涙の後で


-10-

その日は門限ギリギリに戻って、買って来た弁当で夕食を済ませた。
舎監の先生に戻ったことを報告したので、明日の朝からは食堂で食事が出来る。だが、慶は少ししたらまた、家に戻ると言った。
「千冬もまた、一緒に来ないか?」
そう誘ってくれたが、俺は首を振った。
「ううん…。嬉しいけど、俺は残る。お盆過ぎまで居て、それから家に帰るよ」
「瑠衣子のこと、気にしてるなら……」
言いかけた慶を遮り、俺はまた首を振った。
「違うよ。……友井先輩はもう戻らないと思うし、病院へ行っても会えないのは分かってるけど、ユキ先輩のことが気になるんだ。だから、俺は残る」
俺の言葉を聞き、慶の顔が曇った。
「そうか。分かった…、なら、俺も残る」
「い、いいよっ。慶は帰りなよ」
俺が驚いて言うと、慶は首を振った。
「いや。小金井さんがまた不安定な状態になったらと思うと、千冬と二人にしたくない」
「慶……」
俺はまた驚いて慶の顔を見上げた。
「そんな…。小金井先輩はもう、あんなことしないよ。心配しなくても大丈夫だから」
すると、慶は笑みを見せた。
「勿論、そんな心配はしてないよ。小金井さんだって、2度も同じ過ちをするような人じゃないって分かってる。でも…、千冬がまた、何かの形で傷つくんじゃないかって、それが心配なんだ」
「そんなことないよ。俺は大丈夫だから…。瑠衣子ちゃんだって、きっと待ってるよ?だから、ね?慶は家に帰って…」
俺の言葉に、慶の顔がまた曇った。
「実は、真藤さんの部屋から戻った後、母からメールがあったんだ。瑠衣子、俺たちが出てすぐに、また具合が悪くなって病院へ戻ったんだって」
「えっ?ホント…?」
俺が驚いて聞き返すと、慶は頷いた。
「俺たちと出掛けたりして、嬉しくて無理したんだな。本当は、調子が悪くなってたらしいんだけど、黙ってたみたいなんだ。それで、本当は戻って病院へ顔を見に行ってやろうかと思ったんだけど、俺が行くとまた無理するから、却って良くないかも知れないと思って…」
慶の言葉を聞きながら、俺は段々怖くなってきた。
もしかして、俺の所為で具合が悪くなったのではないだろうかと思ったのだ。
俺が慶にキスしたところを見てしまった所為で、心配を掛けたり不安がらせたりしてしまった。その所為で、瑠衣子ちゃんは調子が悪くなってしまったのかも知れない。
気付かない内に俺は両手を握り締めていた。
「千冬?」
俺の様子を不審に思ったのか、慶が声を掛けてきた。俺は顔を上げると彼を見上げて言った。
「や、やっぱり帰った方がいいよ。瑠衣子ちゃん、きっと慶に会いたいと思う。傍に居てあげて?ね?お願いだから……」
「千冬…」
俺の目をじっと見ていた慶は、やがてふっと笑った。
「分かった。瑠衣子の心配をしてくれてありがとう。…じゃあ、俺は明後日帰る。でも、瑠衣子の様子を見たらまた戻って来るから。千冬もあんまり無理するなよ?」
「うん。ありがと…」
俺が頷いた時、ドアにノックの音がした。
慶が返事をすると、ドアが開いて坂上が顔を覗かせた。
「真也…」
俺の顔を見ると坂上は相好を崩した。
「よお。ちふが帰ってるって聞いて…。ちふが行ったの、丁度、俺が寮に戻ったのと入れ違いだったんだ」
「そうなんだ。合宿、もう始まってたんだね。あ、入れば?」
俺が言うと、坂上は慶を気にするような仕草を見せてから首を振った。
「いや、今夜は顔を見に来ただけだから。また、明日な?」
「え?あ……」
俺は出て行った坂上の後を追って廊下に出た。
「真也…」
「うん?」
坂上は友井先輩のことを知っているのだろうか。そう思ったが、振り返った屈託の無い顔を見る限り、知らないのだと確信した。
きっと、生徒で知っているのは真藤先輩一人なのだろう。
「ううん…。あ、そうだ。足の具合どう?」
思い出して俺が訊くと、坂上はすぐに笑みを見せた。
「ああ、もう全然」
言いながら足を上げ、坂上はぴょこぴょこと足首を動かして見せた。
「10月には県の新人戦があるし、この夏合宿が勝負だからなぁ。痛いとか言ってられないよ」
「そうなんだ…。新人戦かぁ、俺も見に行きたいな」
「ホント?ちふが来てくれるなら、俺、絶対に優勝する」
「し、真也…」
目を輝かせた坂上を見て、俺は驚くと同時にチクリと胸に痛みを感じた。
俺なんかの言葉に、こんなに喜んでくれる。気持ちを抑えて、友達として接してくれているが、本当はきっと凄く辛いに決まっているのだ。
その辛さを、自分が一番知っている筈なのに、俺はこうして坂上を苦しめ続けている。そして、坂上の気持ちに甘え続けている。
そんな残酷な自分を、俺はまた思い知る。
「うんっ。俺、応援しに行く。だから、頑張って?」
「うん、頑張るよ。……あの、優勝したらさ、また、一緒に出掛けようよ。駄目?」
「だ、駄目じゃないよ。そんな…、優勝しなくたって行こう?ほら、実家に帰ったら遊ぼうって、約束してたろ?」
俺が言うと、坂上は嬉しそうに笑った。
「うん、そうだったな。楽しみ……」
もう1度約束をして、俺は坂上が部屋へ戻るのを見送った。
ふと、廊下の暗い窓に自分の顔が映っているのに気付き、俺は近寄った。
窓に映る俺の顔は青白くてまるで幽霊みたいだった。

瑠衣子ちゃんが入院した。
無理して疲れてしまった所為だと慶は言ったが、多分、それだけじゃない。俺があんな馬鹿なことをして心労を与えた所為だ。

坂上も、ずっと無理をしている。
俺に負担を掛けないようにと気遣って、大事にしてくれる。
自分の方が、ずっとずっと辛い筈なのに。

友井先輩は、今頃、病院のベッドでひとり、一体何を考えているのだろうか。
友井先輩のことを好きじゃなかった。
慶の傍に居て、慶に好かれているのだと思うと、嫉妬する気持ち以外持てなかった。
そして、多分今でも、俺は先輩を好きじゃない。
絶望の底にいるであろう人を、気の毒だとは思っても好きにはなれなかった。

俺はなんて嫌な奴なんだろう。

ガラスに映る歪んだ顔。
そしてきっと、俺の心もこの影のように歪んでいるのだと思った。



朝食の時に会えるかと思ったが、真藤先輩の姿は食堂には見えなかった。
友井先輩のことも気になったし、俺は食事を済ませると、慶と別れて先輩の部屋を訪ねた。
すると、先輩の部屋には中島先生の姿があった。
「おお、高梁、帰ってたのか…」
「はい。先生、あの時はお世話になりました」
俺が頭を下げると、先生はその頭に手を載せた。
「いや。どうだ?身体の具合は」
「はい。もう大丈夫です」
俺が答えると、先生は笑みを見せて頷いた。
「先生、それじゃ後でやっときます」
何のことなのか真藤先輩がそう言うと、先生は頷いた。
「ああ、頼む。午後には来ると思うから…」
「はい」
「終わったら教えてくれ。俺はずっと医務室の方に居るよ」
「はい、それじゃ後で」
先輩が返事をすると、先生は俺に軽く頷いて部屋を出て行った。
「尚也の親戚が荷物を取りに来るそうだ。それで、俺に纏めて置くようにって」
溜め息交じりの声で真藤先輩は言った。
「尚也は退院したら関西の親戚の家に預けられるそうだ。……清水先生は、昨夜遅くに意識を取り戻した。尚也のことを聞いて無事だと知ると泣いたそうだよ。でも、それっきり、もう何も訊かなかったらしい」
「そうですか……」
友井先輩はきっと清水先生の幸せを願っているのだろう。だから、自分ひとりが遠い所へやられることになっても何も言わずに従うのだ。
そう思うと、悲しくて堪らなくなった。
「拓馬さん、俺も手伝います」
「うん。そうだな、頼むよ」
先輩と一緒に部屋を出ると、丁度そこに慶がやって来た。
どうやら、一旦部屋に帰ったものの、やはり友井先輩の様子が気になって訊きに来たらしい。
真藤先輩から事情を聞くと、自分も荷造りを手伝うと言って慶も付いて来た。
先生が言っておいてくれたので、先ず俺たちは購買に要らない段ボール箱を貰いに行った。
それから、友井先輩の部屋へ行き、中へ入った。
ルームメイトが使っている方は随分散らかっていたが、友井先輩のスペースは几帳面に片付けられていた。
慶と同じで蔵書の量が目立ったが、全て綺麗に整頓されていた。
段ボール箱を組み立てて、なるべく分別しながら荷物を詰めていったが、思ったよりも随分衣類が少なかった。
それは多分、清水先生の部屋へ運んである所為だろう。
そんなことを思うと、また切ない気持ちになった。
本が入り切らず、慶がまた追加で段ボール箱を貰いに行った。
机の上を整理していた真藤先輩がふと手を止めて何かを眺めているのに気付き、俺は先輩の後ろから手元を覗き込んだ。
「あ…」
それは、友井先輩を撮った写真だった。
凄く綺麗に、楽しそうに笑っているものだったが、望遠で撮ったらしく先輩は撮影には気付いていない感じだった。
「これ、ユキが撮ったんだな……」
ぽつり、と先輩が呟いた。
そして、ふっと笑うと俺に写真を寄越した。
「綺麗……」
「ああ…」
きっと、こんな笑顔の友井先輩を、小金井先輩は見続けていたかったのだろう。
自分にはこんな笑顔を向けてはくれない友井先輩を、小金井先輩は想い続けていたのだ。
この写真の笑顔が自分に向けられたものだったら……、そんな風に思ってシャッターを切ったのだとしたら、それは酷く切ないと俺は思った。
そして思い出した。
俺も以前、友井先輩の傍で笑う慶の表情を写真に撮りたいと思ったことを。
あんな風に、自分にも笑いかけてくれたらいいのにと、何度思ったか知れなかった。
「千冬?」
「あ、はい…」
慌てて顔を上げた俺に、真藤先輩が笑いかけた。
「続き、やっちまおう」
「はい…」
俺が写真を渡すと、先輩はそれを机の上にあった本と一緒にダンボールの中に入れた。