涙の後で


-5-

カフェに入ってお茶を飲み、まだ名残惜しそうな瑠衣子ちゃんと別れると、俺と慶はデパートを出た。
「何処に行こうか?」
訊かれて、俺は首を振った。
何処と言われても、この街を知らない俺には何も言いようが無い。
すると、慶は思いついたように小さく頷いた。
「そうだ。プラネタリウムに行かないか?前に言ったと思うけど、ここにもあるんだ。小さいけどな…」
「あ、うんっ。いいよ、行きたい」
俺が答えると慶は笑みを見せた。
「じゃあ、行こう。こっち…」
促した慶に付いて、俺は歩いて5分程の建物へ向かった。
公共の施設らしく、プラネタリウムは料金も安かった。下から見上げると、天辺の球体部分は確かに、前に二人で行ったプラネタリウムより小さかった。
上映時間を見ると、次の回まであと10分程だった。俺達は1階でチケットを買い、エレベーターで最上階へ昇った。
少し待つと、部屋のドアが開いて中からぱらぱらと人が出て来た。
全員が出終わると、待っていた他の人たちと一緒に俺達も中に入った。
小振りな施設だったが、椅子の具合は悪くなかった。俺達は丁度真ん中辺りに陣取って並んで椅子に座った。
前に一緒に星を見た時、慶は何故か俺の手を握って最後まで離さなかった。
それを思い出して、俺は少しドキドキしていた。
あの時、慶は一体、何を思って俺と手を繋いでいたのか、今でも俺はその訳を知らずにいた。

今度も、手を繋いでくれるのだろうか……。

ほんの少し期待していたが、肘掛に置かれた慶の手は動こうとはしなかった。
(そんな訳無いか……)
あの時は、単なる気まぐれだったに違いない。
そう思って、俺はホッと息を吐いた。
本当は、また手を握ってくれたら嬉しいと思った。でも、期待するのは間違っている。
場内が暗くなり、アナウンスが始まった。
星の物語を静かに聞きながら、俺は満点の星空を、また慶と一緒に眺めた。
そっと視線を動かし、俺は慶の横顔のシルエットを密かに見た。
すると、昨夜のことが不意に蘇り、俺はまた切なくなった。
キスして欲しいと言った、俺を見た時の慶の顔は、明らかにあり得ない事を耳にした驚きに満ちていた。
慶の中で、俺とのそんな行為は、絶対に有り得ない事なのだ。
幾ら待っても、慶は俺を恋愛感情で好きになってくれることはない。
それを俺は、昨夜、改めて思い知らされた。
それなのに、まだ少しも諦められない。
好きで、好きで、痛いほどに慶のことが好きだった。

1時間10分。

慶の隣で、俺はただ黙って星を見ていた。
慶も何も話し掛けては来なかった。
そして、上映が終わって明るくなると、1度伸びをして俺の方を見た。
「行こうか?」
「……うん」
「どうかした?」
訊かれて俺は首を振った。
「ううん。……綺麗だったね」
「ああ。何処かで飯食おう。何か食べたい物あるか?」
立ち上がりながらそう言い、慶は先に立って歩いて行った。
「なんでもいい。…慶の食べたいのでいいよ」
背中に向かって俺が言うと、慶は振り向いた。
「今夜は和食だって言ってたな?じゃあ、パスタとかでいいか?」
「うん…。なんでも……」
プラネタリウムを出て、俺はまた慶に案内されて近くのレストランへ行った。
リーズナブルな店だったが、パスタの種類が沢山あって美味しかった。 食事を終えると、慶が本屋へ行きたいと言い、少し遠いが大きな書店へ向かった。
そこで、慶が欲しかった本を買い、俺も面白そうな小説を薦めてもらって2冊ほど買った。
その後は街をぶらぶらして、興味を惹かれた店があると入ったりして2時間ほどを過した。
カフェに入って休憩した時、明日は少し遠出しないかと慶が言ってきた。
「何処に行くの?」
「電車とバスを乗り継ぐけど、1時間くらいで大きな公園へ行けるんだ。小さいけど遊園地もあるし、広い芝生の原っぱや遊戯施設も色々あるんだ。まあ、小さい子供が喜ぶようなところだけど、のんびり過すには結構いいよ」
「ふぅん…。いいね、連れてって」
俺が言うと、慶は笑みを見せて頷いた。
「じゃあ、午前中の内に行こう」
「うん。楽しみ…」
昨夜のことを、慶はもう全然気にしていないようだった。
それは俺を安心させたが、その反面で切なくもさせていた。
慶がずっと隣に居る毎日はまだ続く。
学校では同じ部屋に暮らしていても、隣り合って座ることなど殆ど無い。
でも、並んで座った座席で、今は肩が触れ合うほど近くに居られる。
それを俺は、途轍もなく幸せに感じていることに気づいていた。
疲れた振りをして肩に頭を乗せても、きっと慶は嫌がったりしないだろう。
でも、そんな勇気も出せないまま、バスは家の近くのバス停に着いてしまった。



俺達の帰りを首を長くして待っていたらしく、瑠衣子ちゃんは玄関まで迎えに来てくれた。
買ってきた本を見せたりして少し話し、その後は居間でテレビを見たりして過した。
その夜も、慶の父親は遅い時間まで帰って来なかった。
俺が部屋に入った後に帰って来たのだろう。とうとう、顔を合わせることも無かった。
ベッドに入ったが寝付かれず、12時近くになって、俺は思いついてあのオーディオ室に行ってみることにした。
何か音楽でも聴いていれば、眠気がやって来るかも知れないと思ったのだ。
すると、そこには先客がいた。
「あ、済みません。誰も居ないと思ったので……」
昨日見たのとは違うラフな服装で、戸田院長はソファにゆったりと座り、クラッシックを聴いていた。
「いや、構わないよ。眠れないの?」
訊かれて、俺は閉めようとしたドアを途中で止めて頷いた。
「あ、はい…」
「入っておいで。紅茶でも淹れよう」
「え?…でも、お邪魔じゃ…」
俺が躊躇うと、院長は立ち上がって笑みを見せながら手招きをした。
「邪魔なんかじゃないよ。ほら、入って座りなさい」
「はい。じゃあ、ちょっとだけ……」
俺は中に入ると、ドアを閉めてソファに腰を下ろした。
すると、ワゴンの上にあったポットへお湯を入れ、院長は紅茶を淹れてくれた。
そして、そのカップを俺に渡す前に、自分が飲んでいたブランデーのデキャンターからカップの中に少し注いだ。
「眠れるように少し多目に…。苦かったら砂糖を入れるといい」
「ありがとうございます」
紅茶にブランデーを入れたことなど無かったので少し不安だったが、俺は礼を言って一口飲んだ。
ふわっ、といい香りがして、紅茶はとても美味しかった。
「こんな音楽じゃ退屈かな?」
訊かれて、俺は慌ててカップから口を離すと首を振った。
「い、いいえ。そんなこと無いです。綺麗な音楽ですね」
「そう?じゃあ、一緒に聴こうか」
院長はそう言って、俺の隣に腰を下ろした。
少し取っ付き辛い感じがしていたが、こうして話してみると院長は優しそうに見えた。
第一印象が怖い感じがするところも慶に似ているのかも知れない。
「寮生活はどう?不自由じゃないのかな?」
「いいえ。慣れると快適です。設備もとてもいいので……」
「そうか…。慶のヤツは寝坊だろ?しっかりして見えるのに、朝だけは起きられない。昔からそうなんだよ」
笑いながらそう言い、院長はグラスを手に取った。
「はい。油断してると目覚ましを止めてまた寝てしまうので…。でも、最近は……」
友井先輩のモーニングコールのことを話そうとして、俺はハッとして口を噤んだ。こんなことを、親に言う訳にはいかない。
「携帯のアラームもセットしてるので、ちゃんと起きてるみたいです」
急いでそう言い繕い、俺は笑みを唇に貼り付けた。
「そう。少しは成長したのかな…」
院長は苦笑しながらそう言うと、ブランデーに口をつけた。
「あいつは……、なんと言うか、人と親しくなるのが苦手らしくてね。今までに友達を家に連れて来たことなんて殆ど無かった。君の事は随分信頼してるんだと思う。面倒なヤツでしょうが、仲良くしてやって下さい」
院長の言葉に、俺は驚くと共に嬉しくなった。
本当に少しは、慶の“特別”になれたように思えたのだ。
「そんな…。俺の方こそ、いつも助けてもらってるんです。慶はしっかりしてるし、それに比べて、俺は弱虫だから…」
「そうは見えないけど…。慶に比べれば小柄で見た目はか弱そうだけど、千冬君はきっと、芯はしっかりしてるんじゃないのかな」
「あ…、ありがとうございます」
俺が頭を下げると、院長はふっと笑った。
「千冬君は素直でいいね。…兄弟は?居ないの?」
「ええ。…父が2歳の時に亡くなったので…」
俺の言葉に、院長は眉を寄せた。
「そんなに早くに…?じゃあ、お母さんは苦労なさったんだろうね」
「そうですね。でも、元気な人だし仕事も好きなので、俺はお金の面では不自由な思いをしたことはありません。母が居なくて寂しかった思いは少しはあるけど…」
「そうか…。だが、今の君を見ると、お母さんがしっかり育ててくれたのが分かるね。きっと、素晴らしい人なんだろう」
随分と持ち上げられて、俺は何だかくすぐったくなった。
「あの…、もう失礼します。折角お寛ぎの所をお邪魔してしまって…」
立ち上がろうとすると、院長は俺の手を掴んだ。
「邪魔なんかじゃないって言ったろ?良かったら、もう少し話をしよう」
「でも……」
俺が躊躇うと、院長はにっこりと笑った。
「私は慶に嫌われてるんでね、帰って来ても碌に話もしてくれない。だから、代わりと言っては何だが、もう少し付き合ってくれないかな?」
そう言われて、俺は座り直した。
もしかすると、慶の口から聞けない学校の様子などを、俺から聞きたいのかも知れない。
紅茶のお代わりを貰い、俺はまた院長と話を始めた。
学校のこと、寮のこと、それから俺の家族の話。
ゆったりとした音楽を聴き、紅茶に入れてもらったブランデーも手伝ってか、院長の低い穏やかな声に眠りを誘われ、俺は次第にぼんやりとしてきてしまった。
「眠くなった?」
笑みを含んだ声に耳元で訊かれて、頷いたのは覚えていた。
だが、それ以降の記憶は俺の中に何も存在しなかった。