涙の後で
ー第5部ー
翌朝、昨日話していた通り、慶と俺は朝食後に荷物を持って寮を出た。
バスに乗り、そして町の駅から電車に乗り、隣町の駅まで行くと、そこから急行に乗った。
急行に乗る前に、慶は俺の身体のことを心配して駅のカフェで休憩を取ってくれた。
お盆前でも夏休みの所為か列車は余り空席が無かったが、何とか二人並んで座ることが出来た。俺を窓側に座らせて俺の分の荷物も網棚の上に載せると、慶はイヤーフォンを耳に差し込んで音楽を聴きながら目を閉じた。
俺は窓の外の風景を眺めながら、頭を座席に預けた。
ほんの少し頭を傾げれば慶の肩を借りられる。だが、俺は頭を動かしたりしなかった。
売店で買って来たスパークリングウォーターを飲みながら、俺は黙ってずっと窓の外を見ていた。
本当に来てしまった。
これで良かったのだろうか。
本当に、慶の家に行っていいのだろうか。
そんな思いが、まだ俺の心の中にあった。
でも、もう引き返す訳には行かない。
例え、そこに何が待っていようとも、俺は行くと決めたのだから。
暫くすると、慶が目を開いてイヤーフォンを外した。
「後、20分ぐらいだな」
携帯を見て時間を確認すると慶は言った。
「そう?なら、もうすぐだね」
俺が言うと、慶は頷いてメールを打ち始めた。きっと、妹に打っているのだろう。
「駅からはバス?」
俺が訊くと、計は首を振った。
「いや…。今、到着時間を知らせたから車で迎えに来てくれる筈だ。ウチは駅から結構遠いから」
「そうなんだ…」
迎えに来てくれるのは誰なのだろう。
慶は何も言わなかったが、普通なら両親のどちらかだろう。
慶の家は病院を経営していると以前に言っていた。普通なら今の時間、父親は仕事中だろう。
だとしたら、迎えに来てくれるのはやはり慶の母親なのだろうか。
到着まで後5分になると、慶は網棚から荷物を下ろしてくれた。
駅のホームに入り列車が徐行を始めると、俺たちは通路を通って出口へ向かった。
ドアの前に立つと、何だかまたドキドキした。
列車が完全に停止し、ドアが開いて慶がホームに下りた。俺も続いて降りると、慶の後について改札口へ向かった。
「こっちだ。北口…」
「うん…」
俺の家がある町より、大きな町だった。駅も大きくて近代的で、駅ビルが隣接していた。
俺は迷子にならないように慶の後にぴったり付いて歩いた。
改札を通り、俺たちは外に出た。
「こっちだよ」
慶が俺の背中に手を当てて、行き先を導いてくれた。
少し離れた所に、送迎の車が駐車できる場所があり、慶はそちらに歩いて行った。
すると、数台停まっていた車の中から小型のベンツの窓が開き、運転席から女性が顔を出した。
「慶さん」
手を振ったその人に、慶も笑みを浮かべて手を挙げた。
やはり、迎えに来たのは母親らしかったが、若くて綺麗な人だった。
「ただいま、母さん」
「おかえりなさい。今朝、瑠衣子も帰ってきてね、とても楽しみにしてるわ。貴方からメールが来たって言ったら、早く迎えに行けって追い出されちゃった」
親子にしては随分よそよそしい感じがすると思いながら、俺は二人の会話を聞いていた。
すると、慶が俺の背中に手を当てて前に押し出しながら言った。
「同室の高梁千冬くん」
紹介されて俺は頭を下げた。
「はじめまして。慶君のお言葉に甘えて、図々しくお邪魔します」
「こんにちは。挨拶は後でゆっくりしますね。どうぞ、乗って下さいな」
綺麗な笑顔でそう言われ、俺は頷くと慶に続いて車に乗り込んだ。
慶の家は駅からは本当に少し離れた場所にあった。だが、大きな町だけに駅から離れても繁華街があちこちに散らばっていて、郊外という訳ではなかった。
父親が病院経営者だけあって、家は随分立派だった。
家と病院が隣接しているのかと思ったが、病院はもっと駅の傍にあったらしい。前を通ってきた訳ではなかったので、何処にあったのかは分からなかった。
慶の家は敷地も広く、家だけでなく庭も立派だった。
庭木も良く手入れされていて、花壇も沢山の花で彩られていた。特に、母親の趣味なのかバラの種類が沢山あり、季節には随分と華やかな庭になるのだろうと思った。
少し高台に立っているので、目の前が開けていて窓からの見晴らしも良さそうだった。
リモコン式の門扉を開き、カーポートに車を止めると、慶の母親は俺を案内しながら玄関へ向かった。
大きいだけでなくお洒落な家で、きっと著名な建築家のデザインなのだろう、既製の家にはない凝った造りがあちこちに見られた。
「瑠衣子は部屋?」
玄関から中へ入ると、すぐに慶はそう訊いた。
「ええ。慶さんが着いたらすぐに知らせてくれって…」
笑いながらそう答えた母親に慶も笑みを浮かべて言った。
「いや、俺たちが行くよ。……千冬、来いよ」
「あ、うん…」
促されて、俺は慶に続いて階段を上ろうとした。
すると、母親が荷物を置いていくように言い、俺は軽く頭を下げてそこへ荷物を置いた。
階段の途中で待っていた慶に合流し、俺は彼と一緒に2階へ上ると、また後に付いて 妹の部屋の前まで行った。
慶がドアをノックすると、すぐに中から返事が聞こえた。
ドアを開けると、その肩越しに明るい部屋の中が見えた。
そして、俺は見たのだ。
慶が入っていった部屋の奥に、大きなベッドがあった。
その上に、まるでお人形のようなレースの服を着て、天使がこちらを見て笑っていた。
「慶ちゃんッ…」
天使は、慶の姿を見るなり叫ぶと、ベッドから飛び降りようとした。
「こらっ、駄目だッ」
慶が慌てて駆け寄り、両手を差し伸べて彼女を抱きかかえた。
「無茶するなよ。折角帰れたのに、また病院に逆戻りだぞ」
「はぁい…」
ぷっと膨れたその顔さえ可愛い天使は、俺に気づくとパッと表情を変えた。
頬を染めて、恥ずかしそうに、だが、好奇心いっぱいで俺を見る。
俺は何だかくすぐったいような気持ちになった。
「千冬さんですか?」
きらきらと輝く瞳が、俺を見つめて言った。
「は、はい。高梁千冬です。はじめまして…」
思わず深々と頭を下げた俺を見て、慶が笑った。
「千冬、これが妹の瑠衣子だ」
病気だと聞いていたが、ピンク色の頬をした妹は身体が悪いようには見えなかった。
何よりも、とても綺麗な大きな目が印象的で、緩やかにウエーブした長い髪も艶々と輝いていた。
「はじめまして。……わぁ、嬉しいッ。ホントに来てくれたんだッ」
ベッドに近付いた俺に、瑠衣子ちゃんはそう言って手を差し伸べた。
俺はその手を握って彼女と握手すると、照れ臭くて思わず笑って誤魔化そうとした。
俺はさっきから、彼女の視線がくすぐったくて堪らなかった。
慶から、俺に会いたがっていると聞いていたが、まさか、こんなに喜んでもらえるなんて思ってもみなかったのだ。
慶は俺と彼女が似ていると言ったが、似ているのは色が白いということぐらいだと俺は思った。俺はこんなに綺麗な目をしていないし、さくらんぼみたいな唇もしていない。
年は12~3歳ぐらいだろうか。彼女は本当に絵本などに良く出てくる天使のような女の子だった。慶が可愛くて堪らないのも分かるような気がする。
「慶ちゃんがね、千冬さんと私が似てるって言うの。男の人相手に変なこと言うって思ってたけど、でも、千冬さんに会ったら嬉しくなっちゃった。だって、こんなに綺麗な人だなんて思ってなかったし……」
無邪気にそう言う瑠衣子ちゃんの言葉を聞いて、俺の顔は多分、真っ赤になっていただろう。
「き、綺麗って、俺が…?」
吃驚して訊き返すと、瑠衣子ちゃんは真剣な表情で頷いた。
「うん。私、こんなに綺麗な男の人に会ったことない。だから、似てるって言われて嬉しいの」
本気でそう言っているのが分かるからこそ、俺は恥ずかしくて堪らなかった。
病院に居ることが多いらしい瑠衣子ちゃんだから、人に会う機会も少ないに違いない。だから、こんなことを思うのだ。
(友井先輩に会ったら、きっと吃驚して声も出ないんじゃないかな?)
心の中でそう思い、俺は益々恥ずかしくなってしまった。
助けを求めるように見ると、慶は吹き出さんばかりの顔をしていた。
やはり、瑠衣子ちゃんの言葉がおかしかったのだろうと俺は思った。
慶はもっと色んな人を知っている。“綺麗”という言葉に値するのはどんな相手か、ちゃんと知っている。
だから、笑うのだ。
キュッ、と胸が掴まれるような気分になって、俺は慶から目を逸らした。
「ありがとう。嬉しいけど、俺なんか綺麗でもなんでもないよ。瑠衣子ちゃんの方が、ずっとずっと、綺麗で可愛いよ」
俺がそう言うと、瑠衣子ちゃんはまた頬を染めて嬉しそうな顔をした。
「ありがとう……」
素直なんだな、と俺は思った。
本当にきっと、心も天使のようなのだろう。
俺なんかと全然違う。
醜い俺と、彼女とでは似ているところなんか一つも無い。慶が一体何を思ってそんなことを言ったのか、俺には少しも理解出来なかった。
「瑠衣子、もうお昼だろうから、一旦部屋へ行くよ。後でまたゆっくりな?」
「うん。じゃあ、千冬さん、また後でお話聞かせて下さい」
「うん。じゃあ……」
俺は頷くと、慶の後について部屋を出た。
ドアを閉めた後、慶は振り返って笑みを見せた。
「瑠衣子、随分はしゃいでたろ。ホントに千冬に会えて嬉しいんだよ」
「そうなのかな……?喜んでもらえて俺も嬉しいけど…」
先に立つ慶に付いて行きながら俺は言った。
「でも、本当に可愛いね。俺、最初、お人形が座ってるのかと思った」
「ははは…。まあ、あんな服着てるしなぁ。病院に居ることが多くてパジャマばっかり着なきゃならないから、家に帰った時ぐらい可愛いものを着せたいって、母さんが用意してるんだ。だから、家ではヒラヒラした服ばっかり着てるよ」
「そうなんだ。でも、ホントに良く似合ってる」
俺が言うと、慶も頷いた。
「まあな。瑠衣子はボーイッシュな服より、ああいう方が似合うかもな」
そう言うと、慶は先ず、自分の部屋に俺を連れて行った。
そこは12畳ほどの洋室で、ベッドと机の他は本棚ばかりが目立つ部屋だった。
「なんも無いだろ?」
苦笑しながらそう言うと、慶は荷物をそこへ置いてまた部屋を出た。
「千冬の部屋はこっち…」
隣のドアを開けると、慶は俺を促して中へ入った。
そこは客室らしく8畳ほどの洋室で、整えられたベッドの他には小さなクローゼットと、二人掛けのソファと小さなテーブルがあった。おまけに、キャビネットの上には小型のテレビまである。
まるで高級なホテルの客室みたいな部屋に俺は驚いてしまった。
「こんな立派な部屋、使っていいの?」
俺が訊くと慶は笑って頷いた。
「客室はふたつあるけど、どっちも同じだよ。遠慮しないで使えよ」
「うん…」
母親が運んでおいてくれたのか、俺の荷物がちゃんと部屋に届いていた。
慶は、クローゼットを使うように言い、それから、エアコンのリモコンの使い方やトイレと洗面所の場所などを教えてくれた。
「2階の端にもシャワールームがあるけど、風呂は1階なんだ。後で教えるよ」
「うん、ありがとう…」
「多分、もう昼飯が出来ている筈だから下りようか。飯食ってから、また案内するし」
「うん」
俺は頷くと、また慶の後に付いて階下へ降りた。
広々としたリビングを通ってダイニングへ行くと、そこにも立派なダイニングテーブルのセットや家具があった。
食事は慶の母親が作ってくれたらしかったが、資産家らしくダイニングにはもう一人お手伝いさんらしい女性が居て、キッチンから料理を運んでいた。
「小松さん、俺の学校の友達で高梁君です。暫く家に居るので宜しく」
慶が紹介してくれて、俺は小松と呼ばれたその女性に頭を下げた。
すると、50代半ば位の感じのいいその女性は、優しげな笑みを浮かべて丁寧に頭を下げた。
「小松です。宜しくお願いします」
「高梁千冬です。お世話になります」
お互いに挨拶をすると、小松さんはまた台所に戻って行った。代わりに慶の母親が、サラダの入ったガラスの器をを手にして出て来た。
「千冬さん、慶さんも座って。お腹空いたでしょう?今、スープを持って来ますから」
慶が頷いて、俺を促して座った。
「瑠衣子の食事は?」
慶が訊くと母親が答えた。
「うん、瑠衣子はもう済んだわ。さ、千冬さん、どうぞ召し上がれ」
「ありがとうございます。頂きます」
俺は礼を言うとスプーンを取った。
料理は、ポテトサラダとシーフードピラフと冷製のポタージュだった。
料理はどれも美味しく、家庭料理と言うよりはレストランの味だった。慶の母親はちゃんとした料理教室にでも通っていたのかも知れない。
美人で上品で、いかにもお金持ちの奥様らしい人だったが、気取った感じはしない。そして、やはり瑠衣子ちゃんに良く似ていた。
だが、慶は父親似なのか、彼女に似ているところは少しも無かった。
食事を終えると、慶はまた家の中を案内してくれた。
風呂場やトイレの場所を教えてもらい、俺たちはまた2階に戻って慶の部屋に入った。
「疲れたろ?少し横になるか?」
訊かれて俺は首を振った。
「ううん、平気…」
折角、慶と居るのに眠ってしまうなんて勿体無くて出来なかった。
「じゃあ、少し近所を歩く?」
訊かれて、俺はすぐに頷いた。
「うん。行きたい」
まるで、慶を独り占めしているような気分になり、俺は胸を高鳴らせた。
慶が母親に外出を断ってくるのを玄関で待ち、俺は彼と一緒に外へ出た。