涙の後で
-4-
もう、言ってしまおう。
俺はそう思った。
こんな状態で、いつまでも自分の気持ちを押し殺したままでいるなんて、無理なのだ。
もう、言ってしまえばいい。
そうすれば楽になるんだから。
「慶……、俺……」
「うん?」
躊躇うと、慶が訊き返した。
俺は勇気を出して顔を上げると、その目を見つめた。
「……キス…、してって言ったら…怒る?」
心臓が口から飛び出しそうだった。
自分でも滑稽に思えるほど震える声で俺は言った。
俺にしてみれば本当に、有りっ丈の勇気を振り絞って口にした言葉だったのだ。
だが、聞いた途端に慶の目はパッと見開かれ、そして今まで俺の頬にあった手が急いで戻って行った。
驚愕の表情。
戸惑い。
そして、ほんの僅かな恐怖。
それらをいっぺんに、俺は慶の顔の上に見た。
そして、言ってしまった事を激しく後悔した。
「あ………」
グッと込み上げてきた涙を、俺は必死で抑えた。
「あははッ…」
顔を下に向けながら慶から視線を逸らし俺は笑った。
「その顔……ッ。やだな、冗談に決まってるじゃん」
そう言うと、俺は腹を押さえてクスクスと笑った。
そうするしかなかった。
今のこの状態から抜け出す為には、そして自分自身を誤魔化す為には、そうするしかなかったのだ。
「な、なんだ……。吃驚した…」
ホッとしたように慶が言った。
その口調が、また俺を自己嫌悪に陥らせた。
馬鹿だった。
分かっていた筈なのに、何故、我慢出来なかったのだろう。
慶の態度に、つい期待してしまった。もしかすると、慶も俺のことを好きになってくれたのかと、勘違いしたかったのだ。
(そんな筈無いのに。ある訳無いのに……)
また俺は、自分で自分を傷つけただけだった。
でも、勘違いさせた慶に、一言恨み言を言いたかった。
「慶が悪いんだ。…だって、すぐに俺のこと、女の子扱いするから」
本当のことを言う訳にはいかなかったから、言葉を選んで俺は言った。
すると、慶が済まなそうに言った。
「ごめん。そうだよな…、千冬は男だって分かってるんだけど、つい……。悪かったよ」
「いいよ。……あ、やっぱり俺、部屋に戻る。もう眠くなってきちゃった」
「あ、うん。やっぱり疲れたんだろ。明日もあるし、寝るといいよ」
言われて俺は頷くと、溶けかけたアイスを持って立ち上がった。
「じゃあ、また明日。おやすみ……」
「おやすみ」
俺は慶の部屋を出ると、足早に部屋へ戻った。
堪えていた涙が、もう零れ落ちる寸前だった。
ドアを開けて、持っていたアイスを机の上に置くと、すぐに俺はベッドに突っ伏した。
我慢しようと頑張っても、泣き声を堪えられない。ベッドカバーを噛むようにして、俺は声が漏れるのを防いだ。
慶は俺の言葉を聞いて、戸惑っただけじゃなかった。
確かに、ほんの僅かだったが怖がっていたように見えた。
いや、嫌悪感だったのかも知れない。
馬鹿だった。
本当に、馬鹿だった。
優しくされて自惚れてしまったのだ。
楽になりたいから、なんて、自分に言い訳しながら、俺は心の何処かできっと上手くいくと自惚れていたのだ。
慶もきっと、俺のことが好きなんだと……。
だから触れてくるのだ、と……。
だが、そうじゃない。
慶の気持ちはただの同情で、俺が思うような意味じゃないのだ。
分かっていた筈だったのに、いつの間にか、俺はそれを脇へ押しやっていたのだろう。
思いっきり泣いて少しすっきりしたのと、それから、馬鹿馬鹿しくなって、俺は泣き止んだ。
泣いたって仕方ない。それよりも、ちゃんと誤魔化せたことを祈った方がいい。
慶に嫌われるのだけは、耐えられなかった。
同情半分だとしても、家にまで招待して貰えるような関係になれたのだ。それを壊したくない。
起き上がって涙を拭くと、俺はベッドのカバーを剥がして薄掛けの下に入った。
もう眠ろう。
眠って、夢の中では明日の事を考えよう。
明日、慶が何処へ連れて行ってくれるのか、夫人がどんなケーキを作ってくれるのか、そんな楽しいことだけを考えようと思った。
翌朝、顔を洗う時にチェックしたが目は腫れていなかった。
俺はホッとして、鏡の前を離れると部屋に戻って着替えた。
すると、躊躇いがちなノックの音がして、返事をすると瑠衣子ちゃんがそっと顔を覗かせた。
「千冬さん、おはようございます。……起きてたんだ」
「うん、ちょっと前に…。どうかした?」
瑠衣子ちゃんの顔色が少し悪いような気がして、俺は僅かに眉を寄せた。
「ううん。慶ちゃんがお寝坊さんだから、もしかして千冬さんも起こした方がいいのかなって思ったの。でも、寮に行ってから慶ちゃんの起こし役は千冬さんだったんですよね。余計な心配しちゃった」
そう言って笑った彼女に、俺も笑って見せた。
「うん、俺、朝は結構強いから。…慶のことは起こしたの?」
「ううん、今から。下に朝食の用意出来てますよ」
「ありがとう。じゃあ、慶が起きたら一緒に行くよ」
「はい。じゃあ、起こしてきますね。今日は凄く楽しみです」
嬉しそうにそう言うと、瑠衣子ちゃんは部屋を出て行った。
昨夜のことをまた思い出し、俺は少し気分が重くなった。
慶と顔を合わせるのが怖い。そして、やはり辛かった。
暫く部屋に居て、俺は慶の様子を見に行くことにした。一人で階下に下りて行くのは何だか気が引けたのだ。
ノックするとすぐに返事があって、ドアを開けると慶は着替えているところだった。
「あ、ごめん…。瑠衣子ちゃんが下へ来るようにって言ってたから…」
「うん、今行くよ。ちょっと待ってて?すぐだから」
「うん。…あ、俺、外に居る」
俺が出て行こうとすると、慶が引き止めた。
「いいよ。今……」
言いながら裸の身体にTシャツを被り、腕を通しながら慶は此方にやって来た。
「オッケ。行こう」
「うん…」
俺達は一緒に部屋を出ると、階段を下りて食堂へ入って行った。
瑠衣子ちゃんはもう席に着いていて俺達が来るのを待っていてくれたらしかった。
みんなに挨拶をして俺達が席に着くと、夫人と小松さんが食事を運んで来てくれた。
階段を降りて来る途中から、焼きたてらしいパンの香ばしい匂いがしていたが、夫人が籠に入れて持って来てくれたパンは手作りらしく、今正にオーブンから出てきたようだった。
テーブルの上にはその他にも、オムレツやサラダ、綺麗にカットされたフルーツなどが並んでいた。
戸田院長はもう仕事へ行ってしまったのか、朝食の席には現れなかった。
俺達は美味しい朝食を頂くと、出掛けるまでの間、慶に誘われて2階のオーディオ室へ行った。
慶の父親も母親も音楽を聴くのが好きらしく、2階に防音設備の整った部屋があった。
詳しくない俺には良く分からないが、そこには立派なオーディオの設備があり、革張りのソファやリクライニングシートが幾つか置かれていた。
すぐに瑠衣子ちゃんも現れ、俺達は慶が持って来たCDを聴くことにした。
瑠衣子ちゃんは病室でよく音楽を聴くらしく、流行の曲にも詳しかった。
やがて、夫人が呼びに来て、俺達は出掛ける支度をする為に其々の部屋に戻った。
着替える必要は無かったので、俺はバッグを持っただけで部屋を出て来た。慶も同じらしく、階段の上で会うと一緒に下へ降りた。
すると、すぐに夫人も出て来て、俺達は瑠衣子ちゃんが来るのを玄関の前で彼女と一緒に待った。
瑠衣子ちゃんは今日も可愛らしいお人形のような服を着ていたが、その上から小さなポシェットを下げて服に良く合う帽子を被っていた。
「お待たせ」
弾むような声でそう言うと、瑠衣子ちゃんは嬉しそうに俺達を見た。
「じゃあ、行きましょう」
夫人にそう言われ、俺達は外へ出ると駐車場へ向かった。
助手席に慶が乗り、俺と瑠衣子ちゃんはリアシートへ並んで座った。
街へ下りて、夫人は一番大きなデパートの地下駐車場へ車を乗り入れた。
ここは食品売り場が充実しているということで、俺達はエレベーターに乗ると地下へ向かった。
夫人が無花果のケーキを作ってくれることになり、その材料や夕食の食材を買うと、俺たちと別れて瑠衣子ちゃんと二人で彼女の服を見に行くことになった。
瑠衣子ちゃんは食材を選ぶだけの買い物でも終始楽しそうで、俺達二人の間をニコニコしながら歩いていた。
だが、もう別行動だと知ると、途端に顔を曇らせた。
「お母さん、私、洋服なら要らない。あんまり着る機会もないし、もう十分持ってるし……」
「でも、一緒にお買い物出来る機会は余り無いし、たまには一緒に選びたいわ」
「でも……」
どうやら、瑠衣子ちゃんは俺達ともっと一緒に歩きたいらしい。それを察して、慶が口を出した。
「母さん、皆で一緒にお茶でも飲もうよ。瑠衣子も滅多に外へ出ないから疲れただろうし、休憩した方がいいんじゃないかな?」
慶の言葉を聞いて、瑠衣子ちゃんは期待を込めた目で母親を見つめた。すると、夫人も笑みを見せて頷いた。
「そうね。じゃあ、上へ行ってお茶にしましょう」
母親の言葉に、瑠衣子ちゃんの顔がまた輝いた。そして、サッと傍にいた俺の手を掴むと言った。
「千冬さん、行きましょう?エレベーター、こっち…」
「あ、うん」
引っ張られて俺は振り向くと、苦笑して見ている慶に頷いて歩き出した。