涙の後で
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諦めるんだ。
もう、きっぱりと諦める
瑠衣子ちゃんに約束した通り、俺は胸の中でもう1度そう呟いた。
「どれ?口を開いてみて?」
前に膝を突いた院長に頷き、俺は口を開けた。
「うん、喉は腫れてないな…」
そう言うと、院長は俺のリンパの辺りを指でぐりぐりと押した。
「痛い?」
「いいえ…」
院長は頷き、俺の下瞼を少し押し下げるようにして目をじっと見た。
「うん、風邪じゃないみたいだな。疲れが出たんだろう。頭痛薬を飲むかい?」
俺はまた首を振った。
「いいえ。大丈夫です。少し、横になってれば治ると思うし…」
俺が答えると、慶が脇から口を出した。
「でも、そう言って、午後からずっと治まってないんだろ?薬飲んだ方がいいって」
慶の言葉を黙って聞いていたが、院長は無理に薬を飲むようには言わなかった。その代わりに鞄を開けると、中から綺麗なリボンの掛かった小さな箱を取り出した。
「お土産」
渡されて、俺は吃驚して院長を見つめた。
「えっ?俺にですか?」
すると、院長は笑いながら頷いた。
「瑠衣子にも買って来たんだ。あの子が好きなチョコレートなんだが、慶は甘いものは食べないしね。君は好きだって聞いたから」
「え…?」
まだ驚いた顔のままで、俺は院長をまじまじと見た。
幾ら俺が甘いものが好きだからって、自分の子供の慶にも買って来ないお土産をくれるなんて吃驚してしまったのだ。
「疲れてる時は、甘いものを食べるといいよ。それから、もし、我慢出来なかったら、薬は用意してあるからね?」
「は、はいっ。ありがとうございます」
立ち上がった院長に向かって俺が頭を下げると、彼はまた笑みを浮かべて頷き、部屋を出て行った。
残った慶の顔を見て、俺はまた目を逸らした。
不機嫌そうな顔で、慶は院長の出て行った後を見ていた。
「いつの間に、親父と?」
振り返って慶は俺に言った。
「ゆ、昨夜…、眠れなくて音楽室に行ったんだ。そしたら、お父さんが居て、ちょっと話したんだ。……学校のこととか」
「ふぅん…」
「あ、あの、ごめんね?心配掛けて…。でも、ホントに大丈夫だから」
そう言った俺の傍に来て、慶は院長と同じように膝を突くと、俺の顎に手を掛けた。
「嘘だ。なんかあったんだろ?こっち向いて…」
「な、何にも無いよ。ホントだって…ッ」
慶の手を振り払って俺は言った。
「ただ、ただちょっと、……俺…」
「瑠衣子が何か言ったのか?」
「…え?」
俺が見ると、慶は心配そうな顔をしていた。
「瑠衣子は病院が長いから少し世間知らずな所がある。もしかして、千冬に変なことを言ったのかと思って…」
「う、ううんッ。瑠衣子ちゃんは関係ないよ。ホントに、ちょっと頭が痛かっただけ。多分、俺……、今頃になって疲れたのかも知れない。色々あったし、緊張しっぱなしだったし。でも、ここに来てゆっくりさせてもらえて、だから却って疲れが出たのかも」
俺が説明すると、今度はやっと慶も頷いてくれた。
「うん、そうかもな。考えてみたら、千冬は随分きつい体験をしたんだ。すぐに元気になるなんて、思ってた俺が間違ってた。ごめん…」
謝られて、俺は慌てて首を振った。
「ううんッ。慶にはいっぱい心配してもらって、それから、こうやって優しくしてもらえて、凄く嬉しいよ。俺、感謝してる。ホントだよ?」
俺の言葉に、慶は笑みを見せた。
「疲れが取れたら、言ってた公園に行こうな?俺も楽しみにしてるんだ」
「うん…。ありがとう」
やっと慶が部屋を出て行き、俺はホーッと息を吐いた。
なんとか誤魔化せて良かったと思った。そして、慶の父親の出現に助けられたような気がした。
俺は院長が買ってきてくれた包みを開けてみることにした。
綺麗な包装紙に包まれた小箱はいかにも高級そうだった。
黒い蓋を開けると、中には真っ赤な仕切りの中に10粒ほどのチョコレートが並んでいた。
「凄い…、高そう…」
思わずそう呟き、俺はそっと一粒を摘んだ。
口に入れてみると、チョコレートは驚くほど滑らかに口の中で溶けていった。甘さも丁度良く、カカオの香りが広がって、凄く美味しかった。
「美味し…」
思わず笑みを浮かべて俺は呟いた。
父親のお土産なんて貰ったことが無い俺は、なんだか凄く暖かい気持ちになれた。
勿体無くて、いっぺんにはとても食べられなかった。
俺は、チョコレートの箱に蓋をすると、大事に食べようと思いながらテーブルの上に置いた。
その夜、俺が風呂に下りていくと、夫人が心配して軽食を用意してくれていた。
ダイニングでそれを食べると、俺は礼を言って風呂に入った。
今夜も、お礼を言いがてらオーディオ室に院長を訪ねてみようかと思っていた。
まだ、自分の行為に対する嫌悪感を拭い去ることが出来ず、そして、慶の前から逃げ出したい気持ちも無くなってはいなかった。
だが、“帰る”と言ったらみんなが心配するに違いないし、また、瑠衣子ちゃんを傷つけることにもなると気がついた。
だから、俺は残ることにしたのだ。
風呂から出て1度部屋に戻ると、携帯に着信があったのに気付いた。
確かめてみると、相手は真藤先輩だった。
躊躇ったが、まだ電話しても差し支えない時間だろうと思い、俺は真藤先輩の携帯に掛けてみることにした。
「もしもし?」
すぐに真藤先輩は電話に出た。俺が呼びかけると、何だかいつもとは違う調子の声が返ってきた。
「千冬……」
戸惑っているようなその声に、俺は自然と眉を寄せていた。
「どうかしたんですか?」
俺が訊くと、先輩はすぐには答えなかった。
段々と、嫌な胸騒ぎを覚えて俺はぎゅっと携帯を握り締めた。
「拓馬さん?何かあったんですか?」
もう1度訊くと、先輩はやっと話し始めた。
「知らせるかどうか迷ったんだが、でも、どうせこっちに戻れば知る事になるし、だったら早い方がいいかと思ってな…」
「何がです?」
「実は……、尚也が入院したんだ。清水先生が、無理心中を図ったらしい…」
「なッ…?」
そう言ったきり、俺は絶句してしまった。
言葉の意味をもう1度、自分の中で反芻する。
無理心中?
そんなこと、ある訳が無い。
きっと、今のは俺の聞き間違いだ。
「千冬?大丈夫か?」
心配そうな先輩の声に、俺は我に返った。
「は、はい。…拓馬さん、今、何て言ったんですか?」
もう1度ちゃんと聞こうと思い、俺はそう言った。
だが、さっきのが聞き間違いではなかったことが、真藤先輩の言葉ですぐに分かった。
「清水先生が、尚也を刺して自分も自殺を図った。でも、尚也も先生も命は取り留めて、今は入院している。尚也の方は傷もそう深くは無かったらしいが、先生は……、まだ生死の境を彷徨ってる」
「そんな……」
また絶句し、俺はその場にへたり込んだ。
一体、何故そんなことになってしまったのだろう。
この前、街で会った時、二人にそんな暗い影は見えなかったではないか。
「中島先生が様子を見に行って俺に知らせてくれたんだ。学校側が手を打って、心中のことは外に知られないようにしたらしい。でも、どうせ俺は何れ知るだろうからって、中島先生が……。詳しいことは帰ってから話す。それから、尚也の容態は、中島先生がまた見に行ってくれるから、そしたら知らせる」
先輩の言葉が、何だか空言のように頭の中を流れていった。
現実とは思えない出来事だった。
その衝撃で、俺は少しぼんやりしてしまっていたのだ。
「はい……」
そう答えて、俺は携帯を耳から離した。
「帰らなくちゃ…」
自分とは関係ない、とはとても思えなかった。
自分も、そして慶も、学校に帰らなくては、と俺は思った。
立ち上がると、俺は部屋を出て慶の部屋へ向かった。
ドンドン、とドアをノックすると、すぐに慶が顔を見せた。
そして、その顔を見た途端、俺の目がじわりと熱くなった。