涙の後で


-6-

すぐそこにオーディオ室があり、先輩はそこのドアを開けると俺をその中へ入れた。
オーディオ室は高性能のCDプレーヤーとスピーカーが在り、防音設備も調っているので、部屋で聴くよりも大音量で好きな音楽を聴ける。普段は時間制の順番待ちで生徒に使わせる部屋だったが、休み中は生徒も少ないので開放してあった。
そのソファに先輩は俺を押し倒した。
「ユ、ユキ先輩…?」
俺が驚いて見上げると、先輩はまた泣きそうな顔をしていた。
「好きだよ、千冬。本当に、本当に、好きだ……」
「先輩……」
先輩の言葉が嘘だとは言わない。でも俺の耳には何故か空しく感じられた。
本当は言いたかった相手は俺じゃないのだと、そう思えた。
先輩の指がシャツの下から入り込んで俺の胸を激しく摩った。その刺激で乳首が勃起する。
そこをまたぐりぐりと擦られ、俺は痛みに顔を顰めた。
「好きだよ、好きだ…好きだ…」
まるで、うわ言のように先輩はそう言い続け、気付くと押し付けられていた先輩の股間が勃起していた。
(う、うそ……)
余りの急な展開に思考がついていけなかった。
押し退けようとすると、手を押さえられてまたキスされた。
唇が去った瞬間、声を上げようとして口を開きかけた。
でも、その時、先輩の眼を見てしまった。
そして、俺は力を抜いた。



「ぅくっ……うぅっ……」
痛みで目が眩んだ。
それでも俺は、先輩の背中に回した手を外そうとはしなかった。
誰かに抱かれることを、俺はまだ考えたことも無かった。
小金井先輩には何度か夏休み前に身体を触られたりしたが、それと連動してセックスを考えることもなかった。
俺の頭の中には、まだセックスと言う行為は現実として存在してはいなかったのだ。
でも今、俺は先輩に抱かれている。
そして感じるのは、痛みと悲しみだけだった。
痛みは身体に感じているだけじゃない。
でもそれは、自分自身の辛さからくるものではなかった。
先輩の心が悲しい。
その悲しみが、俺の胸を痛ませていた。
“好きだ”と言い続けた、先輩の声が悲しく頭の中に木霊する。
本当にそう言いたい相手はここにはいないのだ。
でも俺は、身代わりでも何でも良かったのだ。
自分が傷つけてしまった先輩の心を少しでも癒せるなら、今はどんな痛みにも耐えようと思っていた。
やがて、短く声を上げ、先輩が俺の中で達くのが分かった。
そのままじっと、ただ待っていると、先輩が俺の中から出て行った。
「千冬……」
呼ばれて目を開けると、先輩の手が俺の頬を包んだ。
涙が拭われて、そして唇が押し付けられる。もう下半身は殆ど感覚が無かった。
「好きだよ、千冬……」
最後に泣きそうな声で先輩はそう言った。
「はい……」
精一杯笑みを浮かべて俺が答えると、小金井先輩は俺の身体の上から居なくなった。
そして、そのまま部屋を出て行った。
動きたくても動けなかった。
身体中が悲鳴を上げているような気がして、そして、涙が溢れた。
とうとう、両手で顔を覆うと、俺は声を上げて泣き出した。
あんなにも悲しそうな顔を小金井先輩にさせてしまったのは俺だ。
取り返しのつかないことを、俺は先輩に対してしてしまったのだ。
自分の馬鹿さ加減がやり切れなかった。嫌いを通り越して、憎いとさえ思った。
何でこんな風に、いつも人を傷つけるのだろう。
こんな俺が、誰かに好かれようなんて土台無理な話なのだ。
絶望で、どうにかなりそうだった。

そして、消えてしまいたいと願っていた俺を、ドアを開けて見つけてしまった人が居たのだった。



「高梁っ、入るぞッ」
「だ、駄目ッ」
だが、俺が叫んだ時にはもう、つかつかと歩み寄った中島先生が俺の脇に立っていた。
「い、嫌です…、見ないで下さいッ」
俺が急いで服を掻き集めようとすると、先生はその腕を掴んで動きを止めさせた。
「馬鹿言うな。俺が何の為に来たと思ってる」
「え…?」
先生はソファの前に膝を突くと、医者の動きで俺の身体から衣服を退けさせた。
「小金井が来たんだ。おまえを診てやってくれって…」
「えっ?せ、先輩が?」
「ああ…」
眉間に皺を寄せ、厳しい表情のままで先生は頷いた。
「おまえをレイプしちまったって……」
「ち、違いますッ。レイプなんて…、そんな、そんなんじゃありませんっ」
俺が必死で否定すると、先生はフーッと溜め息をついた。
「そんなことはどっちでもいい。レイプだろうが合意だろうが。おまえが怪我をしたのは事実なんだ。小金井にはその責任がある」
「先生ッ…」
俺が更に言い募ろうとすると、中島先生はそれを遮って俺の腰に手を当てた。
「少し黙れ。傷を診る。恥ずかしいだろうが、少し我慢しろよ?」
「……はい」
見られるのは嫌だった。
恥ずかしさだけではない。自分の馬鹿さ加減を知られるような気がして堪らなかったのだ。
でも、今は先生の言うことを聞くしかないと分かってもいた。
俺が頷くと、先生は俺の下半身を露にし、その下に清潔なシーツを敷いた。そして、医療用の手袋をした手で、その部分を開き診察を始めた。
羞恥心で身体中が萎縮するようだった。
両手をギュッと握り、胸に抱えるようにすると俺は息を止めて先生が診終わるのを待った。
すぐにホッと息を吐くと、先生は俺の顔を見て言った。
「良かった。裂傷はそんなに酷くない」
俺は顔の前で拳を握ったままで僅かに頷いた。
内部と患部全体を洗浄し、薬を付けてくれると、先生は手伝って俺に服を着せてくれた。
「先生、ユキ先輩は…?」
気になって俺が訊ねると、先生は頷いてポケットから携帯電話を出した。
「部屋を出る前に真藤を呼んで傍に居るように言って来た。今度はこっちに来てもらおう」
「え…?どうして?」
「今度は小金井を診てやらなくちゃならねえからな。あいつは今、普通じゃねえ。今夜は俺のところに泊めるよ。それに、おまえも何時までもここに置いておく訳にもいかんだろ?真藤に部屋へ送らせるから」
「そ、そんなっ…。俺なら大丈夫です。一人で帰れますから」
真藤先輩にまで今の自分を見せたくない。
必死で拒絶しようとしたが、中島先生は頷いてはくれなかった。
「真藤はもう、小金井から事情を聞いてるだろ。今更隠しても遅い。それに、おまえは暫く一人で歩けやしねえよ」
「で、でも……」
まだ俺が躊躇うと、先生は俺の肩に手を置いた。
「今のおまえには、誰か頼る相手が居た方がいい。真藤なら面倒見てくれる」
そう言って、先生は真藤先輩に電話を掛けた。
「どうだ?……うん、そうか。分かった。……ああ、大丈夫だ。おまえ、こっちに来て、高梁を部屋へ送ってやってくれ。小金井のことは俺が見るから。……ああ、頼む」
電話を切った先生の白衣の裾を掴み、俺は先生を見上げた。
「小金井先輩のこと…、学校に言ったりしないですよね?」
もしかしてこれが問題になったら、先輩は学校側から処分されたりするのではないかと気付いた。そして、中島先生も学校側の人なのだと気が付いたのだ。
すると、先生はその場にしゃがみ俺の頭に手を置いた。
「おい、俺がそんな男だと思ってんのか?その気だったら、生徒の真藤じゃなく始めから舎監の先生を呼んでるよ」
「す、済みません……」
俺が項垂れると、先生がクスッと笑うのが聞こえた。そして、頭に置かれた手がくしゃくしゃと俺の髪を撫でた。
「まったくおまえは、人のことばっかり気にして。……随分、ショックだったろ?それに、身体だって相当辛い筈だ」
「平気です。俺は……」
「平気な訳あるか」
優しくそう言われ、俺は目を上げた。
先生の優しい目を見て、同情してくれているのが良く分かった。でも、俺は同情してもらう資格なんかないのだ。
「俺の前で我慢なんかしなくていいんだぞ。明日からも暫く、傷が治るまでは恥ずかしい所を見せなくちゃならねえ。ついでに全部、さらけ出しちまえよ」
「先生……」
俺が目を伏せた時、ノックの後にドアが開いた。
「千冬……」
戸口に立って俺を呼び、真藤先輩は辛そうな表情でこちらを見た。
「すみま……せん…」
来てくれた事に対してだけではなく、俺は先輩に済まない気持ちで謝った。
先輩の大事な人を傷つけ、こんな方法でしか応えられなかった。そして、この結果がきっと、また二人を傷つけたに違いなかった。
「馬鹿、何で謝る……」
俺に近付くと、先輩はまた何時ものように優しく頭を撫でてくれた。
だけど俺は切ないばかりで、先輩の手に甘えることなど出来なかったのだ。
「真藤、俺は部屋に戻る。小金井は今夜、俺が預かるから…。高梁を頼むな?」
言われて頷くと、先輩は中島先生を見送り、そして俺の前に膝を突いた。
「起きれるか?千冬…」
「はい…」
俺を助けて起こしてくれると、真藤先輩はそのまま俺を抱き上げようとした。
「だ、大丈夫です。俺、歩けますっ」
「嘘言うな」
「せ、先輩…」
「抱っこは嫌か?じゃあ、ほら、おんぶ…」
笑いながらそう言い、先輩は俺に背を向けた。
「す、すみません……」
今度は素直に肩に手を掛けると、俺は真藤先輩に背負われた。
きっと先輩は、俺が歩くと言っても許してくれないと分かったからだ。
「済みません。重いでしょ?」
肩の上からそう言うと、先輩は笑って振り返った。
「何回、“済みません”って言うつもりだ?」
「済みません……」
俺がまた謝ると、先輩はフッと息を吐いて前を向いて歩き出した。
「謝るのは俺の方だよ。あの時、俺がおまえ達を追い掛けてればこんなことにならなかった。千冬が傷つくことも無かった……」
「そんな…。拓馬さんは何も悪くなんか無いです。全部…、全部俺が馬鹿だったから。……ごめんなさい、ユキ先輩を傷つけて……、ごめんなさいッ」
「千冬……」
涙が溢れ、俺は思わず先輩の肩に瞼を押し付けた。
「責任を感じて、だから抱かれたのか…?そんな…、おまえの所為じゃないのに…」
瞼を押し付けたままで首を振ると、先輩はフッとまた溜め息をついた。
「ユキは…、何時かは知るべきだったんだ。尚也にもちゃんと話すようにって言ってあった。隠しておけば、ユキだって何時までも諦められない。知ればショックだろうが、それで前に進むことが出来るだろ」
「……でも、悲し過ぎます。ユキ先輩は、ずっとずっと、友井先輩を好きだったのに…。真実はちゃんと本人から聞きたかった筈です。俺なんかの言葉じゃなくて…」
「千冬、頼むからそんなに自分を責めるなよ。おまえはユキが戻ってたなんて知らなかった。そして、ユキの為に俺に真実を訊きに来たんだろ?……長い間、知っていながら俺はユキを騙してた。一番責められるべきなのは本当は俺なんだよ」
「拓馬さん……」
「けど、言えなかった。俺からは……、とても…」
辛そうにそう言い、真藤先輩は黙った。