涙の後で
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夏期講習が終わり、講習を受けていた生徒達も大半が帰宅していった。
寮の中は益々静かに寂しくなり、食堂へ行っても見かけるのは数人の生徒だけだった。
「明日、行こうか?隣町」
慶にそう言われて、俺は少しドキリとした。
誘ってくれるのを待っていた。いや、心待ちにして、ずっとワクワクしていた。
でも、俺はもう1度自分を戒めて、心の中で言い聞かせていた。
(友達として行くんだ。友達として、ただ遊びに行くだけだ。勘違いしちゃ駄目だ。絶対に、余計な期待はしちゃいけない…)
「あ、うん。いいよ。じゃあ、何時に出る?」
平静を装い、俺はさり気無く聞こえるように気をつけながら返事をした。
「9時半は?遅いか?」
朝が弱い慶はギリギリまで寝ていたいのだろう。食堂が開いているのは8時半までなので、多分、起きるのは8時くらいだろう。だとすると、出かけられるのはそれぐらいの時間かも知れない。
俺は笑いながら頷いた。
「いいよ。じゃあ、9時半頃に出ようか。バスの時間、見ておかないと…」
寮の玄関と談話室に、上り下りのバスの時刻表が貼ってある。夕食の後にでも見に行ってこようと思った。
夏休みになっても、相変わらず、慶はパソコンを前に座っていることが多い。
前から気付いていたが、慶のキーを打つスピードはとても速かった。
何を打っているのか知らないが、多分、文章のようなものなのだろう。
マウスを使うことは余り無く、見ると、いつも素早い指の動きでキーを叩いていた。
躊躇ったが、俺は疑問に思っていたことを訊いてみる事にした。
「戸田?」
呼び掛けると、慶は振り向かずに返事をした。
「うん?」
「いつもさ、パソコンでなにやってんの?」
「ああ…」
慶はちょっと笑いながら振り返ると、俺を見て照れくさそうな顔をした。
「小説、書いてるんだ」
「えっ?小説…?」
思いも掛けない答えに、俺は驚いてしまった。
まさか、毎日、慶がせっせと小説を書いていたなんて、まるで考えもしなかったのだ。
「実は俺、小説家志望なんだよ。まあ、って言っても、まだ碌なもんは書けないんだけどな…」
苦笑しながら慶はそう言った。
「す、凄いな。小説書いてるなんて…。て言うか、将来の夢がちゃんとあるなんて凄いよ」
俺が感心すると、慶はまた照れたような顔になった。
「そんなことないよ。小さい頃から本を読むのが好きで、自分もこんな風に小説を書けたらいいなって思ってたんだ。ただそれだけで、モノになるかどうかはまた別の話だよ」
「ううん。きっとなれるよ。俺、応援するっ」
勢い込んでそう言ってから、俺はハッとなった。
「……って、俺が応援したって仕方ないけど…」
恥ずかしくなってボソボソとそう言うと、慶は笑みを浮かべた。
「いや、嬉しいよ。ありがとな」
俺も躊躇いがちにだが笑みを浮かべて頷いた。
自分には何もないだけに、確固たる夢を持ってそれに向かって努力している慶が俺には眩しかった。
「納得できるものが書けたら投稿してみようかと思ってるんだけど、中々なぁ…」
言いながら伸びをして、慶は机の上のカップを持つと立ち上がった。
どうやら、コーヒーを淹れるつもりらしい。
そう言えば、前に父親と将来について意見が合わないと言っていた。という事は、きっと慶の父親は彼が小説家になることに反対なのだろう。
それを訊くと、慶は湯気の立つカップを運びながら苦い顔で頷いた。
「実はそうなんだ。親父は俺を医者にさせる気でいる。でも俺は、親父の病院を継ぐ気はない」
「戸田のお父さんはお医者さんなのか…」
「ああ、結構大きい病院の院長でな。本当は地元の進学校へ俺を入れて医大へ進ませるつもりだった。でも俺は、逆らってここへ来たんだ」
「でも、前に楠田に訊かれた時、ここの大学へは行かないって言ってたよな?」
思い出して俺が訊くと、慶は頷いた。
「ああ、出来れば留学したいし…。若い内に色々体験しておくことも、文章を書くのに必要じゃないかと思うんだ」
「ふうん…」
俺は益々感心して頷いた。
慶はきちんと自分のやるべきことを理解して、それを実行に移そうとしている。
前にバイトしたいと言っていたのも、父親の力を借りずに夢を実現させる為だったのだろう。
だが、下の町ではアルバイトも中々見つからない。夏休み中のアルバイト先は、あったとしても殆どが下の高校の生徒で埋まってしまうのだ。
「でも、親父は金を出してくれそうもないし、ここじゃバイトも無理だしな。留学するとしたら高校卒業後に暫く働かないと駄目かもな」
苦笑しながらそう言い、慶はコーヒーカップを口に運んだ。
その夜、俺はベッドの中に入ってから中々寝付けなかった。
本当は、いつか慶の書いている小説を読ませてもらいたいと思った。
でも、結局言い出せなかった。
俺なんかに見せてくれる筈が無いと思ってしまったからだったが、言い出す勇気もなかったのだ。
俺も、この学校を卒業するまでには、何か自分のやりたいことを見つけることが出来るのだろうか。
このまま、何の目的も無く生活し、そして目的も無いままに上の学校へ行くような気がしてならなかった。
好きな人に想いも告げられない、不甲斐ない自分。
そしてそれは、全てに於いて言えることなのかも知れない。
自分を持っていないから、自信が持てない。だから、本当の気持ちも告げられないのだ。
慶に近づきたいなら、もっとそうなれるように努力しなければ駄目なのだ。
明日は一緒にバスに揺られ、それから電車に乗って街へ行く。
ずっとずっと、一日中、慶の隣に居られる。
考えただけで嬉しくて、俺は眠れなかった。
でも、本当はもっと近くに行きたい。
ただ隣に居るだけじゃなく、心ももっと近付きたい。
本当は、慶の心の一番傍に、俺は行きたいのだ。
そう考えると、深い溜め息が出た。
慶が聞いたら、きっと呆れるだろう。
でも、今の俺の一番の夢は、誰よりも近く慶の傍へ行くことだった。
まだ6時前だったが、目が覚めてしまった俺は起き出してバスルームへ入った。
鏡を見て、溜め息をつく。
良く眠れなかった所為で目の下に隈が出来ていた。こんな顔で、今日、慶と出掛けるのかと思うと少し憂鬱な気持ちになってしまった。
別に、デートじゃない。
それに、慶は俺の顔がどうなっていようと少しも気にしないだろう。目の下の隈になんか、気づく筈も無いのだ。
それでも俺は気になって、鏡を見ながら何度も目の下を擦った。
女の子だったらメイクアップで少しは隠すことも出来るだろうが、男ではそうもいかない。伊達眼鏡でも持っているなら掛けたい気分だった。
もう1度溜め息をつき、仕方なく諦めると、俺は裸になって湯船に入り、シャワーカーテンを引いた。
慶が起きてくる前にシャワーを浴びて、髪も洗いたかった。
今日は何時もよりも早かったが、大体毎朝、俺は慶の起きる前にシャワーを浴びる。それは、着替えている姿を見られたくなかった所為もあった。
小金井先輩も少し驚いていたようだったが、真っ白だと言われたこの身体を余り見られたくない。ひ弱そうで恥ずかしかったのだ。
中学時代に、クラスメイトにからかわれたこともあって、少々コンプレックスになっていたのかも知れない。
髪と身体を洗ってシャワーから出ると、ドライヤーで髪を乾かし、バスルームから出た。
慶はまだ夢の中に居るようで、ぐっすりと眠っていた。
俺は着替えを身に着けると、部屋を出て寮の外へ向かった。
まだ食堂は開かないし、時間まで散歩でもしようと思ったのだ。
まさか、こんな時間に外を歩いている人間も居ないだろうと思ったのだが、カフェテラスの方へ脚を向けると、開いた傘の下に誰かが座っているのが見えた。
「あ…、おはようございます」
俺が声を掛けて頭を下げると、その人は読んでいた本から顔を上げて俺を見た。
「おう。早いな…。散歩か?」
「はい。早く目が覚めてしまったんで…」
いつもは白衣なので感じが違うが、それは校医の中島先生だった。
草臥れたジーンズに麻らしい白っぽいシャツを着て、足はサンダル履きだった。目の前のテーブルには販売機で買って来たらしいコーヒーが載っていた。
「先生も早いですね」
「ああ。俺は夏になるといつもこれぐらいには起きてる。エアコンつけねえから、暑くて寝てらんねえんだ」
「はあ…」
風貌に似合わず、口調がぞんざいで少し面食らった。
近くで見るのは入学当初の健康診断の時以来だったが、先生は他の先生達のように学校の隣にある教員寮ではなく、舎監の先生と同じように学生寮の中に自分の部屋を持っていた。
なので、時折、寮の中を歩いているのを見かけることがあったのだ。
でも、夏休みに入ってからは食堂でも見かけなかったし、家に帰っているのだと思ったが、まだ帰省していなかったらしい。
「先生、夏休みもずっと学校に…?」
俺が訊くと、中島先生は首を振った。
「いや。昨夜遅くに帰って来たんだ。明日辺りからボツボツと運動部の合宿が始まるんでな。怪我に備えて俺も戻って来た」
なるほど、と俺が頷くと、先生はちょっと眉を上げるようにして俺を見た。
「おまえ、1年か?」
「あ、はい。1年の高梁です」
俺の答えを聞くと、先生は何故かにやりと笑った。
「そうか、おまえが噂の高梁千冬か。なるほどな……」
「な、なんですか?噂って…」
俺が聞き返すと先生は笑みを浮かべたままで言った。
「いや、春頃に野球部の連中なんかが騒いでたからな。小金井に持ってかれたって、みんな随分悔しがってたぞ」
その言葉に俺はカーッと頬に血を上らせた。
まさか、先生までこんなことを知っているなんて思いもしなかったのだ。
「ははは…。そんな顔するな。大丈夫だ、他の先生達には知られてないよ」
本を閉じると、中島先生は俺に座るように自分の隣を示した。
俺が座ると、ポケットからキャンディをひとつ取り出して俺にくれた。
「あ、ありがとうございます」
「食いな。朝は血糖値を上げた方がいい」
「はい…」
包みを剥いて俺は中のピンク色のキャンディを口の中へ入れた。甘酸っぱいピーチの味だった。
「俺は学校の先生とは違うからな。チクったりもしねえし、みんな俺のところへ来ちゃ、色々と喋ってくんだ。殆どが下らねえ話だが、一応、メンタル面のサポートもしてるし、相談も受ける。高梁も、なんかあったら喋りに来い。切羽詰る前にな」
「は、はい。ありがとうございます…」
背が高くてスマートで、メタルフレームの眼鏡が良く似合う見た目は繊細そうな先生だったが、喋ると感じがまるで違う。さばさばとして豪傑っぽい雰囲気に俺はちょっと吃驚した。
「それから…」
急に笑みを引っ込め、中島先生は真面目な顔つきになった。
「幾ら相手が好きでも、軽々しくヤらせねえこと。男同士のセックスはおまえらが思ってるよりもずっとリスクが高い。分かるな?」
先生の言葉に驚いて、俺は舐めていたキャンディを飲み込みそうになってしまった。
慌てて胸を叩くと、先生は笑いながら俺の背中を叩いてくれた。
「す、済みません…」
やっと息をつき、俺が謝ると先生は苦笑しながら頷いた。
「まあ、高梁は清純そうだから大丈夫だろうけどな。相手も小金井じゃ、無理なことはしねえだろ」
「そっ…」
なんと答えたらいいのか言葉に詰まり、結局俺は真っ赤になって俯いたままで黙ってしまった。すると、先生は面白そうに笑った。
本当に、見た目と違って豪放な性格らしい。だからこそ、色々な生徒に頼りにされて相談なども受けるのだろう。
初めてまともに喋ったのに、いきなりこんな話題になって俺はどぎまぎするしかなかった。
でも、先生は気にも留めていないらしく、飄々とした顔つきで話を続けた。
「俺は大抵医務室に居るし、寮の部屋にも気軽に来ていい。本当に何かあったら独りで考えないですぐに来いよ。それから、別に用が無くても遊びに来ていいからな?」
「は、はい。ありがとうございます」
俺が頭を下げると、先生は笑みを見せて言った。
「高梁は独りで考え込むタイプっぽいからなぁ。吐き出す場所を作っといた方がいいぜ」
「そ、そんな…。俺…、別に何も悩みとか無いですよ」
親切に言ってくれたが、それでも初対面に近い先生にまだ自分の悩みを話す気持ちにはなれなかった。
それに、片想いの悩みなんておいそれと人に話せるものではない。
「そうか?まあ、悩みは無くても時々喋りに来いよ。真藤なんかも来てるぜ。用もねえのに、良く来る……」
言いながら先生は苦笑気味に笑った。
そう言えば真藤先輩は部屋に居ないことが多い。友達の所に行っているのだとばかり思っていたが、どうやら中島先生の部屋もテリトリーに入っているらしかった。
「あいつもなぁ、ちゃらちゃらしてるように見えて、誰よりも人の気持ちを気遣ってる。その上、自分のことは二の次だから危なっかしくてなぁ…」
先生の言葉に、俺は少し驚いた。
中島先生が真藤先輩のことをこんなにも理解しているなんて思わなかったのだ。
多分、先輩の表面に隠された本当の姿を知っている人は少ないだろう。それなのに、一番近くに居るように見える俺たちよりも先生は先輩のことを分かっているようだった。
もしかすると、先輩の好きな相手のことも先生は知っているのだろうか。
「中島先生って独身ですか?」
何だか急に気になって俺はそう訊いた。
すると、先生は唇を歪めながら肩を竦めて見せた。
「こんなトコで寮生活してんだぜ?独身に決まってるだろ?」
「でも、結婚してても教員寮で生活してる先生も居るんでしょ?」
「ああ。単身赴任の先生も何人かいるけどな。後は下の町に家族で住んでる先生とか。……けどやっぱ、ここは先生達も独身率が高いぜ。若い先生が多いもんな」
「先生だって若いじゃないですか」
まだ20代に見える先生に俺はそう言った。
「ははは…。俺ぁ、こう見えても結構歳食ってんだぜ。バツイチだしなぁ」
「そ、そうなんですか?」
意外な発言に俺は驚いて聞き返した。
「ああ…。勝手なことばっかりやってるんで、愛想つかされて出て行かれちまった。まあ、だからここの仕事も請けたんだが…」
なるほど、中島先生がこの学校に来たのにも、こういう事情があったのだ。
「お…。そろそろ食堂の準備が始まるな。厨房から小母ちゃんたちが出て来たぜ」
先生の言葉に俺も食堂の中を見た。
もう料理は出来上がったのだろう。小母ちゃんたちが数人でテーブルなどの準備を始めるところだった。
「ホントだ。じゃあ先生、俺、そろそろ行きます。飴、ご馳走様でした」
「高梁……」
立ち上がった俺を先生は引き留めるように呼んだ。
「はい?」
「眠れないんじゃないのか?マジで何かあったら来いよ?」
俺の目の下の隈に気付いていたのだろう、先生は心配そうな顔をしていた。
「ち、違います。夏休みだからいい気になって夜更かししちゃって…。別に眠れない訳じゃないですよ」
「そうか。じゃあ、またな?」
「はい…」
もう1度頭を下げて、俺は中島先生と別れた。
やっぱり、目の下の隈はかなり目立つらしい。見られて、また慶に心配されたらと思うと、気が重かった。