涙の後で


-8-

「じゃあ、千冬のことは…?」
「え…?」
「千冬のことは本気じゃなかったのか?」
「そ、それは……」
慶の衝撃の理由は、俺が思っていたのとは違ったらしい。
まさか、小金井先輩の気持ちが俺に無かった事を、慶が気にするなんて思いもしなかった。
「本気じゃないのに、千冬を無理やり抱いたのか?こんな思いさせて、傷つけて…?」
「ち、違うッ。だから、違うって…。先輩は悪くないんだ。先輩はちゃんと俺のこと考えてくれようとしてた。友井先輩のこと諦めて、俺とのこと考えてくれようとしてた。俺だって、先輩が本当は友井先輩を好きだって知ってて、それでも黙って付き合ってたんだ。……悪いのは、ずるいのは、俺なんだよ。先輩を騙してた。知ってるのに知らない振りして…。それに……、俺だって先輩の他に好きな人が……」
そこまで言って、俺は黙った。
これ以上は、言う訳にはいかない。他の誰に言えても、慶にだけは言えないのだ。
「黙ってたのは、小金井先輩を気遣ったからだろ?それに、千冬だって前の恋を諦めようと努力してたじゃないか」
「そ、それは……」
慶は俺の好きな相手が今でも正孝さんだと思っているのだ。でも、俺はそれを否定することは出来なかった。
俺が黙ると、慶の手が伸びて俺の背中を撫でた。
それは、優しい、ゆっくりとした動きだった。
「やっぱり、千冬は悪くない。こんな目に合わなきゃならない理由なんて、無いよ」
「俺……」
「自分を責めるな。責任を感じたりするなよ。もう、自分を傷つけるな…」
「止め…て…」
鼻の奥が熱くなって、俺は手の甲で眼を覆った。
優しくされればされるほど、泣きたくて堪らなくなる。
俺はこんなに醜いのに、慶は俺を妹と同じくらい綺麗なものにしようとしている。
でも、俺にはとてもなれない。
なれる訳が無いのだ。
「止めて…。違うッ。俺は…、俺……ッ」
「千冬……」
身体から慶の手が去って行くのを感じ、それから立ち上がる気配がした。
「喉、渇いたろ?なんか買ってくる」
「え…?」
「ちょっと、待ってて」
「あ……」
俺が返事をする前に、慶は部屋を出て行った。
ドアが閉まった途端、俺の身体から力が抜けた。
何を言っても、慶は俺を責めない。
まるで、慶の中には理想の俺が居て、その姿以外は見ようとしていないみたいだ。
でも俺は、慶の理想とはまるで違う。それどころか、かけ離れているのだ。
だから、辛い。
辛くて、怖かった。
「いつかきっと、慶も気付くんだ。俺が…、妹とは違うって。ずるくて汚いって」
言葉に出して呟くと、急に涙が出た。
もしも、俺が慶の妹のようになれたら、愛してもらえるのだろうか。
キスしてもらえるのだろうか。
「そんなの、夢だよな……」
擦れた自分の声が、酷く情けなかった。
言って傷つくのが怖いから本心さえ言えないくせに、諦めると言いながら、こうして何時までも想いを消せない。
優しくされれば、それに甘えて、すぐに邪な思いに走る。
最低だと思った。
俺が涙を拭いた時、ドアノブの音がして、慶が入って来た。
「ラテで良かったか?」
「あ、うん。ありがと…」
「待って…」
買ってきた飲み物を机に置き、慶はベッドに近付くと、まるで抱き起こすようにして俺を起こしてくれた。
「戸田…」
腕を掴むと、慶が動きを止めた。
「うん?」
「あの、戸田は知ってたの?今日、友井先輩と一緒に居た男の人のこと……」
さっき、友井先輩の事を聞いた時、慶は清水先生のことを余り気にしていないように見えた。
それは、慶がもう、相手が誰だか知っていたからなのだろうか。
すると、俺に飲み物を渡しながら、慶は疲れたような表情を浮かべた。
「……知ってた。…って言っても、ちゃんと知ったのは夏休みの少し前だったけど…」
もしかすると、慶も知らずに友井先輩と付き合っていたのかと思っていた。だから、あの時、二人を見てショックを受けたのではないかと。
でも、慶は知っていたのだ。
それなら、何故あの時、あんなに険しい表情を見せたのだろうか。
その理由を知りたくて、俺は思わず手を伸ばし慶のシャツを掴んでいた。
「ちゃんとって……?薄々は知ってたってこと?知ってて、付き合ってたってこと?」
掴んだ俺の手を、慶はその上から掴んだ。
「最初は知らなかった。大体、付き合う前は周りの騒ぎが煩くて辟易してたし、俺が尚也さんの王子候補だって聞いて笑いもした。……でも、それも悪くないかって思うようになった。尚也さんの傍に居るのは楽しいし、騒ぎも静まる。俺も尚也さんも、お互いに都合が良かったし…」
「友井先輩も…?」
俺が訊くと、慶は苦笑した。
「尚也さんは、最初、俺の事を心配してくれた。…みんなを騙すことになっても平気かどうか…。自分は俺と付き合うことで助かるけど、俺に、もし少しでも気になる相手がいるなら、止めた方がいいって。けど、俺はここの風潮に染まる気も無かったし、先輩のことも好きだから、構わないって言った。……尚也さんは、形だけでも俺と付き合えるなら嬉しいって言ってくれたし、カモフラージュなのは分かってても、まさか本当の恋人の存在を隠す為だとは思わなかったんだ…」
「……そう」
やはり、慶は本気の恋愛をしていた訳じゃなかったのだ。”契約”だと噂になったことがあったが、それはあながち嘘ではなかった。
「でも…、キス、してたよね……?」
俺の言葉に、慶は苦笑した。
「うん…。実はあれ、キスしてた訳じゃないんだ」
「え?でも……」
確かに唇が合わさった瞬間を見た訳じゃない。でも、密着していた二人がサッと離れたのをちゃんと見たのだ。
「俺たちの付き合いを疑ってるヤツもいるから、キスくらいして見せないと駄目かもな、なんて話してて、ふざけて尚也さんを抱き寄せただけなんだ。それを、むこうの寮舎から見てた奴等がキスしてたって勘違いして騒いだだけ。まあ、俺たちも都合がいいんで否定しなかった」
「そう…だったの……」
俺もまた、キスしてたもんだと思い込んでしまった。
「……相手が、妻子ある人だって知ったのは、ホントについ最近だった。俺は、そんな立場じゃないのは分かってたけど、尚也さんにもっと良く考えるように言った。……幾ら好きだって、相手の家庭を壊していい筈なんか無いだろ?」
眉間に皺を刻んでそう言った慶は、真剣に友井先輩を心配しているのだろう。だから、二人を見た時にもあんなに険しい表情を見せたのだ。
「……先輩は、なんて?」
俺が訊くと、慶は短く溜め息をついた。
「尚也さんは、俺の話をちゃんと聞いてくれたよ。そして、もう1度、良く考えてみるって。先生とも話し合ってみるって、そう言ってたんだ…」
「そう…」
「けど、尚也さんは先生と別れるつもりは無かったんだな。そう簡単に別れられる訳はないけど、でも、ああやって目の当たりに二人を見ると、やっぱりショックだった…」
「うん…」
俺が頷くと、慶の手が額の上に乗った。
「少し熱っぽくないか?さっき、真藤さんも熱が出るかも知れないって言ってたんだ」
「平気だよ。大丈夫…」
「いや、熱が上がったら大変だから、今の内に薬貰って来るよ」
「い、いいよっ…」
中島先生の所には小金井先輩が居るのだ。慶を今の先輩と会わせたくなかった。
「熱って言っても大したことないし、そんなに上がったりしないよ。ほんとに大丈夫だから…」
俺が腕を掴むと、慶は立ち上がるのを止めて座り直した。
「分かった。でも、苦しかったらちゃんと言えよ?いい?」
「うん。ありがと…」
俺が頷くと、慶も頷いて自分の分の飲み物を取った。
冷たいラテを飲み、俺はまた横になった。
慶もしばらく傍に居たが、やがて立ち上がって自分のベッドに座った。
本を広げたが、何時ものように読書に没頭する様子は無く、時々顔を上げては俺の方を見てくれる。その気持ちが嬉しかった。
枕に頬をつけ、目を瞑ると、すぐに小金井先輩のことが頭に浮かんだ。
今頃、先生の部屋で先輩は何を考えているのだろうか。
俺を傷つけたと思って、後悔しているのだろうか。
“好きだよ”と、最後に言ってくれた、あの時の顔が忘れられなかった。
抱かれたことで、余計に傷つけたのだと分かった。後悔しても、もう遅かったが、この償いを俺はしなければならない。
誰もが俺を気遣ってくれるけど、本当に守ってやらなければならないのは小金井先輩の方なのだ。
まだ夏休みは半分も過ぎていない。
小金井先輩は家に帰るのだろうか。
それとも、このまま寮に残るのだろうか。
顔を合わせた時、俺はどんな事を言えばいいのだろう。
そして、友井先輩と顔を合わせた時、先輩はどうするのだろうか。
同じ学校に居るのだからこの先も顔を合わせずにはいられない。俺に何かが出来る訳ではないが、やはり心配だった。
これ以上、誰にも傷ついて欲しくない。
そう強く願ってはいたが、それは難しいことなのかも知れなかった。