涙の後で


-9-

翌朝、俺と慶は学校に帰る為に電車に乗った。
慶の家族はみんな、急に帰ると言った俺たちを心配したが、本当の理由を話す訳にはいかなかった。
瑠衣子ちゃんは自分の所為なのかと気にしてしまったようだったが、俺も慶もそうじゃないと一生懸命に宥めて、何とか誤解を解いてもらった。
「仲良くしてもらってる先輩が事故に合ったらしくて、入院したって知らせが来たから帰らないとならないんだ」
話せる程度の理由を話すと、瑠衣子ちゃんも夫人も納得してくれたようだった。
本当は院長にも会って挨拶をしたかったが、掛け違って顔を見ることは出来なかった。
眠り込んでしまった時の、運んでもらったお礼もお詫びも出来なかったが、後で手紙を書くことにして俺は慶の家を後にした。
電車の中で、慶はずっと黙り込んだまま俺の隣に座っていた。
顔色も幾らか蒼褪めていて、どんなに先輩のことを心配しているのか良く分かった。
俺だって、泣き出したいような気持ちをずっと堪えていた。
良く知っている人間が、刺されたなんて信じられない。つい昨日までは、無理心中なんて、お話の中のことでしかなかったのだ。
幾ら命に別状は無かったと聞いても、友井先輩の心はどんなに傷ついているだろう。それを思うと、辛くて堪らなかった。
「なんでこんなことに……」
ぽつり、と慶が呟き、俺は顔を上げて彼を見た。
目を伏せたまま、慶は僅かに首を振った。
「なんで…?どんな理由があっても、死のうだなんて……。いや、愛する人を殺そうだなんて……ッ」
俺は答えられなかった。
そしてまた、慶も俺から答えを貰おうとは思っていなかっただろう。
俺たちはまた黙ったまま、学校に着くまでの間、口を利くことは無かった。



学校に着いてすぐ、俺たちは部屋に荷物だけを置いて真藤先輩の部屋へ向かった。
先輩は部屋に居て、俺たちの顔を見ると少し驚いたようだった。
「帰って来たのか…。悪かったな…」
「いえ…。それで、尚也さんは?」
慶が訊くと、先輩は頷いて俺たちを座るように促した。
「何か飲むか?おまえたち、飯は?」
もう昼を過ぎていたが、俺たちは昼食を食べていなかった。だが、食堂へは届けを出していないので俺たちの分の食事は無い。
「後で、購買で何か買います。何も要りませんから、話を聞かせて下さい」
慶の言葉に頷くと、ベッドに腰を下ろした俺たちの前に椅子を運び、先輩も腰を下ろした。
「今朝も中島先生が病院へ様子を見に行った。尚也は傷も深くなかったし出血も思った程じゃなかったから、すぐに回復するだろうってことだ。けど……、身体の方より心配なのはこっちだろう……」
言いながら、先輩は自分の胸を親指で示した。
「清水先生の容態を聞いた後は誰とも口を利かないらしい」
「そうですか……」
辛そうにそう言った後、慶は迷った後でまた口を開いた。
「先輩…、清水先生が何でこんなことをしたのか、分かったんですか?」
真藤先輩は頷くと、溜め息をついた後で口を開いた。
「前から精神状態が不安定だったらしい。尚也のことを真剣に思う半面で、家族のことや世間体を考えていた。家族にばれて、別居するようになってからは、益々おかしくなった。……そこに、尚也から別れを言い出されて、逆上してしまったんじゃないかって話だ」
「え……?」
弾かれた様に顔を上げて、慶は先輩を見た。
「尚也さんが…?」
「ああ。日記みたいなもんがあって、そこに書いてあったそうだ。少し前に、尚也から別れようと言われたって…。一旦は、先生が嫌だと言って有耶無耶になったらしいが、またその話になって、今度は先生が刃物を持ち出したんじゃないかって……」
「そんな……。それじゃ、俺の所為で?」
そう言って、慶は蒼褪めた。
真藤先輩は眉を寄せると彼の顔を見た。
「お前の所為じゃないよ。人に言われたくらいで心が変わるなら、最初から駆け落ちみたいな真似なんかしないさ。多分、尚也は前から先生と別れることを考えてたんだと思う。……去年、先生のお子さんが幼稚園へ入園したんだ。その式に行けなかったことを先生は凄く悔やんでた。その姿を見てたら、自分がどんなに酷いことをしたのか考えるようになったって尚也は言ってた。自分が家族から先生を奪ったんだって、改めて感じたって。……だから、別れを決意したんだと思う」
先輩の話を聞きながら、とうとう俺は涙を零した。
友井先輩を卑怯だと、酷いと感じたこともあった。でも、先輩は先輩で、誰にも分からない苦しみを抱えていたんだと思う。
愛する人への想いは誰にも負けないほど強いものでも、その恋は、誰かを不幸にせずにはいられない。
人を傷つけながら、そしてまた、自分も深く傷つき続けていたに違いなかった。
「戸田、お前が気にすることじゃない。お前の言葉が何かを招いたって思うのは間違いだ」
先輩の言葉に、慶は頷いた。
だが、何も言わなかった。
「尚也は退院したら実家に帰るそうだ。ここは、辞めるらしい。多分、どこか遠くの学校へ編入するだろうって中島先生は言ってたよ」
確かに、幾ら学校側が事実を隠したとしても、このまま、ここに残る訳にはいかないだろう。
噂は何処からとも無く広がるものだし、もしものことを考えたら、噂が立つ前に他の学校へ移る方が賢明だろうと思った。
真藤先輩から知っていることを全部聞き、部屋を出ようとしたが、呼び止められて俺は残った。
真藤先輩は俺の肩を両手で包むようにすると俺の眼を見て言った。
「千冬…、身体は?」
「もう、平気です。あの時は、本当にありがとうございました」
「いや…。傷も癒えない内に今度はこんなことになって、ショックだったろ?」
「いえ、俺は大丈夫です。それより…、友井先輩も、それから……、もしこれを知ったら、ユキ先輩がどう思うか…」
俺が言うと、先輩も頷いた。
「ああ、俺もそれは心配してる。出来ることなら、ユキには知らせたくないけどな…」
幸い、小金井先輩は家に帰っている。
だが、戻って来たら、友井先輩が学校を辞めたことをすぐに知るだろう。そしたら、その理由を知りたがらない訳が無かった。
「ユキは…、学校を辞めるかもな……」
辛そうに、真藤先輩が言った。
そして、やはり俺もそうなるのではないかと思った。
友井先輩が居ないなら、もう小金井先輩にここにいる意味は無い。
きっと、先輩もこの学校から去って行ってしまうのではないかと思った。


部屋に戻ると、慶はベッドに足を投げ出して座り、ぼんやりとした様子で音楽を聴いていた。
「お昼、何か買ってこようか?」
俺が訊くとヘッドフォンを外して、慶は言った。
「俺も行く。……それとも、町に下りる?」
「え…?」
俺が驚くと、慶は音楽を止めてベッドから脚を下ろした。
「どうせ、学校に届けを出してないから夕飯も出ないし。それに……、何だかここにじっとしているのが嫌なんだ。別に目的は無いけど、歩きたい」
慶の気持ちが俺にも分かるような気がした。
何も出来ないと分かっていても、ただじっと座っていることが辛い。俺は慶に頷いて、出かけることにした。
バスの時間までにはまだ間があったが、俺たちは構わずに寮を出た。
話すことも無く、いや、多分口を開けば友井先輩の話になってしまうだろうと分かっていたから、わざと黙っていたのかも知れない。
俺たちは、何も言わずにバス停まで歩いた。
「暑いな…」
バス停に着くと、眩しそうに空を見上げながら慶が言った。
蝉の声が煩い。
今が一番暑い時間だった。
何だか酷く疲れたのと、暑さの所為で俺はそこにしゃがみ込んだ。
すると、慶が隣にしゃがんで俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「うん。何だか急に、力が抜けて……」
俺が答えると、慶は頷いた。
「うん…。どうしようもないことだし、俺たちには何も出来ないんだけど…。でも、やり切れない。もっと、尚也さんの話をちゃんと聞いておけばよかった…」
「慶……」
躊躇ったが、俺は慶の腕を掴んだ。
「拓馬さんも言ってたけど、慶が気に病むこと無いよ?多分、慶が何を言っても、きっと変わらなかった。清水先生もずっと、家族に対する責任とか、負い目とか、色んな物に押し潰されそうになってたんだと思う。それでも友井先輩への気持ちを棄てられなかった。そんな狭間で苦しみ続けていたんだ…」

悲しい……

人を愛することは素晴らしいことに違いないのに、それでも、幸せとは限らないことが悲しいと俺は思った。
とうとう友井先輩に届かなかった小金井先輩の気持ちも、俺の慶への想いも、幸せなことよりきっと今は辛いことの方が多い。
でも、それでも俺は慶を好きになったことを後悔したくなかった。
腕を掴んだ俺の手を、慶のもうひとつの手が掴んだ。
「相手がいる人を好きになる苦しさは、俺には分からない。でも、千冬は知ってるんだな…」
「俺は…、友井先輩みたいな辛い思いはしてないよ。それに、正孝さんへの想いは、ただの憧れだったのかもって思うんだ」
さり気なく見えるように気を遣いながら慶の手から手を取り戻すと、俺は両手で膝を抱えるようにした。
「今になって思うと、あれが恋だったのかどうかさえ分からない。辛かったけど、でも、母が正孝さんと結婚して良かったって、今では心からそう思える」
「そうか……」
そう言って、慶はほんの少し笑みを浮かべた。
「やっぱり、千冬は強いんだよ。そして、優しいんだ。……きっと、人を怨んだりなんか絶対にしないんだろうな」
最後の言い方が気になった。
それはまるで、自分は人を怨んだ事があるように聞こえたからだ。
そのまま黙り込み、バスが来るまで俺たちは喋らなかった。
茹だるような暑さに、首筋から汗が流れるのが分かった。
それを時々拭いながら、俺は割れるような蝉の鳴き声を聞いていた。