涙の後で


-10-

「止めてッ、止めてよッ」
手を伸ばすと、俺は慶のTシャツを掴んだ。
「止めてッ。先輩は何も悪くないんだっ…」
「千冬……」
先輩の服を掴んでいた手を、慶はやっと離した。
小金井先輩は、慶に対してまるで抵抗しようとはしなかった。
「いいんだよ、千冬。俺は責められて当然のことをしたんだから」
先輩の言葉に、俺は激しく首を振った。
「違うッ、先輩…」
「いいんだ、千冬」
そう言うと先輩は俺に向かって笑って見せた。
「俺は、今日、家に帰る。帰って、もう少し気持ちの整理をつけるつもりだ。……千冬」
先輩は俺の前に片膝を突くと、両手で俺の手を取った。
「本当にごめん。それから、……ありがとう…」
俺の目をじっと見上げて、先輩はそう言った。
涙が込み上げて、俺は何も言えなかった。だから、ただ黙って首を振るしか出来なかった。
先輩は俺の手を力強くギュっと握ると、立ち上がった。そして、まだ険しい顔をしている慶を見ると、頭を下げた。
「図々しいが、千冬のことを頼む」
慶は口を結んだまま開かなかった。でも、先輩に対して頷いて見せた。
それを見ると、先輩も頷き、そして、俺の方をもう1度振り返ってから部屋を出て行った。
慶は先輩が行ってしまうと、自分が投げ捨てたペットボトルを拾った。
「泡立っちゃったな…。ごめん、もう1回買ってくる」
俺の為に買って来てくれたのだろう。ペットボトルの中身は俺の好きなミルクティだった。
「い、いいよっ。それでいいから…」
迷ったようだったが、慶はそれを持って俺のベッドの端に座った。
「炭酸じゃないから平気だよ」
俺が言うと、慶は薄っすらと笑みを浮かべて頷いた。
「そうだな…」
ミルクティを手渡され、俺は笑みを返した。
「ありがとう…」
「ごめん、興奮して…」
慶の言葉に俺は首を振った。
「ううん。変かも知れないけど、嬉しかった。……戸田が、守ってくれようとしたみたいで…」
先輩が乱暴されるのは勿論嫌だったし、必死で止めもした。でも、あの時の慶の気持ちを嬉しく思わない訳が無かった。
「また怒られるな?千冬はか弱い女の子じゃないのに」
そう言って、慶はくすっと笑った。
釣られて俺も少し笑うと、それから笑みを消し、慶の目を見て言った。
「戸田…、ユキ先輩は本当に悪くないんだ。先輩を傷つけたのも、後悔するようなことさせたのも、全部俺で、だから…、先輩のこと、もう責めたりしないで欲しい」
「千冬、昨日言ったろ?」
「え…?」
俺が聞き返すと、慶は労わるような目で俺を見て言った。
「千冬こそ、もう、自分を責めたりするな。これでもう終わりにしよう?千冬が辛いと思うなら、俺も小金井さんと普通に接するようにするから。だから千冬も、もう忘れた方がいい」
「…うん」
忘れたくても、忘れられるものではない。だが、そう言ってくれた慶の言葉が嬉しかった。
俺が頷くと、慶は笑みを浮かべた。
「明日、中島先生が来たら、訊いてみよう。俺の家に行くのに、後何日ぐらい待ったらいいか」
慶の言葉に、俺は躊躇った。
「ほんとに?ほんとに行ってもいいの?」
「え…?」
「迷惑じゃない?」
俺が訊くと、慶はわざとらしく溜息をついて見せた。
「迷惑だったら誘ったりする訳無いだろ?千冬に来て欲しいから誘ってるんだ。千冬が嫌なら仕方ないけど、嫌じゃなかったら来て欲しい。……どうだ?」
「……うん。嬉しい」
俺が答えると、慶は笑みを見せた。
「じゃ、決まりな?」
「うん。ありがと……」
俺が礼を言うと、慶は頷いてペットボトルのキャップを捻った。
俺も持っていたミルクティのキャップを開けると、それに口をつけた。
ふわり、とミルクの優しさと甘さが口の中に広がった。
それを味わいながら、俺は液体を飲み込んだ。



小金井先輩は家へ帰り、翌日は俺も歩けるようになって、中島先生の許可を貰って夕食からは自分で食堂へ行けるようになった。
中島先生も言っていたが、そろそろ運動部によっては合宿が始まるので、戻って来た生徒も増え、食堂は前よりも賑やかになっていた。
柔道部は来週から合宿が始まるが、坂上はまだ実家から戻っていなかった。
(もしかすると、入れ違いになるかもな…)
彼のことを思い出し、俺はそう思った。
「千冬」
真藤先輩が入り口に現れ、俺を見つけて近付いて来た。
「具合、もういいのか?」
訊かれて俺は頷いた。
「はい。中島先生ももう歩いていいって…」
「そうか、良かった」
笑みを浮かべながらそう言って俺の肩を叩くと、先輩は食事を受け取る為に戻って行った。
先輩は昨日、小金井先輩に会ったのだろうか。だとしたら、どんな言葉を掛けたのだろう。
小金井先輩は、自分の気持ちを整理すると言っていた。そしたら今度こそ、俺たちはみんな、何も偽らずに向き合えるようになるのかも知れない。
真藤先輩は小金井先輩に対する自分の感情を恋愛ではないと言った。でも、単なる友情で片付けてしまえるものではないと俺には感じられる。
先輩が本当に好きなのは誰なのか、未だに俺にははっきりと分からない。
ただ分かるのは、それが俺ではないということだけだった。
トレイに食事を載せて戻って来ると、先輩は慶にも断って俺の隣に座った。
「ほら、千冬。プリン食べろ」
「え?」
コトンとトレイに置かれたプリンのカップを見て、俺は驚いて先輩を見た。
「好きだったろ?プリン」
「は、はい…。ありがとうございます」
もしかすると、お見舞いのつもりなのかも知れない。それか、俺の気持ちを少しでも元気付けようとしてくれたのだろう。
いつでも他人を気遣ってくれる優しい真藤先輩らしい行為だと思った。
「先輩は家に帰らないんですか?」
慶に聞かれて、先輩は首を振った。
「ああ。オヤジも夏の休暇は短くて戻れそうも無いって言うし、帰っても仕方ないからな。夏休み中、全く家に帰らないでここに残るのは、俺一人かも知れないな」
苦笑しながら先輩が言うと、慶は頷いた。
自分もそのつもりだったが、俺を連れて帰ることになった。そう言えば、予定が変わったって言っていたが、それは妹が病院から戻ることなのだろう。
「俺は明日、家に帰ります。千冬を連れて…」
慶の言葉に真藤先輩は顔を上げた。
「え…?千冬を?」
先輩が俺の方へ視線を移し、俺は何だか気後れがして目を逸らしてしまった。
「はい。……色々あったし、千冬も気分転換になると思って」
慶の答えを聞いて先輩は頷いた。
また視線をこちらに向けた先輩の目を、今度は俺もちゃんと見返した。
「そうだな。ここに居るより、きっといいよ。良かったな?千冬…」
「……はい」
先輩の気持ちを窺うように、俺はその目をじっと見た。
小金井先輩をあんなにも傷つけておきながら、自分は密かに想っている相手の家へ逃げる。 そんな俺を、本当は快く思っていないのではないか。
そんな気がして怖かった。
だが、先輩の目はいつも通り優しかった。
「でも、明日って早過ぎないか?戸田の家は他県だったよな?そんなに長旅して大丈夫か?」
あくまでも気遣ってくれる先輩に、俺は後ろめたさからまた目を逸らした。
「はい…。もう、大丈夫です」
「俺も付いてますし、千冬の気分が悪くなったら休みながら行きます」
被せるように慶がそう言って、先輩は頷いた。
「うん。頼むな?戸田」
先輩の言葉に、慶は一瞬反発するような表情を見せた。だが、すぐに頷くと、
「はい」
と返事をした。
先輩から貰ったプリンを食べ、俺は慶と一緒に部屋へ帰った。
食堂に残った真藤先輩は、俺が出て行くまで此方を向いて見送ってくれていた。
「千冬……」
「うん?」
躊躇いがちに話しかけて来た慶に、俺は顔を上げると彼を見上げた。
「ホントは、真藤先輩と一緒にここに残りたいって思ってるんじゃないか……?」
「え…?」
「だって、この前も真藤先輩に凄く頼ってたし、本当は先輩の傍に居るのが千冬は一番安心出来るんじゃないかって思って……」
「戸田……」
これは、嫉妬なのだろうか?
もし、そうなら、どんなに嬉しいだろう。
「俺…、戸田が誘ってくれてホントに嬉しかったよ。家に帰れないから、寮に居なきゃならないって思ってたし、戸田が言ったみたいに、暫くは違う場所に行きたいって気持ちも確かにあるんだ。やっぱり、気分転換したいんだと思う」
「そうか。なら、良かった」
ホッとしたような笑みを見せられて、俺はまた頬に血が上るのが分かった。
熱に浮かされたような目で俺が自分を見ていることに、慶が気づくのではないかと心配で、俺はすぐに目を逸らしてしまった。
「なんか、お土産買って行きたいな」
「え?俺の家に?いいよ、そんなの」
「ううん。慶の妹さんに…」
「瑠衣子に?」
驚いて、慶は俺の顔を見た。
「うん。妹さん、何が好き?」
「それなら…、千冬の撮った写真をやってくれよ」
「え?写真を?」
「うん。瑠衣子は余り外に出たこと無いから、知らない場所の写真を見たりすると喜ぶと思うんだ。だから、何かを買ってくれるより、その方がいい」
「分かった。大した写真も無いけど、選んでプリントして持って行くよ」
「うん、ありがとう」
本当に嬉しそうに、慶は笑った。
その笑顔を見て、慶がどれほど妹を大事に思っているか俺は改めて感じた。
きっと、早く会いたくて堪らないのだろう。
慶の妹のお土産を作ろうと、俺は午後から デジカメを持って学校へ出掛けた。
慶は購買に出掛けていて丁度部屋に居なかったが、断らなくても何処へ行ったか分かるだろうと思った。
休み中でも職員室に行けば、先生の誰かは必ず居る。俺は写真をプリントしたいからと断って部室の鍵を借りた。
誰も居ない部室に入り、俺は最初に窓を開けて蒸し暑く澱んだ空気を入れ替えた。
締め切ったままだった部屋は、余り涼しいとは言えない外からの風でも、吹き込めば幾らか爽やかな感じがした。
俺はTシャツの胸を摘んで中に風を送りながら、いつも使っているパソコンを立ち上げると、ケーブルでデジカメに繋いだ。
写真編集用のソフトを立ち上げ、主に学校の風景を写した写真を何枚か選ぶと、プリンターをセットして、それらを印刷した。
出来上がるのを待つ間、窓の外を眺めていると、開け放したままの扉から誰かが飛び込んできた。
ハッとして振り返ると、それは息を切らした慶だった。
「と、戸田……。どうしたの?」
俺が驚いて訊くと、慶はホッとしたような表情を見せて近付いて来た。
「いや…。部屋に居なかったから吃驚して……」
「え…?」
どうやら、俺のことを心配して探してくれたらしい。俺は驚くと同時に感激して慶を見つめた。
「ご、ごめん。心配してくれたんだ?」
訊くと、慶はフッと恥ずかしげに笑った。
「いや…。あんなことがあった後だから、気になって。でも、考えてみたら馬鹿みたいだよな?取り越し苦労もいいとこだ」
「ううん。ごめん、ちゃんと言ってから来れば良かった。ありがと…」
俺が見つめると、慶は苦笑気味に笑って視線を動かした。
「写真、プリントしてくれてるんだ?」
プリンターが動いているのを見ながら、慶は言った。
「うん。そんなにいい写真は無いんだけど、学校の様子とかが分かるのを選んだんだ。桜並木のとか、図書館を写したのとか、部活のとか…」
「うん、ありがとう。きっと瑠衣子も喜ぶよ」
「だといいけど…」
言いながら俺は、プリントされた写真を取ると1枚ずつ確認をして脇へ置いた。
それを取り上げ、今度は慶が1枚ずつ写真を眺めた。
俺を心配して、慶は必死で探してくれた。
さっきも真藤先輩に嫉妬するような態度を見せたし、小金井先輩からも俺を守ろうとしてくれた。
こんな態度を見せられたら、幾ら諦めようとしても、どうしても期待してしまう。
勇気を出して“好きだ”と言ったら、もしかして、答えてくれるのではないかと思ってしまう。
抱きしめて、そして、キスしてくれるのではないかと、そんな幻想を振り切れなくなってしまうのだ。
「……慶…」
横顔を見つめて、そう呼んでみた。
「うん?」
何の疑問も感じていない顔で慶は俺の方を見た。
「名前で呼んでもいい……?」
そう言うと、慶は笑った。
「いいよ。前からそう言ってるだろ?」
「うん…」
俺の表情に何かを感じたのか、慶は僅かに眉を顰めた。
「どうした?」
口を開いて、“好き”だと言おうとした。
でも、結局俺は開いた唇をまた閉じてしまった。
「ううん…」
首を振ると、俺は言った。
「帰りに食堂で何か飲まない?俺、奢るよ。いっぱい面倒見てもらったから」
すると、すぐに慶は笑みを見せた。
「そうだな。じゃあ、奢ってもらうかな」
「うん……」
部室を片付けると、職員室へ寄って鍵を返し、俺は慶と一緒に食堂へ行って冷たい飲み物を買った。
それを持って、外のカフェテリアへ出るとパラソルの下に二人で座った。
「明日の朝、何時に出ようか?」
俺が訊くと、慶はストローを口から離した。
「朝飯食べたら出よう。乗り継ぎやなんかで3時間くらい掛かるし……」
「そうなんだ。じゃあ、今日の内にちゃんと用意しとかなきゃ」
「着替えだけ持っていけばいいよ。後はウチで用意出来るし」
「うん。ありがと」
俺が礼を言うと、慶は何かを思い出して笑みを浮かべた。
「瑠衣子、喜ぶだろうな。千冬に会ったら…」
その言葉に、俺は軽く笑みを浮かべただけで何も答えられなかった。
慶の家に行くのは楽しみだった。でも、怖くもあった。
そんな気持ちの狭間に立ち、俺は少しずつ緊張し始めていたのだ。