涙の後で


-3-

暫く話をして、俺たちは瑠衣子ちゃんの部屋を出た。
慶は自分の部屋に来て音楽でも聞かないか、と誘ってくれたが、俺は部屋に戻ると言った。
「ちょっと疲れたし、少し横になりたい。いい?」
俺が言うと、慶は頷いた。
「勿論。じゃあ、夕飯になったら呼ぶから、ゆっくりしてろよ」
「うん。ありがとう……」
俺はそう言うと、客間へ戻った。
部屋に入り、綺麗に整えられたベッドへ腰を下ろす。そして、そのまま大の字に後ろへ倒れた。
瑠衣子ちゃんと話すのは嫌じゃない。彼女は可愛いし、素直だし、話すのも楽しい。だが、妙に緊張するのも確かだった。
いや、俺は、この家に来てからずっと緊張していた。
学校以外で、ずっと慶の傍にいるということに、俺は慣れていないのだ。だから、妙に緊張してしまうのだろう。
一人になって、やっと寛げたような気がして、俺は伸びをすると目を閉じた。
ここから帰る頃には、慶の傍にいることに慣れるだろうか。
学校では見たことの無い、慶の表情を見ることにも慣れるだろうか。
緊張しているだけではない。
俺は、見たことの無い慶の表情を見せられる度に、ドキドキして、そして、切なくなっていた。
そんな感情の起伏が、俺を余計に疲れさせていたのかも知れない。
ゴロリと寝返りを打ち、俺は目の前にあった自分の手をじっと見た。
俺には見せてくれたことの無かった、慶の顔。
瑠衣子ちゃんの前では、慶は随分沢山の表情を持っているのだと知った。
それが切なくて、そして、悲しかった。



夕食の時にも、慶の父親は帰って来なかった。
病院経営者だと聞いていたが、忙しいのだろう。夕食に間に合わないことも度々なのか、家族が気にしている様子は無かった。
夕食も、夫人の手作りでとても美味しかった。
瑠衣子ちゃんは病気の所為か、食が細いらしく余り食べなかったが、家族揃っての夕食をとても喜んでいて、嬉しそうだった。
食事の終わりに、手作りのプリンまで出て来て俺は驚いた。
すると、慶が笑いながら言った。
「母さんはお菓子の先生の資格を持ってるんだ。今は教室は開いてないけど、時々、頼まれて近所の奥さんたちに教えてる。さっき俺が、千冬はプリンが好きなんだって言ったら作ってくれたんだよ」
「ええ?わざわざ?…あ、ありがとうございます」
俺が驚いて頭を下げると、夫人は笑いながら手を振った。
「そんな大袈裟よ。プリンなんてすぐに出来るんだから…。明日は、ちゃんとしたケーキを作るわね?瑠衣子にはレアチーズケーキをリクエストされてるんだけど、千冬さんはどんなケーキが好きかしら?」
「ケーキなら、何でも好きです」
俺が答えると、夫人は頷いた。
「そう?なら、材料を見に行ってから決めましょう。……そうだ、良かったら、明日一緒にお買い物に行かない?」
誘われて、俺は戸惑い、助けを求めるように慶を見た。
すると、慶は母親に頷いて見せた。
「そうだね。それじゃ、一緒に買い物に行って、その後、二人で街を歩こうか?」
慶の言葉に俺はすぐに頷いた。
「うん」
嬉しくて、思わず声が弾んでしまった。
皆に気づかれなかっただろうかと気にしていると、前の席で瑠衣子ちゃんが僅かにうな垂れた。
「いいなぁ…」
寂しそうな彼女の顔を見て、俺は慰めの言葉を探そうとした。だが、何を言っていいのか分からずに戸惑っていた。 すると、夫人が彼女の肩に手を置いて言った。
「瑠衣子もお買い物だけなら行ってもいいわよ」
「ほ、ほんとッ?」
サッと顔を上げ、瑠衣子ちゃんは目を輝かせて母親を見上げた。
「その代わり、あんまりはしゃいだりしないこと。いい?」
「うんっ。大人しくしてるッ。わぁい、嬉しいッ」
言いながら、瑠衣子ちゃんは俺と慶の顔を交互に見た。
「一緒に出かけられるなんて思ってなかった。嬉しいッ…」
「良かったな?」
慶も嬉しそうにそう言って瑠衣子ちゃんに笑いかけた。
瑠衣子ちゃんにまたキラキラした笑顔を向けられ、俺も釣られて笑った
「千冬さん、明日は10時頃に出ましょうか?私の車で街まで行って、お買物をしてから解散しましょう。帰りは、二人で帰ってらっしゃい」
「あ、はい。ありがとうございます」
夫人に言われて俺は頷くと、プリンにスプーンを入れた。
そして、口に入れた途端、俺は驚いた。
「美味しい……ッ。凄く美味しいです、このプリン」
お世辞ではなく、心から感動して言葉が出た。夫人のプリンは高級洋菓子店のプリンに引けを取らない味だったのだ。
「そう?良かった」
「はい」
俺は夫人に笑みを返すと、プリンを食べ続けた。すると、甘いものが好きではない慶は、自分の分を俺の方へ押しやって言った。
「俺のも食べろよ」
「いいの?」
訊くと、慶は頷いた。
「ありがと。じゃあ、貰う…」
俺が答えると、そのやり取りを見ていた瑠衣子ちゃんがホッと溜め息をついた。
俺が目を上げると、瑠衣子ちゃんは羨ましそうに言った。
「慶ちゃんと千冬さんって、本当に仲良しなんだ。いいなぁ…」
「な、仲良しって……」
頬に血が上る。まさか、瑠衣子ちゃんからそんな風に言われるなんて思いもしなかった。
「私……、あんまり学校に行けないし、お友達と出掛けた事とかも殆ど無くて…。だから、羨ましい」
瑠衣子ちゃんがそう言うと、慶は苦笑しながら答えた。
「でも、病院にも家にも、友達が会いに来てくれるだろ?メールくれたり、手紙くれたりするって言ってたじゃないか」
「……うん。そうだよね。みんな、ホントに優しいんだ」
気を取り直したように笑い、瑠衣子ちゃんはそう言った。
病気の所為で、同じ年頃の女の子がしていることも出来ないだろうし、何より、普通に生活出来ないことが辛いだろう。それなのに、なんと健気な子だろうと俺は思った。
「ああ、明日、楽しみだなぁ…。慶ちゃんと千冬さんと一緒に出掛けられるなんて、嬉しくて眠れないかも」
そう言うと、瑠衣子ちゃんは、また綺麗な笑顔でみんなを見回した。



俺が風呂に入って出てきた時、丁度、慶の父親が帰って来た所だった。
出迎えていた夫人に紹介され、俺は頭を下げた。
「お留守中にお邪魔してます。こんな格好で済みません。慶君と寮で同室の高梁です。暫くの間、お世話になります」
すると、戸田院長は僅かに笑みを見せて頷いた。
「はじめまして。礼儀正しくて素晴らしいね。慶が迷惑を掛けてるんじゃないかな?」
「い、いいえ。俺の方が世話になってます」
俺の答えを聞いて、戸田院長は苦笑した。
「慶に人の世話なんか出来るとは思えないが…。兎に角、息子と仲良くしてくれてありがとう。私は余り顔を合わせる機会も無いでしょうが、妻が持て成しますのでゆっくりしていって下さい」
「ありがとうございます」
俺はもう1度頭を下げて、自分の部屋へ戻る為に階段に足を掛けた。
慶の父親は、慶に良く似ていた。きっと、慶も歳を取ったらあんな感じになるのだろう。
慶によく似た、綺麗な顔立ち。中年太りなど、何処にも感じられないすらりとした体躯。
誰かの父親と言うより、男性として素敵な人だと俺は思った。
ふと振り返ると、上着を脱ぎながら、慶の父親が此方を見上げた。
ドキリとして、俺は慌ててもう1度頭を下げると、階段を上る足を速めた。
最初、慶に会った時と同じだと思った。
あの、少々怖いような同じ眼差しで慶の父親も俺を見た。そんなところまで、慶は父親に良く似ている。
「どうした?」
声を掛けられてハッとして見上げると、階段の上に慶が居た。
「あ…、お風呂から出たら丁度お父さんが帰って来たところで、挨拶を……」
すると、慶の顔が僅かに曇った。
「そうか、親父、帰って来たんだ。……じゃあ、俺も挨拶するか」
最後は苦笑気味にそう言い、慶は俺の脇を通って下に下りて行った。
やはり、慶と父親は余り仲が良くないようだ。
実の父親のことを殆ど覚えていない俺にとって、父親と息子の関係というのが余り良く分からなかった。
でも、慶は実の父親に気を遣っているように感じられた。
俺は、慶がリビングの方へ消えて行くのを上から見送り、姿が見えなくなってから部屋へ戻った。
テレビをつけたが見たい番組がある訳でもなく、ただ闇雲に何度もチャンネルを変えてみたが、結局はまた消してしまった。
携帯電話を取り出し、真藤先輩か坂上にメールを打とうかと思った。
だが、何度言葉を探してみても気に入らず、それも止めてしまった。
溜め息をつくと、俺は携帯電話を投げ出してベッドに仰向けに寝転んだ。
天井を見上げて、また慶の事を考える。
考えてみれば、今夜は久し振りに別の部屋で寝るのだと気づいた。
そう思うと、寂しい。
だが、その反面、何だかホッとするのも事実だった。
今夜は、どんな寝相で寝ようと、寝言を言おうと、気にする必要は無い。まさか、そんな気分にはなれなかったが、それこそ、オナニーしたって平気なのだ。
俺が苦笑した時、ドアにノックの音が聞こえ、慶が顔を出した。風呂も済ませてきたらしく、濡れた髪を首に掛けたタオルで拭いていた。
「千冬、アイス食わないか?」
「あ、うん。ありがと…」
カップに入ったアイスを差し出されてスプーンと一緒に受け取ると、慶が部屋に来ないかと誘ってきた。
「あんまり新しいのは無いけど、ゲームがあるから、一緒にやろう」
「…うん」
返事をすると、俺は慶の後に付いて部屋に入った。
「座れよ」
そう言われて頷くと、俺は躊躇いがちにベッドに腰を下ろしてアイスのカップから蓋を外した。
同じように俺の隣に座ると、湯上りで暑かったのか、慶はエアコンのリモコンを取り設定温度を低くした。
「ふう…」
汗を拭きながら息を吐くと、今度はテレビのリモコンを持ち、テレビのスイッチを入れた。
見ると、俺には持って来てくれたが、自分の分のアイスは持っていなかった。
「慶は食べないの?」
訊くと、慶は鼻の上に皺を寄せながら頷いた。
「氷みたいなので、さっぱりしたのはいいけどな。アイスクリームとなると、甘くて駄目なんだ」
「そうなんだ。美味しいのに…」
俺が言うと、慶は何故か笑みを浮かべながら俺を見た。
「甘いものを食べてる時、千冬は凄く幸せそうな顔になる。そんなところも、瑠衣子と同じだなって…」
言われて、俺は目を逸らした。
「同じって……。違うよ、全然。そんなこと言ったら、瑠衣子ちゃんに失礼だ」
俺の言葉に、慶はばつの悪そうな顔をした。
「ごめん、また瑠衣子と一緒にして…。前にも反省したくせに、ホントに駄目だな、俺は…」
「違うよッ…」
俺はアイスクリームを掬ったスプーンを慌てて降ろして言った。
「瑠衣子ちゃんと似てるって言われるのが嫌なんじゃない。……そうじゃなくて、慶は誤解してるから…」
「誤解?」
訊き返されて、俺は頷いた。
「前にも言ったけど、俺は瑠衣子ちゃんとは違う。顔も心もあんなに綺麗じゃないよ。俺なんかと一緒にされたら、ホントに瑠衣子ちゃんに悪い。気の毒だ」
「そんなこと無い。俺は誤解なんかしてないよ」
言いながら、慶は俺の肩に手を置いた。
「千冬は本当に心が綺麗だと思う。それは、半年近く一緒にいたんだから良く分かるよ。それに、瑠衣子も言ってたろ?顔だって綺麗だよ。最初に寮の部屋に現れた時、俺もそう思った」
「わ、笑った癖に…ッ」
自分でも思い掛けなく、俺は叫んでいた。
「え…?」
驚いた慶の顔を見て、俺は後悔した。でも、もう後には引けなくて、言葉を続けた。
「さ、さっき…、笑ったろ?瑠衣子ちゃんが俺を綺麗だって言ってくれた時……。可笑しかったんだろ?だって俺は……」
友井先輩みたいに綺麗じゃない。
そう言おうとして言葉を飲み込んだ。
友井先輩の名前を口に出すのは良くないと気づいたからだ。
「千冬…」
慶の手がもうひとつ伸びてきて、今度は両肩を掴んだ。
「さっき笑ったのは、そういう意味じゃないよ。瑠衣子は子供だから、思ったままを口にするところがあるだろ?そんな瑠衣子に千冬が戸惑っているのが分かって、それが何だか微笑ましかった。だから、笑ったんだ」
顔を上げると、慶がじっと俺を見つめていた。
「気に障ったなら謝るよ。でも、そんな意味で俺は千冬を笑ったりしない」
「ご、ごめん……」
恥ずかしくなって俺は顔を伏せた。
「僻みっぽいんだ…、俺って。ホントにごめん…」
「そんなこと思ってない」
言いながら、慶の手が肩から頬へ移ってきた。
そして、俺の頬を指の甲でそっと撫でた。
「繊細なんだよ、千冬は。……分かってるから」
(な、なに…?どういう意味……?)
言葉ではない。
慶のこの行動が、俺には理解出来なかった。
そして、胸がドキドキして、苦しくて、俺はどうにかなりそうだった。