涙の後で
-7-
重いだろうに、俺の身体を背負って先輩は部屋まで運んでくれた。
先輩が声を掛けると、すぐに返事が聞こえて慶がドアを開けた。
背負われた俺を見ると、サッと顔色を変えて慶はドアを大きく開いた。
「千冬?先輩、千冬が何か……?具合が悪いんですかッ?」
「ああ、ちょっとな…」
「千冬?どうした?」
心配そうに俺の顔を覗き込みながら、慶はベッドへ歩いて行く先輩と一緒に付いて来た。
「平気…。ちょっと……」
目を逸らし、俺は先輩の背中に顔を隠すようにしながら答えた。
まさか、慶に本当のことなんて言えやしない。顔を見られるだけでも嫌だった。
今の自分を、慶に見られたくない。そんな思いで、俺は顔を背けた。
真藤先輩が気遣いながら俺をベッドに下ろしてくれ、そのまま俺の前に膝を突いた。
「今、身体拭いてやるから、それから着替えろよ」
「いっ、いいですッ、そんな…っ」
驚いて俺が首を振ると、先輩は俺の手を掴んだ。
「でも、気持ち悪いだろ?」
そう言った先輩の顔は少し緊張していた。
セックスの後なのに、シャワーも浴びられないことを気にしてくれているのだ。
でも、気遣うことで、却って俺を傷つけるのではないかと思ってくれているのだ。
だから俺は、その優しさに抵抗するのを止めた。
でも、事情を知らない慶には先輩の言動が不審に思えたのだろう。サッと近付くと、先輩の肩を掴んだ。
「そんなことまで、何で先輩が?必要なら俺が手伝いますから。ルームメイトだし、千冬の具合が悪いなら俺が面倒見ます」
きっぱりと、まるで先輩に挑むような口調で慶はそう言った。
それを、俺は喜んでいいのかも知れなかった。
単なる同室だからという義務感だとしても、慶は俺の面倒を見てくれるつもりなのだし、それに、気の所為かも知れないが、慶は先輩にライバル心のようなものを持っているように感じたのだ。
でも俺は、小金井先輩に抱かれた後の身体を慶に見られることは耐えられなかった。
「い、嫌だッ。俺は、拓馬さんがいい。拓馬さんに手伝ってもらうから……」
「千冬……」
慶はショックを受けたようだった。
先輩の肩を掴んだ手が、滑り落ちて身体の脇で止まった。
真藤先輩は立ち上がると、慶の背中に手を当てて部屋を出るように促した。
「悪いが、ちょっと外に居てくれないか?千冬を着替えさせたら、少し話したいから…」
「え…?」
怪訝そうに聞き返したが、それでも慶は先輩が促すのに逆らわず部屋を出て行った。
戻ると、真藤先輩は俺のクローゼットから着替えを出し、そしてバスルームへ行ってタオルをお湯で絞ってきてくれた。
「ほら、脱いで?」
「……はい」
頷くと、俺はシャツを脱いで肌を晒した。
先輩は丁寧に俺の身体を拭いてくれた。
「待ってな。もう1回絞り直してくるから」
「はい…」
戻ると先輩は、俺にズボンと下着を脱ぐように言った。
「あの…。俺、ここからは自分で…」
「見られるの、嫌か?」
コクッと頷くと、先輩は笑ってタオルを俺の手に渡した。
「じゃあ、俺は外に行ってる。…戸田とちょっと話してくるから」
「た、拓馬さん、あの……」
まさか慶に本当の事を言うつもりなのだろうかと、俺は不安になって先輩を引き止めた。すると、先輩は俺の肩にぽんと手を載せた。
「嫌なのは分かってる。けど、言わないとな?戸田に隠しておくのは無理だよ。千冬は暫く自由に動けないし、中島先生もここに治療しに来るだろうしな…」
「で、でも、俺……」
小金井先輩に抱かれた事を慶に知られるのかと思うと、俺は怖くて堪らなかった。
隠し通せるなら、隠しておきたい。でも、状況はそれを許してくれそうも無かった。
「千冬…」
立ち上がって、先輩は俺を抱きしめてくれた。
俺を励まそうとしてくれているのが分かる。
その腕に縋り、俺は暫くの間、じっと抱かれていた。
いつでも先輩の腕は、俺にとって一番優しい。そして、いけないと分かっていながら俺は、それに甘えてしまうのだ。
「行くよ?タオルが冷めちまう」
「はい…」
俺が頷くと、先輩はもう1度俺の背中を叩き、そして出て行った。
体を動かすと、確かにまだ辛かった。
でも、俺はジーンズと下着を脱いで身体を拭いた。
患部は先生が綺麗に洗浄してくれたので汚れてはいない筈だった。その外の部分をタオルで拭い、先輩が出してくれた綺麗な下着とパジャマを身に着けた。
汚れ物をバスルームのランドリーボックスへ運ぼうと思ったが、立ち上がろうとすると痛みが走ってすぐに手を突いてしまった。
仕方なくまた横になり、俺は閉じたドアを見つめた。
あの向こうで、真藤先輩は慶に俺と小金井先輩のした事を説明しているのだろう。
戻って来た時、慶は俺をどんな目で見るのだろうか。
軽蔑するだろうか?
それとも、同情してくれるのだろうか?
でも、そのどちらだとしても、俺は慶に見られることが怖かった。
今朝、俺は慶と出掛けられることの嬉しさに胸を弾ませていた。デートじゃないと分かっていても、二人きりの時間を過ごせることが嬉しくて堪らなかった。
プラネタリゥムで慶に手を繋がれたことも、その意味は分からなくても嬉しかった。触れてもらえたことが、単純に嬉しかったのだ。
でも、まだ昨日にもなっていないそんな時間が、今はもう、まるで遥か昔のことのように思えた。
自分が、あの時とは違う人間になってしまったような気さえした。
もう、今朝の俺は何処にも居ない。
そう思えて、怖かった。
ノックの音がして先輩がドアを開けた。
「着替え、出来たか?」
「はい。大丈夫です」
先輩の後に続いて、慶が入って来た。
その顔色は驚くほど青白かった。
「千冬……」
泣きそうな顔で、慶は俺を見た。
「戸田、俺は帰るから…。後は頼むな?」
真藤先輩にそう言われ、慶は頷いた。
「はい……」
先輩はもう1度俺の前に膝を突いて手を伸ばすと、俺の額から髪を撫で上げながら言った。
「明日、また来るから。難しいと思うけど、今日はゆっくり休めよ?」
「はい…。ありがとうございました。あの…、拓馬さん…」
俺が言う前に、先輩は頷いた。
「ユキのことなら大丈夫だ。中島先生がついてるし、明日また、俺も行って見るから」
俺が何を言いたかったのか、先輩はちゃんと分かっていてくれた。
「はい…」
安心して俺が頷くと、先輩はもう1度俺を撫で、そして立ち上がった。
先輩が出て行くと、今度は慶がゆっくりと俺のベッドの脇に膝を突いた。
「千…冬……」
キスされるのかと思った。
ドキドキしながら慶の身体が近づくのを感じ、額が押し付けられたのに気付くと、俺はゆっくりと目を開けた。
そして、心の中でひっそりと自分の事を嗤った。
慶が俺にキスなんかしてくれる訳がない。
幾ら同情したって、そこまでする訳が無かった。
「戸田?俺、大丈夫だから……」
やっと、それだけを言った。
すると、慶は俺の頭に額を押し付けたままで首を振った。
「大丈夫な訳ない。大丈夫なもんか」
「……慶…」
思わずそう呼んでしまった俺を、慶の腕が強く抱きしめた。
「あ、あの…俺、ホントに大丈夫だから……。ちょっと無理しちゃったけど、でも、後悔してない。だって俺、ユキ先輩のこと好きだから…」
「千冬……」
顔を上げた慶は、少し怒りを感じさせる目で俺を見た。
「嘘だ…」
「戸田…?」
何故、そうもきっぱりと俺の言葉を否定するのか分からなかった。
まさか、慶は俺の気持ちを知っているのだろうか。
俺は恐怖で身体を硬くした。
まさか、真藤先輩は俺の本当の気持ちまで慶に伝えてしまったのだろうか。
「嘘だ。千冬は誰かとセックスしたいなんて考えたりしない。そんなの、千冬らしくない」
「え…?」
驚いた俺を、慶はまた抱きしめた。
「怖かったろ?…可哀想に…、千冬……」
なんだろう……?
抱きしめられながら、俺は慶の言葉に違和感を覚えて戸惑っていた。
真藤先輩は余計なことは言わないでいてくれたらしい。でも何故、慶は決め付けるようなことを言うのだろうか。
俺の全てを知っているような、そんな言い方をするのだろうか。
「戸田?あの…、もう離して?」
抱きしめられるのは嬉しい。でも、煩いほど高まっている鼓動に気付かれはしないかと心配だった。
「俺に触られるの、嫌か?それとも、怖い?」
悲しそうな顔でそう言われ、俺は慌てて首を振った。
「ち、違うっ。そういう訳じゃないよ…ッ」
「本当か?……前から、ちょっと感じてたんだ。もしかして、千冬は俺に触られたりするのを怖がってるんじゃないかって」
「そ、そんなこと無いよ。怖がってなんか無い」
俺が言うと、慶は少しホッとしたような顔をした。
「良かった…。いつも、俺が触ると身体を硬くするから、怖いのかと思ったんだ」
そう言って、慶は少し笑った。
「最初、“怒ってるのか?”って訊かれたぐらいだし、ずっとその印象が強いのかと思ってた。……けど、考えてみれば俺が変なんだよな?今日も、プラネタリゥムで手を繋いだり、すぐに千冬を抱きしめたり……。普通は男同士でそんなことしないもんな。千冬が警戒しても当たり前だよ」
「別に…、警戒なんかしてないけど……」
でも、そう言われればそうかも知れないと思った。
普通、ただの友達同士は手を繋いだり、抱きしめたりしない。
慶はきっと、今でも俺に妹の存在を映しているのだろう。だから、触れようとするのだ。
さっきの言葉も、それなら理解出来る。
慶は俺に妹を映しているから、俺を現実とは違う、純粋な存在と捉えているのだ。
「ごめん…」
言いながら、慶はまた額を俺に押し付けた。
「俺の腕なんかじゃ役に立たないと思うけど、でも……、今日だけはこうしていたい。千冬が傷つけられたのかと思うと堪らないんだ……」
「戸田……」
もし、妹が俺と同じ目に合ったら……。
慶の心の中には、きっとそんな思いがあるのだろう。
でも、優しくされるのは素直に嬉しかった。
それに、慶に抱きしめてもらえるのは、やはり俺にとっては幸せなことだったのだ。
でも、幸せな時間はもう終わりだ。俺はちゃんと報いを受けなければならない。
俺は慶の妹とは違う。そんなに綺麗な、純粋な存在なんかじゃない。
自分がどんなに卑怯か慶に言わなくてはならないのだ。
「俺…、傷ついてなんか無いよ。俺がユキ先輩を、それに…、拓馬さんのことも傷つけたんだ」
「なに言ってる……」
「本当だよ。……俺が、言わなくてもいいこと言ったから、二人とも傷つけた。全部、俺が悪いんだ」
俺の言葉を聞いて、慶は顔を上げた。
「それ、尚也さんのことか?」
「うん…」
俺が頷くと、慶の眉間に皺が刻まれた。
「どういうことだ?何で尚也さんのことで、あの二人が傷つく?大体、小金井先輩がこんなことするなんて、それも信じられない。あの人が衝動的に千冬に乱暴するなんて思ってもみなかった」
「乱暴なんてっ…、そんな言い方するなよ。言ったろ?俺はレイプされたんじゃない。ちゃんと…ッ」
「嘘だッ」
遮られて俺は驚いて慶を見上げた。
「戸田……」
「庇うなよ。もう、庇うな…。さっき、真藤さんも言ってた、小金井先輩は少しおかしくなってたんだろうって。……その理由が、尚也さんなんだろ?」
ギュッと腕を握られて、俺は身を竦めた。
もう、慶にも隠してはおけないだろう。
「……ユキ先輩は、本当はずっと友井先輩のことが好きだったんだ。だから…、友井先輩とあの男の人の関係を知って、傷ついて……」
「え…?小金井先輩が尚也さんを?」
何も知らなかった慶には、衝撃だったのだろう。 目を見張って俺を見つめた。