涙の後で
-6-
目が覚めた時、俺は自分のベッドの中にいた。
まだ、ぼんやりとした頭で、明るくなっている窓のカーテンを見つめると欠伸をして起き上がった。
そして初めて、昨夜のことを思い出したのだ。
「あ、あれ……?」
昨夜、俺は部屋に帰って来た記憶が無かった。
院長と話していたのは覚えているが、それからの記憶が無い。
サーッと、背中に冷たい物が走り、俺は慌てて布団を蹴って起き上がった。
「わ、拙い……ッ」
きっと、院長が眠ってしまった俺を、部屋まで運んでベッドに寝かせてくれたに違いなかった。
殆ど初対面の人に、しかも慶の父親にそんな面倒を掛けたのかと思うと、俺は恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちだった。
小さい子供ならまだしも、俺はもう高校生なのだ。それなのに、人前で眠りこけ、しかも運んでもらうなんて恥ずかし過ぎる。
「お、重かっただろうな…」
呟いて、俺は頭を抱えるとベッドに突っ伏した。
幾ら小柄で痩せ気味だとは言え、俺を抱えるか背負うかして運んでくれたのだろう。きっと、酷く重かったに違いない。
「…謝らなくちゃ」
今度顔を合わせたら、お礼と謝罪をしようと思った。
だが、父を知らない俺にとって、実はこの出来事は恥ずかしいだけではなかったのだ。
何だかくすぐったいような、甘酸っぱい気持ちがして、俺は思わず口元を綻ばせた。
父さんに抱き上げられた記憶は俺の中には残っていない。だから、何だか少し嬉しかった。
「お父さん、か…」
慶とは上手くいっていないようだったが、俺は戸田院長が嫌いではなかった。最初は怖い感じがしたが、話してみると凄く優しい人だと思えた。
遅くまで仕事をし、そして朝も早くに行ってしまうので、もう余り会う機会も無いかもしれないが、俺はまた院長と話をしたいと思った。
着替えて顔を洗い、慶の部屋をそっと覗くと、彼はまだ夢の中だった。
起こそうかと思ったが、折角の瑠衣子ちゃんの仕事を取ってしまうのは悪いと思い、俺はまたそっとドアを閉めて部屋へ戻った。
慶は毎晩、夜中まで小説を書いているのだろう。だから、朝は起きられないのだ。
いつか、慶の小説を読ませてもらえるだろうか。
それほどの信頼関係を、築くことが出来るだろうか。
院長が言っていたように、本当に俺は慶に信頼されているのだろうか。
俺に対する同情だけではなく、別の意味もあって慶は俺を家に連れて来てくれたのだろうか。
色々なことが浮かんで、何だか胸がいっぱいになった。
ホッと息を吐いて、俺は部屋を出ると階下に降りた。
リビングから庭に出ると、院長の車が通りに出て行くのが見えた。
(あ……)
急いで走ったが、広い庭なので追いつかなかった。
「いってらっしゃい」
小さな声で呟き、俺は院長の車が見えなくなるまで見送った。
暫く庭を見て回り、リビングに戻ると慶が待っていた。
「おはよう」
「おはよう…」
俺が答えると、中に入れるようにと慶は身体を除けてくれた。
「母さんが駅まで送ってくれるって。飯食って、暫くしたら行こうか?」
「うん」
嬉しくて思わず笑顔になった。
二人きりでまた出掛けられる。本当は場所なんて、俺にとっては何処でも良かった。
「お出掛けするの?」
慶の後ろで声がして、見ると瑠衣子ちゃんが立っていた。
「ああ、ほら、T市の市民公園へ行こうと思って」
「知ってる。広くて綺麗なんでしょ?……いいなぁ…、私も……」
行きたい、と言おうとしたのだろう。だが、瑠衣子ちゃんは口を噤んだ。
「あ、もうご飯の用意出来たみたい。行きましょう、千冬さん」
代わりに表情を変えてそう言うと、瑠衣子ちゃんは俺の腕を掴んで引いた。
俺は振り返って慶を見た。
瑠衣子ちゃんは間違いなく俺たちと一緒に出掛けたがっている。でも、無理だと分かっているから言わなかったのだ。
見ると、慶は複雑な表情をして首を振って見せた。
可哀想だが、返事は“駄目だ”と言う意味なのだろう。
こうしていつも、瑠衣子ちゃんは我慢しているのだな、と俺は思った。
昨日、ほんの数時間の外出でもあんなに嬉しそうだった。本当なら、今日も一緒に連れて行ってやれたら、どんなに喜ぶだろう。
だが、どうやらそれは許されないことのようだった。
食事を済ませ、俺はまた庭に出た。
広い芝生の上に、白いガーデンテーブルと椅子が数客置いてある。そこに腰を下ろして、綺麗に手入れされている花を眺めた。
瑠衣子ちゃんに比べたら、俺はずっと恵まれている。
好きな時に、好きな場所へ行けて、しかも大好きな慶の傍にこうしてずっと居られるのだ。
それなのに、彼女に嫉妬している自分が、本当に恥ずかしかった。
「千冬」
呼ばれて、そちらを見ると慶が庭に下りて来た。
「そろそろ行く?」
訊かれて、俺は返事を躊躇うと、近付いてきた慶に言った。
「あの、あのさ…、折角、久し振りに会えたのに俺ばっかりが慶を独占してて、瑠衣子ちゃん寂しいんじゃないのかな?俺は明日でもいいし、今日はさ、瑠衣子ちゃんと、もっとゆっくり話してあげた方が良くない?また、学校へ戻ったら暫く会えないんだし……」
「え…?」
俺の言葉に慶は少し驚いたようだった。
「でも、千冬だって折角来てくれたのに……」
「いいよ。ホントに今日じゃなくてもいいんだし、俺はいつでもいいから」
俺が言うと、慶は隣に腰を下ろした。そして、俺の顔を見ながら言った。
「ホントに優しいな、千冬は…」
「……そんなんじゃない。だって、俺が来なけりゃ、瑠衣子ちゃんが慶のことを独り占め出来たのに、急に俺が来ちゃったから寂しい思いをさてるんじゃないかって思うんだ。だから、ね?今日は瑠衣子ちゃんと居てあげなよ。俺はほら、昨日買って来た本でも読んでるし、気にしないで?」
「うん。ありがとう」
そう言うと、もう1度俺に笑いかけてから慶は席を立って戻って行った。
その姿が家の中に消えると、俺は両腕を前に伸ばして伸びをして、そのままテーブルの上に腕を乗せ身体を預けた。
勿論、本当は出掛けたかった。
だが、あんな寂しそうな瑠衣子ちゃんを見ていながら我侭を通すことは出来なかった。
「いいんだ……。だって、あんまりいい思いばっかりしちゃったら、後でまた辛くなるんだ、きっと…」
頬を腕に付けて2階を見上げると、慶の部屋の窓でレースのカーテンが揺れているのが見えた。
夏の日差しの眩しさに目を細めて、暫くそれを眺めると、俺は起き上がって家に戻った。
居間に戻ると、夫人が済まなそうな顔をして俺を見た。
「ごめんなさいね?気を遣わせてしまって…。瑠衣子、とても喜ぶと思うわ。本当は、慶さんが寮に入ってしまってから随分落ち込んでいたの。今度もね、退院しても慶さんが居ないなら帰らなくていい、なんて言って……」
「そうなんですか……。じゃあ俺、やっぱり来なければ良かったかな…。瑠衣子ちゃんに悪いことしちゃった……」
罪悪感に胸が痛んだ。
やはり俺は、随分邪魔をしてしまったらしい。
「ううん、そんなことないわ。千冬さんにもとても会いたがっていたのよ。だから、慶さんが千冬さんを連れて来てくれるって聞いて大喜びだったの。凄く楽しみにしてたのよ」
慌てて夫人がそう言ってくれたが、俺はやはり瑠衣子ちゃんに済まない気持ちを拭えなかった。
部屋で本を読むと言うと、夫人が飲み物を持って行くように言ってくれ、俺は冷蔵庫から炭酸飲料のペットボトルを1本出してもらった。
それを持って2階へ上がると、俺は部屋のソファに腰を下ろした。
昨日買ってきた本は袋から出してテーブルの上に載せてあった。
その帯を外し、ページを捲る。数行読んだが面白そうだった。
ペットボトルのキャップを空けて中味を飲むと、俺は本格的に本を読み始めた。
夢中で読んで午前中を過し、慶に呼びに来られて昼食に降りた。
午後もまた本を読むと言うと、瑠衣子ちゃんが躊躇いがちに言った。
「あの、今日はごめんなさい。私、邪魔するつもりじゃなかったんだけど……」
「そんなこと思ってないよ。俺もちょっと疲れてたし、公園に行くのは今日じゃない方が良かったんだ。それより…、俺の方こそごめんね?」
俺が言うと、瑠衣子ちゃんは驚いた顔をした。
「え…?」
「……俺、ちょっと学校で、色々あって…。でも、事情があって家に帰れなかったから、慶が同情して誘ってくれたんだ。迷ったんだけど、俺も気分を変えたかったし、甘えちゃって……。瑠衣子ちゃん、慶が帰って来るの楽しみにしてたのに、邪魔することになっちゃってごめんね?俺の所為で、慶との時間が減っちゃったよね」
俺の言葉に、瑠衣子ちゃんは必死で首を振った。
「ううんッ、そんなことないッ。千冬さんのこと邪魔だなんて思ってないよ。私、千冬さんに会えるの、本当に楽しみにしてたんだものっ」
「瑠衣子ちゃん…」
「慶ちゃんは、家に友達を連れて来てくれたことってあんまり無くて…。千冬さんのことは、メールや手紙で話してくれたから、どんな人かなぁってずっと考えてたの。でも、近くに住んでる訳じゃないし、会えないんだろうなって思ってた。だから、慶ちゃんから千冬さんを連れて帰るって連絡が来た時、本当に驚いて、嬉しくて、凄くワクワクしてたの」
そう言うと、瑠衣子ちゃんは俺の手を取った。
「ホントに来てくれて嬉しかったんです。だから、邪魔だなんて思ってない。嘘じゃないから……」
「ありがとう」
俺がやっと笑うと、瑠衣子ちゃんも笑ってくれた。
自分より小さい子に、こんなにも気を遣わせてしまうなんて馬鹿だと思った。何で俺はこうも浅はかなんだろう。
「千冬」
瑠衣子ちゃんの手を握ったまま振り向くと、入り口に慶が立っていた。
「あ…。なに?」
怪訝そうな表情をした慶に訊ねると、俺は瑠衣子ちゃんの手を離した。
「いや…。音楽でも聴かないかと思って。瑠衣子もどうだ?新しいCD、貸してくれよ」
「あ、うん。いいよ。…じゃあ、部屋へ行って取ってくるから、オーディオ室に行ってて」
嬉しそうにそう言って、瑠衣子ちゃんは部屋を出て行った。でも、俺は一緒に行くつもりは無かった。
「俺はいいよ。読みかけの本、読んじゃいたいし…。丁度、いいところなんだ」
「そうなのか?後ででいいから、良かったら来いよ。瑠衣子とは午前中にずっと話してたから、気を遣わなくていいよ」
残念そうに言われて俺は頷いた。でも、やはり行くつもりは無かった。
「ありがと。じゃあ、後で…」
そう言って、俺は慶を残したまま部屋を出た。
慶の気持ちは嬉しかったが、やはり今日は瑠衣子ちゃんと慶の時間を潰したくなかった。俺は部屋に戻ると、また本を読み始めた。
だが、根を詰めて読んでいたので1時間もすると疲れてしまった。
伸びをして、俺はベッドに横になった。
そのまま、首の凝りを解すように左右に振り、それから起き上がると肩を揉んだ。
ベッドから降りて部屋を出ると、身体を伸ばす為に、また庭へでも出ようかと階段を下りた。
すると、居間から夫人が顔を出した。
「千冬さん、お茶いかが?ワッフルを焼いたのよ」
「ありがとうございます。いい匂いがすると思った」
さっきからバニラの香りと、お菓子が焼けた香ばしい匂いがしていたのには気付いていた。
俺が答えると、夫人はちょっと首を傾げるようにして言った。
「瑠衣子たちは降りて来ないかしら?2階へ運んでやった方がいいかな?」
「あ、じゃあ、俺が運びましょうか?」
訊くと、夫人は笑みを見せた。
「あら、そうして下さる?じゃあ、千冬さんの分も一緒に持って行って?皆で一緒に食べてちょうだいな」
「あ…、はい」
俺は夫人が用意してくれたお茶とワッフルの乗ったトレイを受け取り、階段を上って行った。
真っ直ぐにオーディオ室へ行ってドアをノックしたが、返事は無かった。
ドアを開けてみると、中に瑠衣子ちゃんの姿は無く、慶が一人でソファに横になっていた。
どうやら、音楽を聴きながら眠ってしまったらしい。
瑠衣子ちゃんはどうしたのだろうと思いながら部屋に入ると、俺はトレイをテーブルの上に置いて眠っている慶の傍へ行った。
ソファの前に膝を突いて、慶を起こそうとして片手を上げる。
だが、その寝顔を見てふと手を止めた。
勿論、慶の寝顔は何度も見たことがある。
そして、キスしてしまおうかと思ったことも何度もあった。
「綺麗な顔……」
何度見てもそう思った。
慶の顔は、本当に俺の好きな顔なのだと改めて思った。
そして、一昨日の晩のことが俺の脳裏に急に蘇った。
どんなに望んでも、きっと一生、俺は慶とキスできる機会は無いのだろう。
そう思ったら、酷く悲しかった。
コクッと喉を鳴らし、俺はもう少し、慶の顔に近づいた。
そして……。
そっと……、
息がかかるくらいまで近くに、俺は慶に顔を寄せた。
そして、ゆっくりと唇を押し付けた。
眠っている相手に、閉じたままの唇を、やんわりと押し付けるだけのキス。
それでも、身体が熱くなった。
そして、胸も熱くなった。
だが、俺が慶にキス出来たのは本当に一瞬のことだった。
カタッ。
と背後で音が聞こえ、俺は吃驚して慶から離れると振り返った。