涙の後で


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バスに揺られて駅まで行き、それからまた電車に乗った。
ローカルな路線で、しかも通勤時間帯でもないので、来た電車は空いていた。俺たちはドアの近くの席に並んで腰を下ろした。
「そう言えば、少しは気持ちが楽になってきたか?」
訊かれて、俺は怪訝そうに見たのだろう、慶は少し考えるような顔をして言った。
「いや、失恋して辛そうだったから…」
まだ、心配してくれていたのだろうか。そう思うと、素直に嬉しかった。
「ありがと…。でも、もう吹っ切れたよ」
「そうか。……いや、実は休みになっても寮に残ったのは、まだ忘れられないからなのかと思ってたんだ」
慶の言葉に、俺は笑って見せてそれを否定した。
「ううん。母さんと正孝さん、あ、お義父さんのことだけど…、二人とも俺に遠慮したのか新婚旅行にも行かなかったし、どっちも中々休みの取れない仕事してるんだ。だから、お盆休みに二人で旅行したらって言ったんだけどね…。俺が家に帰ると、また気を遣って止めるなんて言い出すから、夏期講習を理由に残るって言ったんだ」
俺の話を聞いて慶は頷いた。
「そうだったのか。…やっぱり千冬は優しいんだな。本当なら、まだ辛い筈なのに…。優しくて強いよ、千冬は」
思いがけない言葉を貰って、俺は頬を染めた。
「そ、そんなことないよ。俺…、優しくなんか無い。それに、弱虫だし……」
「いや…。強いよ、千冬は。楠田たちに嫌がらせされてた時だって、周りには全然感じさせなかった。いつでも独りで、辛いこととちゃんと向き合ってる。見た目は華奢で可愛いから誤解しがちだけど、芯はしっかりしてるんだと思う」
「そんな……、俺…」
可愛いだとか、しっかりしてるだとか、慶からこんな風に見られているなんて少しも思わなかった。そして、そんな言葉を貰ったら、また勘違いしてしまいそうで怖かった。
「前に、千冬が切れたことあったろ?確かに俺は、見た目だけで勝手に千冬のイメージを決め付けてたところがあったと思う。妹と重ね合わせたりして悪かったと思ってるんだ」
何も答えられず、俺は俯いたまま黙って首を振った。

いけない。
慶の言葉は違う。
俺のことを好きだと言っているんじゃない。
これはただの社交辞令のようなものだ。
友達だから、ルームメイトだから、優しくしてくれようとしているだけなんだ。

(でも、“可愛い”なんて……)
普通は社交辞令でも、男相手に言ったりしない。
だから誤解してしまう。
もしかしたらと、期待してしまう。
もしかしたら、ほんの少し……、ほんの少し、俺にも希望が有るのかも知れないと。
「酷いこと言ったって、あの後、凄く後悔した。好きになった人が、自分の母親と結婚してしまうなんて、本当に辛いよな。今になってこんなこと言うのも白々しいけど、千冬が身の置き所が無くて寮に入りたいと思った気持ち、分かるよ……」

そうか……。

やっと分かったような気がして、俺は顔を上げた。
慶はあの時のことをずっと気にしていたのだ。俺に悪いことをしたと思って忘れられなかったのだ。
それをずっと重荷に感じているから、だから、俺のことを気に掛けてくれるのだ。
優しくしてくれるのだ。
(なんだ、そうか……。そうなんだ……)
納得すると、いっぺんに熱が去り、俺は慶の眼を見ることが出来るようになった。
「もう、いいよ。もう、ほんとに俺、正孝さんのことはいいんだ。あの時は確かに学校に逃げて来たんだけど、でも今は入って良かったと思ってる。みんなにも会えたし、寮生活もしてみると楽しいし……」
俺がそう言うと、慶は口元に笑みを浮かべた。
「そうか。なら、良かった」
「うん…。ありがと、心配してくれて…」
もう1度笑みを見せ、慶は窓の外に目をやった。
慶の心に少しでも俺の場所があるのならいいと思った。でも、ただ慶は俺への言葉を後悔して、俺を傷つけたことを気に病んでいただけだった。
そんな形でしか、俺は慶の心の中に入れないのだと思うと、酷く切ない気持ちがした。
慶の横顔を見ながら俺は心を静めようとしていた。
もうこれ以上、絶対に慶の重荷にはなりたくない。
ほんの少しでも、俺は自分のことで慶の心に負担を掛けたくないと思った。
「写真、撮ってもいい?」
訊くと、慶はこちらを向いた。
「カメラ、持ってきたのか?」
「うん」
俺がバックからカメラを出すと、慶は苦笑した。
「いいよ。約束したもんな?」
「……ありがと。窓の外、見てていいよ」
「分かった」
慶がまた横顔を見せ、俺はその顔にピントを合わせてシャッターを切った。
大好きな慶の顔。
例え俺のことを見ていなくても、俺は慶の顔を見ていたかった。



街に着いて、俺たちはとりあえず少し街を歩くことにした。
慶にとっては初めての街だったので、一通り見て歩きたいと言ったのだ。
歩きながら、俺はたまに慶の写真を撮り、それから街並みも少しカメラに収めた。
面白い建物や、綺麗なウィンドゥディスプレイなど、目に付いたものを撮っていったのだ。
歩き疲れた頃に、カジュアルなレストランに入り昼食をとった。
そこは、小金井先輩に教えてもらった店で、料金の割には味もボリュームも満足のいくものだった。
慶も気に入ったらしく、何度も“旨い”と口に出していた。
食事の後は、慶の希望で大きな書店へ行き、彼の探していた本を何冊か買い、他にも少し買い物をして歩いた。
その後、慶がプラネタリゥムを見つけて、入ろうと言い出した。
「星、好きなの?」
俺が訊くと慶は頷いた。
「うん。でも、ゆっくり星を見る機会なんかあんまりないだろ?だから、プラネタリゥムって好きなんだ」
「へえ…。いいよ、じゃあ入ろう。丁度、上映時間もすぐみたいだし」
チケットを買って中へ入ると、俺たちはエレベーターで最上階の球体部分まで昇った。
上映開始まで10分ほど間があったが、もう上映室には入ることが出来た。
入り口でチケットを切って貰い、俺たちはまだ空席の目立つ室内に入ると座り心地のいい椅子に並んで腰を下ろした。
「久し振りだな、プラネタリゥムなんて…」
座席に背中をゆったりと預けて上を見ながら俺が言うと、慶も同じようにして上を見た。
「ここのは俺の地元にあるのより空が大きいな…」
「そう?でも、星の位置は変わらないもんね」
俺の言葉に、慶はクスッと笑った。
「そうだな。星は同じだよな」
上映時間が来て、場内が暗くなった。
やがて、アナウンスが聞こえ、暗い空に星々が輝き始めた。
(ああ、綺麗だな…)
吸い込まれそうな夜空を見上げ、俺は自然と体が寛いでいくのを感じた。
座り心地のいい椅子も、柔らかな音楽もナレーターの耳に優しい声も、全てが俺の疲れを取っていってくれるようだった。
星々の物語を聞きながら、体の疲れも、心の疲れも、薄らいでいく。
ここに来て良かった、と俺は思った。
「綺麗だな…」
耳のすぐ傍で慶の声がして、俺はハッとして首を廻らせた。
暗闇で彼の目の光が見え、こちらを見ていることが分かった。
「うん…。でも吸い込まれそうだよね…」
俺が答えると、肘掛に置いた俺の手をスッと慶が握った。
「なら、手を繋いでよう」
驚きの余り、俺は何も言えなかった。

何故、手なんか握るんだろう?
俺が怖がっているとでも思ったのだろうか。

前に、同じようなことがあった。
でもあの時、真藤先輩が俺の手を握ったことに対して、俺は違和感を覚えなかった。
そして、こんなにも鼓動が早まることも無かった。
その後はもう、上映が終わるまで俺に安らぎは戻って来なかった。
慶は何も言わなかったが、手を握ったままで最後まで離さなかった。
俺はもう、ナレーターの解説も何も少しも覚えてはいなかった。ただ、繋がれた手だけが俺の頭を支配してしまったのだ。
灯りが点くと、慶は俺を見て少し笑い、そして手を離した。
「ごめん…。変な事しちゃったな」
言われて、俺はただ黙って首を振った。
慶の気持ちが分からなかった。
何故、こんな風に俺の心を惑わせることばかりするのだろう。
電車の中で、期待しては駄目なのだと改めて思い知ったのに、すぐにこんな行為でまた俺の心を揺さぶる。
本当は慶も、少しは俺のことを想ってくれているのだろうかと、棄て去った筈の期待が胸に蘇ってくる。
“どうして?”と訊いたら答えてくれるのだろうか。
それとも、答えを聞くことでまた、俺は傷つくのだろうか。
「喉、渇いたな。何処かでお茶しよう」
立ち上がると振り返りながら慶は言った。
その表情はいつも通りで、さっきの行為に対して何か特別な意味を感じさせるものではなかった。
「うん…。そうだね」
答えて、俺は彼の後に付いて上映室を出た。
その理由(わけ)をいつか聞きたいと思った。でもそれは、多分今ではないのかも知れない。
プラネタリゥムの建物の中にカフェがあるのを、さっきエレベータに乗る前に下の案内板で見ていた。
カフェのある2階下に下りる為、俺たちはまたエレベーターに乗った。
エレベーターが目的の階に着き、俺たちは続いて箱を降りた。
すると、前から来た二人連れが急いで走って来た。
気付いて、慶がドアを押さえた時、走って来た一人が急に脚を止めた。
その顔を見て、俺は驚いて目を見張った。
「と、友井先輩……」
呆然と見つめる俺の顔を見て、友井先輩は、取り返しのつかない失敗を見つかったかのような表情になった。
すると、立ち竦んだ先輩に怪訝そうな目を向け、一緒に走って来た30代くらいの男は彼の手を掴んで、俺と慶の顔を交互に見た。
その、妙に不安げな表情が気になった。
まるで、俺たちの存在に怯えているような顔をして男は先輩を見た。
「尚也…?」
促すように手を引かれ、先輩は俯いて俺から目を逸らすと、男と一緒にエレベーターに乗ろうとした。
気付いて、俺はハッとして慶の顔を見た。
すると、慶は眉根に皺を寄せた厳しい表情で、先輩と男が箱に乗るまでドアを押さえていた。
「……ごめん。慶…」
殆ど聞こえないぐらいの声で友井先輩はそう言い、一緒の男はドアを押さえていてくれたことに対して慶に礼を言った。
慶は黙ったまま手を離し、そして黙ったまま、先輩と自分を隔てるドアが閉まるまで彼の顔を見ていた。