涙の後で
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すると、そこには瑠衣子ちゃんが立っていた。
きっと、今見た光景が信じられなかったのだろう。目を見開き、固まったように俺を見つめている。
俺はサーッと背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
「ち、ちがッ……、る、瑠衣子ちゃんッ」
「ご…、ごめんなさい……」
取り落としたCDケースをゆっくりと拾いながら、瑠衣子ちゃんは俺から目を逸らした。
「ち、違うんだ。い、今のは……」
俺は必死で言い繕うとした。だが、もう言い訳が通用しないことは分かっていた。
言葉に詰まり、どうしていいのか分からなくなった。
俺は立ち上がると、その場を逃げ出そうと部屋を出た。
「千冬さんッ」
傍をすり抜けようとした俺に、瑠衣子ちゃんは慌てて声を掛けた。
だが、俺は立ち止まろうとはしなかった。
「千冬さん、待ってっ。千冬さんッ…」
俺は振り向かなかった。
そして、部屋へ逃げ込むと、すぐにドアを閉めて鍵を掛けた。
見られた……
もう、どんな言い訳も出来ない。
瑠衣子ちゃんは俺の本心を知ってしまったのだ。
「う……」
両手を握り締め、俺はそれを口元へ当てると、ドアを背にしたままその場にずるずるとしゃがみこんだ。
本当に、どうしていいか分からなかった。
きっと、瑠衣子ちゃんは慶に言うだろう。
そしたら俺は、きっと慶に嫌われる。
折角、友達としての信頼を得たのに、それも全部駄目になってしまうに違いなかった。
だが、それは自分で招いたことなのだ。
欲望を抑え切れなかった自分が招いた結果だった。
分かっていても体が震えた。
慶にどんな目で見られるのかと思うと、俺は怖くてガタガタと震え出してしまった。
「ふ…、う……う…」
ぎゅっと自分の両腕を抱えるようにして、震えを止めようとした。
すると、躊躇いがちなノックの音が聞こえ、俺はビクッと体を震わせた。
「千冬さん?あの……、開けてくれませんか?」
心配そうな瑠衣子ちゃんの声だった。
だが、俺は立ち上がる気にはなれなかった。
「お願いです。開けて下さい。私…、あの……」
すると、瑠衣子ちゃんの声が消えた後で、少し離れたところから別の声が聞こえた。
「どうした?瑠衣子」
それは慶の声だった。
目を覚まして部屋を出てきたのだろう。そして、瑠衣子ちゃんの様子を不審がって近づいて来たらしかった。
「け、慶ちゃん…」
「千冬がどうかしたのか?」
そう訊いた後で、慶がドアを叩く音がした。
「千冬?千冬?どうかしたのか?」
のろのろと立ち上がり、俺は見えない慶に向かって首を振った。
「なんでもない……。ちょっと、頭が痛いんだ。少し横になりたくて…」
「え?大丈夫か?」
「大丈夫、寝れば治るから…」
俺が答えると、またノックの音がした。
「でも、薬飲んだ方がいいんじゃないか?千冬、開けろよ。千冬?」
慶の心配そうな声を聞きながら涙が溢れてきた。
心配してくれるのも、きっと今だけだ。瑠衣子ちゃんから事情を聞いたら、呆れて俺を避けようとするだろう。
「平気……。大丈夫だから、行って。もう寝るから…」
声が震えて俺は唇を噛んだ。
「千冬…?」
俺の声が震えているのに気づいたのだろうか。慶は怪訝そうな声で俺を呼んだ。
俺は答えずに背を向けると、両手で唇を押さえて目を瞑った。
卑怯な真似をした、これが報いなのだと思った。
返事をせずにいると、諦めたのか慶は行ってしまった。
俺はベッドに横になると、まだ震えている身体を抱きしめるようにして縮こまった。
例え眠ったままでも、慶にキス出来て幸せだった。
でも、もう終わりだ。
慶との穏やかな友人関係も、信頼も、もしかしたら少しは持っていてくれたのかも知れない好意も、何もかも無くしてしまったのだ。
帰って欲しいと言われるかも知れない。
寮に戻っても、今までのように口を利いてくれないかも知れない。
どんどん悪く考えてしまい、俺は半分、パニック状態だった。
密かに好きでいることさえ、もう許されないような気がした。
暫くじっとして震えが納まると、俺はのろのろと起き出してクローゼットへ行き、荷物を詰め始めた。
少し落ち着きを取り戻して考えたが、出て行けと言われることは無いだろう。
でも、こちらから帰ると言った方がいい。そしたらきっと、慶は引き止めないだろうと思った。
衣類を畳み直し、バッグに詰めていると、ドアにノックの音がした。
また、慶かと思い返事を躊躇っていると、外から瑠衣子ちゃんの声がした。
「千冬さん……、あの、開けてくれませんか?少し、お話したいんです」
バッグを閉じ、それをまたクローゼットの中に仕舞うと、俺はドアの所まで行った。だが、まだ開けるかどうか迷っていた。
すると、瑠衣子ちゃんが言った。
「慶ちゃんは今、お母さんに頼まれてコンビニまで行ってます。だから…、今の内にお話したいんです」
その言葉に俺は気持ちを決めた。そして、ドアのノブに手を掛けた。
「ごめん……」
ドアを開けて瑠衣子ちゃんの顔が見えると、俺はぼそりとそう言って、身体を脇に避けた。
瑠衣子ちゃんは心配そうに俺の顔を見ながら部屋に入って来た。
「千冬さん、さっきはごめんなさい」
最初に謝られて、俺は言葉を失った。
瑠衣子ちゃんは何も悪くなんか無い。恥ずべきことをしていたのは俺なのだ。
「やめて…。瑠衣子ちゃんが謝ることじゃないよ……」
力の無い俺の言葉に、瑠衣子ちゃんは顔を上げた。
「私、慶ちゃんには何も言って無いよ?千冬さんが困るなら、絶対に言わないから…」
「瑠衣子ちゃん……」
恥ずかしくなって俺は目を逸らした。
瑠衣子ちゃんが慶に言うものだと、俺は決めて掛かっていた。だが、瑠衣子ちゃんは俺の気持ちを察して、こうして来てくれたのだ。
「ごめん…ッ」
両手で顔を覆い、俺は言った。
「あんなこと、するつもりじゃなかった。…でも、慶の寝顔見ていたら、つい…。ごめん、本当に、ごめん……。見っとも無いことして、ごめんね?」
「千冬さん…」
瑠衣子ちゃんの手が、俺の腕に触れた。
「慶ちゃんのこと、好きなのね?」
僅かに頷いたが、俺は顔を見せられずにまだ手で覆ったままだった。
「私、何となくだけど、そうじゃないかって思ってた。それに、慶ちゃんの方も、千冬さんのことが好きなんじゃないかって…」
言われて、俺はやっと顔から手を退けた。だが、まだ顔を上げることは出来なかった。
「違う…。慶は、俺のことなんか好きじゃない。好きになる訳ない。分かってるから、だから…、ついあんなことを…。でも、もうしない。もう、絶対にしないから……。だから、見逃して欲しい……」
「私……」
瑠衣子ちゃんの手が俺の手を握った。
「私、本当に、誰にも言ったりしない。でも…、慶ちゃんは千冬さんに好きだって言われても絶対に嫌じゃないと思う。だから、そんな風に思ったりしないで?」
「……ありがとう」
やっと顔を上げて、俺は瑠衣子ちゃんに言った。
自分よりも年下の女の子にまで同情されている自分が情けなかった。こんな俺が、慶に好きになってもらえる訳なんか無い。
改めて、俺はまたそう思わずにはいられなかった。
もう、本当に諦めなければ。
慶を好きでいる限り、どんなに密やかに想っているつもりでも、きっと今日のように誰かに知られてしまう。
今までだって、真藤先輩にも、そして、坂上にだって気付かれてしまったのだ。これからだって、気付く人間もいるかも知れない。
いや、他の誰かだったらいい。
でもそれが、慶本人だったら、もう俺は彼の傍には居られなくなってしまうに違いなかった。
「でも、もう諦めるから…。これっきり、慶のことを変な目で見たりしないって誓う。本当に、もう…、諦める」
「千冬さん…」
まだ何か言ってくれようとした瑠衣子ちゃんを、俺は遮った。
「ありがとう。優しくしてくれて嬉しかった。でも、もう大丈夫だから」
促すと、彼女は辛そうな目をしたままで部屋を出て行った。
俺は疲れたようにベッドに腰を下ろすと、そのまま蹲った。
荷物を詰めなければと思ったが、身体が動かなかった。
身体も、そして心も重い。
このまま、地の底までも沈んでいけるような気がした。
夜になって、慶が夕食に呼びに来てくれたが、全く食欲がなかった。
俺が、まだ頭痛が治まらないので寝ていたいと言うと、慶はドアを開けるように言った。
「いいよ。あの…、今日は食べなくていいし、寝てれば治ると思うから。慶は俺のこと気にしないで、ご飯食べに行って?」
ドアを開けずにそう言うと、慶がドンドンとドアを叩いた。
「何言ってんだ。放っておける訳無いだろ?昼間からずっとそんなんで、薬飲むなり何なりしないと。兎に角、開けろよ。顔見せて」
「い、いいよ…、平気。薬とか飲みたくないんだ。いいから行って?」
俺が答えると、また、ドンッとドアが叩かれた。
「千冬ッ…。いい加減にしろよ。心配するなって言ったって無理に決まってるだろ?それとも、本当は病気じゃないのか?もしかして、瑠衣子と何かあったんじゃ?」
「ちっ、違うッ…」
慌てて否定しようとした俺の耳に、別の声が聞こえた。
「何してるんだ?慶」
「と、父さん…」
驚いたような慶の声がした。
どうやら、戸田院長が帰って来て、ドアの前に居た慶に声を掛けたらしい。
この状況に、俺は何故か、今まで以上にドキドキし始めていた。
「千冬君がどうかしたのか?」
「い、いや…。昼間からずっと頭が痛いって言って部屋から出て来ないから…。薬、飲んだ方がいいんじゃないかと思って」
「なに…?」
院長がそう言った後で、軽くノックする音が聞こえてきた。
「千冬君、大丈夫か?頭が痛いなら私が診よう。ここを開けなさい」
院長にまで言われては、もう、ドアを閉めたままにしておくことは出来そうになかった。俺は、仕方なく鍵を開けると、そっとドアを開けた。
「す、済みません。あの、大したことないんです。薬飲むほどじゃなくて…」
「素人判断は良くないよ。どれ、そこに座ってごらん」
「は…はい。済みません」
優しく言われて俺は頷くと、ソファに腰を下ろした。
見ると、院長に続いて慶も、心配そうな表情で部屋に入って来た。
その顔を見ると、俺は思わず目を逸らしてしまった。
後ろめたくて、見ていられない。
そして、怖くて見ていられなかった。