涙の後で


-9-

やはりあの後、熱が上がったが、慶には言わなかった。
でも、俺の様子を見に来てくれたらしく、慶は気付いてしまった。
薬は要らないと言うと、慶は汗で濡れたパジャマを着替えさせてくれ、そして、製氷機から氷を取って来て冷たいタオルを作り、額を冷やしてくれた。
「ありがと、ごめん…」
何度目かの俺の言葉に、慶は苦笑した。
「そんなに気にするなよ。同室なんだから、これくらい当たり前だろ?」
「うん、ありがと」
俺が思わず言うと、慶はクスッと笑った。
「いいよ。俺が熱でも出したら、千冬に面倒見てもらうんだから」
「あ、うんッ。俺、ちゃんと看病するよ」
「ははは…、ありがとう。けど俺、丈夫だからなぁ」
言いながら、濡れて張り付いた俺の髪を慶は額から避けてくれた。
別に、慶にとっては意味の無い行為でも、こんな事をされるとドキドキしてしまう。そして、頬が染まるのを見られたくないと思ってしまうのだ。
でも、丁度、熱がある所為で元々顔が赤くなっていたのか、慶は不審げな様子も見せなかった。
「なあ、千冬…、身体が良くなったら、…あ、もし良かったらだけど、ウチに来ないか?」
躊躇いがちにそう言った慶を見て俺は目を見張った。
まさか、慶からこんな誘いを受けるなんて、勿論、夢にも思っていなかったのだ。
「な、なんで…?」
「うん。…ほら、家に帰ると両親が気を使って旅行に行かないかも知れないって言ってたろ?でも、もしかすると、千冬はこのまま学校に居るのが辛いんじゃないかと思ったんだ」
「戸田…」
まさか、慶がそこまで気を使ってくれていたとは思わなかった。
そんなにまで、心配してくれていたなんて、本当に有難かった。
「俺も、帰るつもりは無かったんだけどな。でも、妹からメールが来て、調子がいいから病院から戻れそうだって言って来たんだ。前からずっと、千冬に会いたいって言ってたから、連れて帰ったら妹も喜ぶと思うし」
「え…?俺に?」
意外な言葉に俺が驚くと、慶は笑みを見せて頷いた。
「うん。ルームメイトがどんな人かって言ってきたから、何度か千冬の事をメールで教えたりしたんだ。そしたら、会いたいって言い出して…」
「そうなの?」
別にまだ行くと決まった訳でもないのに、何だかドキドキした。
それに、慶の妹に興味を持ってもらえたのかと思うと不思議な気持だった。
「うん。殆ど病院に居るから俺の学校のことや友達のことを凄く聞きたがるんだ。中でも千冬のことは気になるらしくて、1度でいいから会いたいって……」
「そうなんだ…」
「な?だから、良かったら来ないか?俺も、千冬が来てくれたら嬉しいし」
「うん、ありがと…。考えておくよ」
俺が答えると、慶は頷いて俺の額のタオルを絞り直してくれた。

慶の家に行く。

それは、考えたことも無い、俺にとっては本当に信じられないようなことだった。
考えただけでドキドキする。
家に呼ばれるなんて、例えそれが同情が勝っていたにしても、それでも慶に、他のみんなとは違う特別な存在だと思われているような気がした。
でも、行きたい気持ちと、怖いような気持ちが半分ずつ俺の心を占めていた。
慶の生まれ育った場所を見たい。
でも、慶の妹に会うのは何だか怖かった。
それは、予感のようなもので、何故怖いのかはっきりと説明することは出来なかったが、慶の最愛の相手に会うことがただ不安だったのかも知れない。
でも、慶の言うとおり、俺が家に帰れば、きっと母たちは旅行を止めてしまうだろう。そして、このまま学校に居るのは確かに居心地が悪かった。
逃げても仕方ないと分かっていても、今のまま、先輩達と顔を合わせて生活するのは、やはり辛かったのだ。
(慶の家に、行ってみようか……)
怖いけど、興味の方が先に立った。
それに、慶の家に行けば、小金井先輩への罪悪感を少しの間だけでも忘れていられるかも知れない。
勿論、これは俺が一生忘れてはいけないことだったが、それでも、ほんの少しの間でいいから楽になりたかった。
寝返りを打つ度、身体に走る痛みが、俺に自分のしでかした罪を思い出させた。
そしてその度に、大声を上げて自分を罵りたい衝動に駆られるのだった。
まだ熱のある頭でぼんやりとそんなことを考えている内に、俺はそのままま眠りに落ちてしまった。



翌朝、熱は微熱程度に下がったが、まだ長く歩くのは無理だった。
慶は食堂へ行って、俺の分の朝食を部屋へ運んでくれた。
余り食欲が無かったが、なんとか俺がそれを食べ終えた頃、ドアにノックがあって中島先生が姿を見せた。
「どうだ?高梁。昨夜、熱出なかったか?」
俺の額と首筋に両手を当てながら、先生は訊いた。
「はい…、少し」
「そうか。まだ、微熱があるみたいだな?」
そう言って先生は、後ろに立って心配そうにしていた慶の方を振り返った。
「戸田、悪いがちょっと外に出ててくれ」
言われて、慶はすぐに頷くとドアを開けて廊下に出て行った。
先生は、俺のパジャマと下着を脱がせて患部を露出させると診察を始めた。
目的は分かっていても、こんな風にその部分を晒されると、やはり恥ずかしくて身体中が熱くなった。
「まだ、痛そうだな…」
呟きながらそう言い、先生は手早く診察を終えると、また患部を洗浄して薬をつけてくれた。
「あと、2日もすれば痛みは減るだろう。もう少しの我慢だ」
「はい…」
俺の机の上に乗った朝食のトレイを見つけ、先生は笑みを見せた。
「戸田はちゃんと面倒見てくれてるみたいだな?」
「はい。昨夜も、俺が熱を出したら、氷を取ってきてタオルで冷やしてくれました。…いっぱい面倒かけちゃって……」
俺が俯くと先生は笑いながら俺の頭に手を載せた。
「仕方ねえよ。困った時はお互いだ。そんなに気に病むことねえぞ」
先生はそう言いながら、くしゃくしゃと俺の髪を撫でた。
そして、少し真面目な顔つきになると言った。
「あのな、高梁。小金井が、おまえに会ってちゃんと謝りたいって言ってるんだ。どうする?」
「え…?先輩が……?」
「ああ。小金井もずっとおまえのこと気にしてるんだ。本当は俺と一緒に来たいって言ったんだがな。それは、ちょっと待つように言った。おまえの気持ちの方を優先しねえと…」
「先輩が俺に謝る必要なんてないです。悪いのは俺の方で、謝るべきなのも俺だから…」
そう口にすると、また鼻の奥が熱くなった。
小金井先輩に余計な重荷を背負わせてしまったのだと改めて思う。あの時は、少しでも慰めになればいいと思ったが、それは全くの間違いだった。
いつでも、気付くのが遅いのだと思う。
浅はかな自分が、俺は本当に嫌だった。
「おまえたちの事情は全部聞いた訳じゃねえし、俺にも細かいことは分からん。けどな、聞いてやる事が小金井の為にもいいと思うぜ」
言われて、俺は顔を上げた。
先輩が俺に謝ることで少しでも負担が軽くなるなら、俺は先生の言うとおりにするべきなのだろう。
「分かりました。ユキ先輩に会います」
「そうか。じゃ、俺が戻ったら来させるから」
「はい…」
俺が頷くと、先生は腰を上げて鞄を持った。
「じゃ、また明日な?」
「はい。ありがとうございました」
先生が出て行ったのと入れ違いに、慶が入って来た。
「大丈夫か?」
心配そうな顔で慶は言った。
「うん。大丈夫」
俺が答えると、慶は頷いて、診察の時に使った汚れたタオルを片付け、そして、俺の机から食べ終えたトレイを持ち上げた。
「返しに行って来る。なんか、欲しい物ないか?ついでに買ってくるけど」
訊かれて、俺は首を振った。
「ううん、別に何も…。ありがとう」
俺が言うと、慶は頷いて部屋を出て行った。
慶が出て行って間も無く、ドアにノックの音がした。
返事をすると、ゆっくりとドアが開き小金井先輩が入って来た。
「千冬…」
俺が起き上がろうとすると、先輩は素早く俺に駆け寄って来た。
「いいよ。そのまま寝てて……」
「いいえ、大丈夫ですから」
俺が構わずに起き上がると、先輩は心配そうな顔で俺を助けようと手を差し伸べた。
「ありがとう…」
「いや…」
俺が礼を言うと、先輩は躊躇いがちな笑みを浮かべて首を振った。
「ユキ先輩、あの…、俺に謝る必要なんてないですから。俺、後悔とかしてないし、勿論、先輩の事を責める気持ちなんて全然……」
「千冬……」
俺の名前を呼ぶと、先輩はそっと腕を伸ばして俺の体を抱きしめた。
「そんなに俺を気遣ってくれなくていいんだ。千冬の身体だけじゃなく心も傷つけたって分かってる。……昨夜、拓馬と話して、俺はやっと自分の気持ちをはっきりと悟った。誤魔化そうとしてもがいてたけど、でもやっぱり、心の底では少しも変わっていなかった」
「先輩……」
先輩はフッと寂しそうに笑った。
「俺がちゃんと自分の気持ちに整理をつけてれば、千冬を苦しめることにはならなかったんだ。ごめん……、本当にごめんな?千冬……」
「せ、先輩…ッ」
そうじゃないのだ。
傷つけたのは俺の方だ。
苦しめたのは俺の方なのだ。
「そんな風に言わないでくださいッ」
叫んだ途端に涙が出た。
「俺は、先輩に謝ってもらう資格なんか無いんです」
「千冬…」
溢れた涙を、先輩は優しく拭ってくれた。そして、ゆっくりと俺の髪を撫でながら言った。
「千冬の好きな人が他にいるって知ったのはショックだったよ。けど…、千冬が俺に対して不誠実だったとは思ってない。千冬はいつだって、俺のことを真剣に考えてくれていたって分かってる。……俺は、そんな千冬に甘えていたんだ…」
首を振り、俺は先輩にしがみ付いた。
甘えていたのは俺だ。
先輩の優しさに癒されて、慶への片想いの辛さを和らげてもらった。
先輩が傍にいてくれて、どんなに助けられたか分からない。
甘えていたのは、俺の方なのだ。
俺が謝ろうとした時、カチャリとドアが開いた。
「何してるッ」
叫ぶなり、慶は持っていたペットボトルを投げ捨て、先輩に掴みかかった。
「千冬に触るなッ」
「慶ッ…」
先輩の胸倉を掴んで立ち上がらせた慶を見て、俺は必死で叫んだ。