涙の後で
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「と、戸田…?」
俺が呼ぶと、慶はやっと振り返った。
その表情は複雑で、無理に笑おうとしているのがありありと分かった。
「びっくりしたな…?こんなトコで尚也さんと遭遇するなんて…」
「先輩、家に帰ったんじゃなかったの?」
どういうことなのか訳が分からず、俺は慶にそう訊いた。
「さあ…?帰った筈だけど……、戻って来てたのかな…」
首を傾げ、わざと素っ気無くそう言うと、慶は傍に来て俺の腕を掴んだ。
「行こう、千冬。なんか甘いものでも奢るし…」
「で、でも…ッ」
家に帰った筈の友井先輩がこんなところに居たことも驚きだったが、俺たちに見せた彼の態度も解せなかった。
見られたことに対して明らかに動揺していたし、大体、幾ら突然で思いがけなかったとは言え、付き合っている筈の慶と出合って、あんなに素っ気無い態度を取るなんておかしい。
それに、慶の態度も明らかにおかしかった。
「いいから。俺、喉カラカラなんだ。ほら、行こう」
「戸田…」
やや強引に腕を引っ張られ、俺は仕方なく慶に従って歩き出した。
横顔を見ると、何だか強張って見える。
一体、慶と友井先輩の間に何があったのだろうか。
一体何故、友井先輩はこんなところに居たのだろう。
そして、あの男の人は、一体誰だったのだろう。
全てが理解出来ず、俺は混乱するままに、ただ慶の横顔を見つめた。
あの後、慶と俺は予定通りカフェに入ってお茶をしたが、慶は友井先輩についての話題を避けて、何も話してはくれなかった。
だから俺は、慶が先輩と一緒に居た男について何かを知っているのか、それとも何も知らないのか、まるで分からなかった。
慶の気持ちについても同じで、あの時、何を思っていたのか教えてもらう事は出来なかった。
そしてそのまま、気まずい空気を残して俺たちは寮に帰って来た。
帰りの電車の中も、バスの中も会話は殆ど無かった。
出かける時の、あの弾むような気持ちはもう何処にも無く、プラネタリゥムで手を繋いできた慶の気持ちも訊けないままに、全てが過去になっていくような気がした。
寮の部屋に入ってからも、慶は黙り込んだままで何も言おうとしなかったし、俺は何だか身の置き所を無くしたように感じて、一緒の部屋に居る事が辛くなってきた。
かと言って、部屋を出て行くのも何だかわざとらしい。
もうすぐ夕食の時間だったが、一緒に食堂へ行こうとも言い辛くて、俺は仕方なくベッドに腰を下ろしたまま、時間が経つのを待つしかなかった。
「千冬…」
突然、声を掛けられ俺はビクッとして顔を上げた。
「な、なに?」
「飯、そろそろ行かないか?」
「えっ?あっ…、あ、うん。そうだね、行こうか……」
慌てて立ち上がった俺に近付き、慶は安心させるような笑みを浮かべた。
「千冬、さっきのことはもう気にするなよ。俺は別になんともないし、千冬が気を遣う必要なんかないから」
「う、うん…」
頷いたが、俺は慶が無理をしているように感じていた。
連れ立って食堂へ行くと、がらんとした室内には2、3組の生徒達が居るだけだった。
余り会話も無いままに食事を済ませ、俺たちはまた部屋に帰った。
慶は、いつも通りにパソコンを広げると、俺に背を向けてしまった。俺は居た堪れない思いを拭えずに、カードと携帯を持つと部屋を出た。
売店に寄って飲み物をふたつ買い、俺はB寮の方へと向かった。
もう、真藤先輩は夕食を終えただろうか。
もしかして真藤先輩なら、友井先輩と一緒に居た男の正体を知っているのではないだろうか。
あの男の人が誰なのか知ることが出来たら、少しは気持ちが落ち着くような気がして、俺は真藤先輩の部屋を訪ねてみようと思ったのだ。
ノックをすると、運良く先輩は部屋に居た。すぐに返事が聞こえ、ドアが開いて真藤先輩が姿を現した。
「千冬…」
先輩の笑顔にホッとすると同時に、今まで押さえ込んでいた感情が一気に溢れ出してしまった。
涙が溢れ出すのを押さえられず、俺は開いている片手で零れる雫を必死で拭った。
「ど、どうした?千冬、何かあったのか?」
驚いて俺の肩を掴む先輩を見上げ、俺は言った。
「今日、隣町で友井先輩に会いました……」
「えっ?尚也と…?」
少なくとも、先輩が実家から戻っていたことを知らなかったらしく、真藤先輩は本気で驚いていた。
俺は頷くと、話を続けた。
「先輩は様子がおかしかった。俺に気付いたのに、まるで避けるようにして…。大体、実家に帰った筈なのに何で先輩があそこに居たんですか?一緒だった男の人は誰なんですか?友井先輩とどういう関係なんですか?」
「ち、千冬…ッ」
真藤先輩の顔色が変わり、俺の話を遮るようにギュッと腕を掴んできた。
でも俺は、今まで押さえ込んでいたものをぶつけるようにして先輩に言葉を投げた。
「慶の顔見て、先輩は“ごめん”って…。あれはどういう意味?そして、まるで逃げるみたいにして行ってしまった。拓馬さんは知ってたの?あの人が誰なのか、友井先輩のなんなのか、知ってたんですか?」
「千冬ッ」
先輩が叱るように俺を呼んだ時、俺は先輩の背後に誰かが立っているのに気付いた。
ハッとして俺が見ると、驚愕に目を見開いた小金井先輩が立っていた。
「拓馬…?どういうことだ…?」
「ユ、ユキ先輩……」
小金井先輩を見たまま固まってしまった俺を、真藤先輩は片腕で抱くようにして部屋の中へ促した。
「千冬、中に…」
ガクンと、俺は小金井先輩を凝視したままで頷いた。
大変なことをしてしまったのだと、今更ながらに気づいた。
まさか、小金井先輩が寮に戻っていたなんて思いもしなかった。だが、興奮して真藤先輩の顔を見るなり話し出してしまったのは明らかに迂闊だった。
気をつけるべきだった。
せめて、部屋に入ってからにするべきだった。
そうすれば、聞きたくない筈の余計な話を小金井先輩に聞かせる事も無かったのだ。
「拓馬っ。今の話、なんだ?やっぱり尚也は家に帰ってなかったのか?おまえ、それ、知ってたのかっ?」
俺の存在など忘れたかのように、小金井先輩は真藤先輩に詰め寄った。
「ま、待てよ、ユキッ。俺だって知らなかったさ、尚也は家に帰ったんだとばっかり……」
「じゃあ、なんで隣町に居る?一緒に居た男ってのは誰なんだよッ」
胸倉を掴まれて、真藤先輩は仕方無さそうに溜め息をついた。
俺は慌てて先輩達の間に割り込むようにして興奮した小金井先輩の腕を掴んだ。
「ユキ先輩っ、止めて下さいッ」
居るのに初めて気付いたように俺を見て、やっと険しい表情を緩めると、小金井先輩は真藤先輩の襟を離した。
「済みません。俺がまた、余計なことを……」
俺が謝ると、真藤先輩は宥めるように俺の肩を掴んだ。
「いや…。千冬は悪くないよ」
「で、でも…ッ」
俺が見ると、小金井先輩は疲れたようにベッドに腰を下ろした。
「もう大丈夫だと思った。もう、今なら冷静に話せるって……。だから、実家の方に電話して、会おうと思ったんだ。このまま卒業まで今の状態が続くのが嫌だったから…」
項垂れたまま話し始めた小金井先輩の隣に腰を下ろすと、真藤先輩は励ますように彼の肩を抱いた。
そんな二人を見て、俺は胸が苦しくなった。
小金井先輩だけが傷ついているのではない。多分、こんな小金井先輩を見れば真藤先輩もまた傷ついているのだと思った。
「でも、尚也のお母さんは、尚也は8月半ばにならないと帰らないって。……そんな筈無い。終了式の日に確かに尚也は寮を出たんだッ」
どうやら小金井先輩は、友井先輩の行動に不審を覚えて寮に戻って来たらしかった。
やはり、今でもずっと友井先輩のことが気になっていたからだろう。
そして、首を振り、苦しげな顔で話を続ける先輩を俺はただ見つめるしか出来なかった。
「週末だって、殆ど家に帰って来ないって…。長期休みも、講習を受けるからって戻らないことが多いって…。そんな筈無いだろ?尚也は週末も長期休みも寮に居た事なんか1度も無かったッ」
確かに、友井先輩は週末になると必ず家に戻った。家が煩いからだって聞いていたし、誰もそれを疑ったりしなかった。
それなのに、家の人にも友達にも嘘をついて、一体先輩は何をしていたのだろうか。
そして、それを真藤先輩は知っていたのだろうか。
見ると、真藤先輩は酷く辛そうな顔をしていた。それでも、黙っていられないと思ったのか、重い口を開いた。
「……今日、千冬が会った人が、尚也の本当の恋人だ……」
真藤先輩の言葉に、小金井先輩はゆっくりと顔を上げた。
「拓馬……、やっぱりおまえ、知ってたのか……?」
小金井先輩は目を見開いて真藤先輩を見つめた。
それは、裏切られたことにショックを受けているように俺には感じられた。
真藤先輩は疲れたような表情で頷くと、小金井先輩の肩から手を離した。
「1年の時、仲良くなって暫くして打ち明けられた。……尚也の相手は…、中3の時の化学の先生だそうだ」
「なっ……」
小金井先輩の目が驚愕で更に見開かれた。
それは、先輩にとって余りにも衝撃的なことだったのだろう。
いや、俺にとっても、勿論信じられないような事実だった。
「し、清水先生か……?確かに先生と尚也は他の生徒よりは親密そうだったけど、でもそんな……。清水先生は結婚してるし、子供だって……」
「だから誰にも言えなかったんだろ。奥さんにバレて、先生はおまえらの卒業と同時に学校を辞めることにした。別居してあの町に住み、今は塾講をやってるらしい。尚也は、先生を追い掛けてこの学校へ来たんだ…」
「それで、今でも付き合ってるって?馬鹿なっ…、なら、尚也は、尚也はずっと今まで俺たちを騙して……?」
「ここに居れば、先生と会い易い。寮に居ると思っている親にも、バレずに済む。尚也だって必死だった。先生との関係を続ける為に……」
慶は知っていたのだろうか。
全て知っていて、それでも先輩の為にカモフラージュの恋人役を引き受けたのだろうか。
それとも、何も知らされず、ただ先輩を好きだから付き合っていたのだろうか。
だとしたら、慶だって傷ついている筈だった。
「酷い…。そんな、そんな……ッ。俺はずっと、ずっと…ッ」
小金井先輩の言葉を遮るようにして真藤先輩は彼の肩を掴んだ。
ハッとして顔を上げた小金井先輩が、戸惑いを隠せずに俺を見つめた。
「ち、千冬…」
駄目だと思ったのに、涙を堪えることが出来なかった。
ぽろぽろと溢れ出す涙をどうすることも出来ず、俺は下を向くしかなかった。
「ご、ごめんなさ…ッ。俺、俺が余計なこと……っ」
また、俺の所為でみんなを傷つけた。
そう思うと、申し訳なくて、今すぐここから逃げ出したかった。
「違うっ。何時かは知ることだった。た、ただ…、尚也の相手が清水先生だったなんて、ショックが大きくて…。け、けど…、俺にはもう関係ない。そうだよ、千冬、俺はもう千冬のことをちゃんとッ…」
近寄って伸ばして来た先輩の手から逃れる為に、俺は後ろへ下がった。
どんなにショックを受けているだろう。どんなに傷ついているだろう。
俺の不用意な言葉で、小金井先輩に取り返しのつかないほどの痛みを与えてしまったのだ。
それなのに、泣きそうな顔をしながらも先輩は俺を気遣ってくれようとしている。
そんな資格なんか、俺には無いのに。
「も……、いいんです…。俺…、ごめんなさいッ…」
言うなり、とうとう俺は逃げ出した。
だが、部屋を飛び出して幾らも行かない内に俺は掴まってしまった。
「千冬ッ」
後ろから来た小金井先輩に抱き止められ、俺は首を捻って彼を見上げた。
「違うっ、違うんだッ…」
「ユキ先輩…」
「俺はもう、尚也のことは諦めて…」
そこまで言ってハッとすると、小金井先輩はまじまじと俺の顔を見た。
「い、いや、俺は……」
思わず手を伸ばし、俺は先輩のシャツを掴んでいた。
もう隠しては置けない。隠しておけばそれだけ沢山、先輩を傷つけてしまう。
少なくとも俺は、先輩にこれ以上の罪悪感を持たせてはいけないのだ。
「いいんです。俺…、本当は知ってた。ユキ先輩が好きなのは、本当は友井先輩だってこと…」
「ち、千冬……」
多分、俺が知っているなんて思いもしなかったのだろう。先輩は驚いた顔で俺を見た。
「俺、ずるいんです。先輩が思っているような人間じゃない。庇ってもらうような、気遣ってもらうような人間じゃないんです。……先輩の気持ち、知ってた。知ってて、それでも知らないふりして付き合ってたんです」
先輩の手が俺の腕から落ちて行った。
それを、酷く悲しく感じて俺は黙った。
「俺は…、忘れようとしてたんだ、ほんとに。千冬が傍に居てくれれば忘れられるような気がした。……そんな俺に、千冬は同情してたのか?だから、付き合うことをOKしてくれたのか…?」
「ち、違いますッ」
慌てて顔を上げて俺は言った。
「同情とか、そんなんじゃありません。ただ、ただ俺……、他に…好きな人が居て……、でも、敵わない恋だから、わ、忘れたくて……」
段々と先輩の表情が曇り始め、そして、段々と俺の声は小さくなった。
「千冬も……?」
擦れた、先輩の声に俺はとうとう言葉を飲み込んでしまった。
傷つけた……
そう思って、胸が激しく痛む。
先輩の、今にも泣きそうな顔が俺を激しく責め立てた。
「はッ……」
歪んだ笑いが、先輩の顔に浮かんだ。
「俺が…、何も言える訳ないよな?……でも俺は、少なくとも尚也を忘れる為に千冬と付き合ってたつもりはない」
「わ、分かってます…」
唇が震えるのが分かった。でも、先輩に与えてしまった傷を、俺は何としてでも、少しでも癒さなければならないのだ。
「お、俺…、自分のことが嫌で堪らなくて……、それなのに、こんな俺を先輩が選んでくれたことが凄く嬉しかった。一緒に居るのも楽しくて…、先輩と居ると穏やかな気持ちになれたから。だから俺……」
先輩の手が伸びて、俺の手を掴んだ。
顔を上げると、じっと見つめる先輩の視線と出合った。
「ほんと……?」
「本当ですっ。ずっと、先輩と付き合えて良かったって……。一緒に居られて凄く楽しかった。それだけは嘘じゃない。嘘じゃありませんッ」
「千冬ッ」
「んっ…」
いきなり唇を塞がれ、俺は驚いて先輩のシャツを掴んだ。
激しく唇を吸われて息が出来なくなり、しがみ付くと、先輩は俺の身体を抱えるようにして引っ張った。