俺には全く気にならなかった。